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8月21日まで ソ連軍から北海道を守り抜いた 占守島の第91師団ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の 8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が 占守島に上陸、日本軍守備隊と戦闘となった。 これを迎えうけ1945年8月18日~21日、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘を【占守島(しゅむしゅとう)の戦い】という。 ソ連はヤルタ会談の秘密協定で米英から、千島列島をソ連に引き渡すという言質は得ていた。 しかし終戦3日前の8月12日、占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が、米艦隊に全滅させられ、88名の戦死者を出している。この地域に米軍が進出していたのだ。 つまり、日本固有領土の千島列島を、米英が簡単にソ連に引き渡すか疑問を持っていたソ連は、ヤルタ会談の秘密協定ではなく、自ら千島を占領しようとしたのだ。 ソ連はその後米国に対して北海道の分割統治の要求を行っている。 つまり 千島侵攻が成功していれば北海道まで侵攻しようとする意図があった。 8月15日 04:30 ソ連軍は作戦行動開始した。 12:00 日本玉音放送。ソ連軍乗船開始 8月16日 17:00 ソ連軍乗船完了 8月17日 02:00 ソ連軍出航 国端崎の監視所からは「海上にエンジン音聞ゆ」と急電がはいった。 (このとき日本軍守備隊第91師団は、すでに武装解除準備をすすめていた) 22:45頃 ソ連軍ロパトカ砲台から 占守島の日本軍守備隊に向けて 海峡越え砲撃が開始された。 8月18日 00:30頃 日本軍 射撃開始命令 01:10 ソ連軍先遣隊 竹田浜に殺到 第91師団は 国端崎の砲兵、竹田岬と小泊崎の速射砲・大隊砲が協力して反撃を開始。 そして 陸海軍航空機による決死の反撃を行うとともに、重砲によって 敵部隊への砲撃を行い、ソ連軍の指揮系統を 大混乱に陥らせた。 10:00ごろ ソ連軍の上陸軍主力が アルチューシェン大佐の独断により 対戦車隊攻撃。 15:00ごろ 男体山中腹周囲に ソ連兵が浸透。 激戦の中、第91師団の参謀長と世話役の大尉は、日魯漁業の 女子工員のことを気遣った。 島には 缶詰工場があり、従業員の中には 約 400人の 若い女子工員も混じっていたのだ。 「このままでは 女子行員たちは 必ずソ連軍に陵辱され被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返さなければならない。 いまがチャンスだ」 二人はそう申し合わせると、すぐに部隊に命じた。 15:00 日魯漁業の女子従業員に 非常召集。 柳岡参謀長から 内地への引き揚げ命令。 16:00 日魯漁業の女子従業員が 出航。 島にあった20数隻の漁船に 女子工員 約400名を分乗させ、ソ連航空機による爆撃が続く中、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させた。 戦いは4日間続き、戦闘は激烈を極めた。 日本軍は武装解除後 分散されたため、死傷者の正確な数をつかめなかったが、日本軍の死傷者約 600名、ソ連軍の死傷者約 3,000名という。 (ただし、ソ連側の数値によれば日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名) 第91師団は、敵ソ連軍を圧迫し 海岸付近に釘付けし、一歩も内陸に前進させず、あと一歩で ソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰めた。 停戦交渉 第91師団司令部は 18日15時、軍使を派遣したが、ソ連軍に拘束され 両軍の連絡は確立されなかった。 翌19日朝、新たな軍使を派遣し 接触を確認した。 しかし 最高指揮官の出頭を要求し 交渉に応じず、師団参謀長や旅団長らが 3度目の軍使として送られた。 会談でソ連側は、停戦のみでなく 武装解除などを要求し、日本側軍使は最終的にこれに同意した。 占守島と幌筵島の日本軍を 武装解除したソ連軍は、27日までに 捨子古丹島までの日本軍を武装解除した。 日本軍の抵抗はなかった。 しかし、占守島にいた日本人約 25,000人は、武装解除後、上陸してきたソ連兵によって 民間人を含めて全員逮捕され、10月中旬に 目的地も告げられぬままソ連船に乗船させられ シベリアへ抑留された。 シベリアに到着した時、人数が 5000人に減っていたという話もあり、また途中で多くの日本人が殺され、シベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約1割が亡くなっている。 故 森繁久弥氏は 随筆集の中で、氏が同行見聞した 満州やソ連からの引き揚げ者の悲惨さを書いているが、胸がえぐられる思いがする。 私の両親や祖母姉らは、父が兵役で負傷した後に勤務した 軍属任務のために半島へ一家で赴任し、終戦で引き上げたが、よくその苦労を聞かされた・・・・。
by hansaki460
| 2013-08-22 15:08
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