信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:大御食神社社伝記( 11 )

「氷上姉子神社:うつくしのもり」と「五郎姫(いついらつひめ):美女ヶ森」のこと

「地名は第一級の歴史資料」

「氷上姉子神社:うつくしのもり」と「五郎姫(いついらつひめ):美女ヶ森」のこと

■氷上姉子神社がある。
 ご祭神 宮簀媛命(みやすひめのみこと)
仲哀天皇の時代に創祀され、持統天皇四年(690)、現在地に遷座致しました。故地は宮簀媛命の父神の館があった地とされます。この地は往古、火上の里とよばれていました。永徳3年(1382)、社殿が火災にあったため火の字を避けて「氷上」と改め、火高は「大高」に改めたとされております。(Webより)

・ここは尾張国造・乎止与(おとよ) の館跡で、火災の前までは「ホノカミアネコジンジャ」といったであろう。
乎止与はヤマトタケの妻簀媛姫の父で、木曾路から帰ったヤマトタケは、アイチタ(愛知多:間沈方) にあるここ乎止与の家 (火上の里:氷上姉子神社) で、簀媛姫としばらく過ごした。

■大御食神社の「神代文字で書かれた社伝記」にはこうある。

軽島の明宮に坐給ひし 品陀和気ノ尊の御代三十八年の水無月九日の朝 まだき小暗きに、上穂ノ里太郎真彦の弟(おと) の子 八尾取(やおとり) というに憑りていわく、

「吾は日本武尊なり、尾張ノ国なる厳郎女(いついらつひめ) と共に住まむ。迎えませよ」。

また「乙女の床の辺に、吾が置きし剣の太刀その剣はや」と言いて、社を巡り巡りたり。

よりて御食彦の裔 瑞健彦、阿知の真主 篠建大人 阿知島ノ里に住む大武彦と議りて、秋文月二十二日(あきふづき はつかまりふたひ)と云う日、尾張ノ国 熱田ノ宮より 草薙ノ剱の御霊代、また美しの杜に坐す宮簀姫またの名は厳郎姫を迎えまつりて、所の名を 美しの杜と御名負はせまつる。

… このことから、大御食神社の社叢を「美女ヶ森」と、氏子らは親しみを込めていう。
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■さて、大御食神社の祭神は日本武尊と宮簀媛だが、祭典には宮簀媛のことを「五郎姫」と著したのぼりを立てる。

社伝記の中で、「吾は日本武尊なり、尾張ノ国なる厳郎女(いついらつひめ)と共に住まむ。迎えませよ」とのことば、「いついらつひめ」を、氏子らは「 五(いつ) 郎女(いらつひめ)」と記した。

大御食神社から分かれた「五郎姫神社」が近郷に数ヶ所有りますが、中には御祭神が解らないとする神社もある。

郎女(いらつめ) とは、「い(熟) ら」+「つ(区分)」+「め(女・姫)」であり、いつ は、文字通り「厳」だ。

だから、「神社の称号となっている「姉子」はいま使われているような「姉御」のことではなく、「夫のない乙女」の意味で、宮簀媛命を指す」…とも。

とりとめも無い文になってしまったが、5月1日にここへ参拝したとき、和服姿の「姉御」と覚しき人たちとすれ違い、心が温かくなった。



by hansaki460 | 2019-05-03 09:00 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

美しの杜物語のエピソード

菅江 真澄(すがえ ますみ:1754-1829)が、1784年、信濃国本洗馬村に逗留していたときの著書に「洲輪の海(スワノウミ)」がある。

その中で、江原村(元塩尻市広丘郷原:ゴウバラ)で見たという「西行上人の筆なるを写しきし」を紹介している。


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神祇道ハ我国ノ大租ナレバ糸竹ノ直ナランコト
ムネニタエナカラン
  駒ガ嶽 スソ野ノ森ニ 来テ見レバ
  小町ガ家ニ ハヤス七草

西行は、12世紀半ばに東北を訪ねている。
その道中に東山道を通り大御食神社に立ち寄ったと思われるが、西行が記した「小町ガ家」とはどういう意味があるのだろうか。
「小町谷」姓が系図に顕れるのは、応永(1394-1427)の頃であるから、知れる資料の範囲ではまだ小町谷を名乗っていない。

西行法師には、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ1101~1145没44才)への叶わぬ恋の物語がありますが、日本武尊と押媛の恋物語を、押媛=后町=小町を璋子に掛けて偲び「小町ガ家」と読んだのではないだろうか?
宮殿内の、皇后・女御(にょうご)などの居所・常寧殿(じょうねいでん)の別名を「后町(きさいまち)」という。だから「采女屋敷」といい「小町ガ家」といい、連綿とヤマトタケと押媛の物語は伝わっていたのです。

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一方「小町屋」という地名の起こりは、鎌倉幕府が定めた商店街制度にある。
小町屋の気賀沢不動産は「門屋」という名門旧家で、遠州からの薬を商い早太郎伝説伝承に大きく関係した家柄ですが、在する10110番地は「小町屋古屋敷」と小字にあります。
小町屋という地名は慶安二年(1629)の御検地帳にあることから、鎌倉時代ころから栄えた場所であったろうと推定される。


by hansaki460 | 2018-06-30 09:25 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

アヒル草文字で書かれた「大御食神社社伝記」01

アヒル草文字で書かれた「大御食神社社伝記」01

纏向の日代ノ宮に 天下 治ろしめし給ひし、大足彦忍代別ノ天皇[景行天皇]の御代、日本武尊 東の蝦夷ら征平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。
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日本武尊がこの地に来た年は、大足彦忍代別ノ天皇の御代、とだけあり、年数は書いてない。明治十二年内務省達による神社明細帳には、「景行天皇四十一年、日本武尊東夷を征和して、帰路を信濃に取りて、赤須の里に至り、云々」とある。

日本書紀では、「日本書紀 卷第七 四十年夏六月東夷多叛辺境騒動・日本武尊出動 冬十月壬子朔癸丑 日本武尊発路之(冬十月二日、日本武尊は出発された)」とあり、また東征の途中に冬の記述がないことなどから到着時期は、「景行天皇四十一年」であろうと推定される。

尊は古来「ヤマトタケノミコト」と呼ばれていた。社伝記は、「ヤマトタケノミコト」と阿比留草文字で記している。

他の古伝(ホツマツタヱ など)でも、「ヤマトタケ」とある。「ヤマトタケノミコト」を「日本武尊」と宛字したものを、「ヤマトタケルノミコト」と読ませるようになったのは、江戸の国学者 伴信友が 著書『比古婆衣』の中で主張してからである。
by hansaki460 | 2018-02-15 11:28 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

八華形之御鏡と、花禽双鸞八花鏡

八華形之御鏡(やつはながたのみかがみ) と、花禽双鸞八花鏡(かきんそうらんはちかきょう)

阿智村 阿布知神社は、駒ヶ根市 大御食(おおみけ) 神社の本家筋に当たる。
阿智村 阿布知神社の御鏡 花禽双鸞八花鏡は、和泉市久保惣記念美術館蔵の花禽双鸞八花鏡の踏み返しの鏡である。

踏み返し技法とは、原型鏡の文様を写した鋳型を使い作る方法のことで、阿布知神社の鏡は、比較的原型に近く、地元伊那郡家など官衞関連の工房で作られた可能性が高い。
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ならば、大御食神社社伝記の記載された八華形之御鏡との関連はあるのか?
・・・興味は尽きない。

by hansaki460 | 2017-11-20 18:09 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

大御食神社「昔時年代記・社伝記」を読む


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by hansaki460 | 2017-06-21 05:55 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

大御食神社、創祀年度 考

大御食神社の創祀年度は、神社明細帳では 五十八年、社伝記では 四十八年とある。

明治十二年の 神社明細帳にある「大御食神社・由緒」には、神社の創祀年度が、景行天皇五十八年とある。

一方、その根拠となる 神代文字・阿比留草文字で書かれた「昔時年代記・社伝記」には、景行天皇四十八年とある。

【明治十二年 神社明細帳】
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【解読及び神社明細帳との比較】
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「よ」の字は、「や」とも読めるが、おそらく写し間違いであろう。

大御食神社の 正しい創祀年度は、景行天皇 四十八年・西暦118年である。


by hansaki460 | 2017-06-18 12:33 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

阿比留草文字で書かれた「大御食神社社伝記」を読む【01】

大御食神社社伝記【01】

【 纏向の日代ノ宮に 天下 治ろしめし給ひし、大足彦忍代別ノ天皇の御代、日本武尊 東の蝦夷ら征平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。】

日本武尊がこの地に来た年は、大足彦忍代別ノ天皇の御代、とだけあり、年数は書いてない。明治十二年内務省達による神社明細帳には「景行天皇四十一年、日本武尊東夷を征和して、帰路を信濃に取りて、赤須の里に至り、云々」とある。

日本書紀では、「日本書紀 卷第七 四十年夏六月東夷多叛辺境騒動・日本武尊出動 冬十月壬子朔癸丑 日本武尊発路之(冬十月二日、日本武尊は出発された)」とあり、また東征の途中に冬の記述がないことなどから到着時期は「景行天皇四十一年」であろうと推定される。

纏向(まきむく) の日代(ひしろ) の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」,「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか? 同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。(播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。
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Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ) にあった筑紫の大宰 (つくしのだざいという役所) を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃) は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713) で、日本書紀の完成が養老4年(720) 。
倉野憲司や井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。
by hansaki460 | 2016-08-28 21:03 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

『 古代の祭祀 』

応神天皇39年(308) の記録から、合祀の様子を読む。

神社祭祀規定によると、「合祀祭」は「大祭とする」とある。
いわゆる重要なお祭りと言うことだが、大御食神社の社伝記に、応神天皇39年(308)、宮簀姫をお迎えしたときの記録が遺されている。


 -略-
軽島の明宮に坐まし給ひし ホムダワケノミカド(応神天皇) の御代 三十八年(みそじあまりやとせ)
 -略-
秋 文月(ふつき) 二十二日(はつかまりふたひ) と云う日、尾張ノ国 熱田ノ宮より 草薙ノ御剱(みつるぎ) の御霊代(みたましろ)、またうつくしの杜に坐す 宮簀姫 またの御名は 厳郎姫(いついらつひめ) を迎え奉りて、所の名を「うつくしのもり」と み名 おはせ奉る。

熱田ノ宮より迎え奉る その装は、いかし縦鉾、日の御旗、月の御旗、覆衾、御榊にゆふ取り垂て 迎え奉れり。

また、先のためしの随に、御黒酒 御白酒 はた大御食 種々の物を、山成す如く供え奉りて、おちこちの里人 集ひ、七夜七日 宴のとのい 奉りき。
 -以下略-


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 少し分解してみよう。

熱田ノ宮より迎え奉る その装は、
いかし建て鉾、
日の御旗、月の御旗、
覆衾(おおいふすま)、
御榊に木綿(ゆふ) 取り垂て
迎え奉れり。

いかし建て鉾、とは何か?
・これは、今に残る剣鉾の原形で、トホコの教の「ト」の象徴であると推察する。

日の御旗、月の御旗、とは何か?
・明治維新の錦の御旗に象徴されるものの原形で、日月=日継のことで、「ト」の教と同じく正統性を象徴するものと推察する。

覆衾(おおいふすま)、とは何か?
・覆衾 が、「真床覆衾(まどこおふすま)」の事ならば、神座の名称であり、「大嘗宮神座の寝具・御衾」を指すと解釈する真床覆衾説ではなく、従来の天孫降臨神話由来説が正しいと思われる。

これらのことから、祭祀は、その神社や御祭神の出自由来を顕すものだと思われる。
by hansaki460 | 2016-07-19 19:22 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

Wikipediaに「大御食(おおみけ)神社」を新規投稿 &【放射性物質拡散予想図】

Wikipediaに「大御食(おおみけ)神社」を新規投稿



私の 長らく懸案だった ことなのですが、Wikipediaに「大御食神社(おおみけじんじゃ)」を新規投稿しました。

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・大御食神社 Wikipedia


Wikipedia への投稿は、すべてが初めてのことなので 苦労をした。

原稿は、構想・資料集めで 1週間ほど費やしたが、投稿作業は一気に 昨夜 徹夜で行った。^^;


・・・これから散歩して、・・・温泉に行って、・・・一寝入りです。^^


   
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by hansaki460 | 2012-09-13 09:12 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

大御食神社 由緒 -1

大御食神社 由緒 -1

景行天皇40年(A.D.110年)10月に、天皇は、日本武尊に蝦夷征討を命じました。
命に従った倭武ノ尊は、その後 東の蝦夷等 言向け平和(やわし) 給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を 御還りし給ひし時に、この赤須ノ里に至りました。
時に赤須彦は、御蔭の杉の木の下に仮宮を設けて、八重管薦(やえすがこも) 八重を敷き並び、厳し(いか)楯矛 御旗立て並べて、いと厳かにしました。 待饗し給ひして、倭武尊を迎えたてまつりました。

その後、大足彦忍代別天皇(景行天皇)の御代、四十八年に、御食彦は 御蔭の杉の木の下に御安楽居(みやすらい)したその仮宮を 神の御殿に見立て、倭武尊を祝い祀りて 大御食ノ社と御名を附け 奉りました。

すなわち、大御食神社の建立は、A.D.118年に 御食彦(赤須彦)が、かつて日本武尊を待饗(まちあい)し給ひた時に設けた、御蔭の杉の木の下の仮宮に、日本武尊を祝い祀りて、『大御食ノ社』 と御名を附け奉ったのでした。

ですから今年は 創立から、1892年目にあたります。
卑弥呼(175年頃~248年頃)の時代より、一世紀(100年)ほど前のことで、まさに弥生時代の、稲作技術導入によって 日本での水稲耕作が開始された時代です。

社伝記によると、当時の赤須彦は、赤須ノ里の長で、小出の里、宮田の里、上穂の里、中沢の里、石曽根の里、片桐の里、与田切の里、大草の里、市田の里、飯沼の里、知久の里、育良の里、それに 阿志島の里、と あわせて十三の里の長たちと同盟関係にあったことが読み取れます。

ちなみに奈良時代の、信濃国の郡と郷(『倭名類聚鈔』931-938 編纂)の中では、
伊那郡の郷は、伴野、小村、麻績、福智、輔衆、となっています。
(飯田市座光寺に麻績神社がありますが、ここは旧伊那郡麻績(おみ)郷です。)

この分類時には、国家体制は既に律令制になっていますから、伊那谷には輔衆という様な、体制に係わる地名もありました。
推測するに、輔衆=俘囚であろうと思われます。
なぜなら、大和朝廷にとって伊那谷は、まつろわぬ民の地であり、後に藤原氏一族の荘園の地となり、また天台の寺をして伊那谷全体を支配した、政治的にはまさに虐げられた地でありました。

伊那谷は『まつろわぬ民の地』、と言うことは、大御食神社の存在と多いに関係があります。
by hansaki460 | 2010-01-12 20:56 | 大御食神社社伝記 | Comments(4)