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信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎


大和朝廷に征伐された クモ(土蜘蛛)とエビ(蝦夷)②

大和朝廷に 征伐された
     クモ(土蜘蛛) と エビ(蝦夷)②


糠部郡(ぬかのぶ ぐん) に 追われた 民たち

◎ 『 近衛府 』(このえふ)を 「 ちかき まもりの つかさ 」 と言います。
すなわち 君主を警衛する 直属の軍人 または 軍団をいいます。 (九重の守りの門)


◎ 『 関所 』 は 古代には制度化され、東海道の 「鈴鹿関」、東山道の 「不破関」、北陸道の 「愛発関」(後に 「逢坂関」 に替る) が、畿内を防御するための 三関 といいました。 三関 から東は 関東(関の東の国)です。

その後、常陸・陸奥国境に 『 勿来関 』、下野・陸奥国境に 『 白河関 』 (白河の初出は 718年(養老2))、越後国・出羽国国境には 『 念珠関 』 が設置され、これを 「 奥羽三関 」 といいます。


◎ 『 戸 』 は、柵戸(さくこ) で、弘仁年間(810~824)に 文室綿麻呂が 東北に遠征し、駐屯地として 設置しました。

朝   廷     近衛  九重(ここのへ)の守り (九重の門)
近   畿     関所  戸が二つで門と書く   (戸が二つの門) 
まつろわぬ民  戸    戸扉             (戸が一つの柵)

大和朝廷に征伐された クモ(土蜘蛛)とエビ(蝦夷)②_e0171497_10513383.jpg

◎ ここからが本題です。

教科書の歴史では、

源頼朝は 奥州藤原氏を 滅ぼしたのち、1189年以降 糠部郡を置き、1219年には 南部光行を 地頭に 任命した。

甲斐出身の 南部光行は、牧場経営に手腕を発揮し、糠部郡を 九つの戸に分け、牧場を置き、東西南北の 四つの門に 分属させた。
(九戸四門の制)  ・・・・・写真 

つまり、一戸~九戸の 地名の 由来には、
(1) 平安時代の 東北制圧の 前線基地に 起源を求める 考え方
(2) 鎌倉時代の 牧場制に 関連させる 考え方が あるようです。

以上が、教科書の歴史です。


しかし、古代の東北の動きを見ると

712(和銅3)年  平城京遷都
724(神亀1)年  朝廷が、東北制圧の拠点・多賀城造営
767(神護景雲1)年 伊治城(宮城県築館町)造営
774(宝亀5)年  蝦夷の抵抗始まる
786(延暦5)年  朝廷軍が胆沢攻撃へ
789(延暦8)年  続日本紀に阿弖流為(アテルイ)の名が登場。
           朝廷軍52,800人が 第1回 胆沢攻撃。
           アテルイ率いる蝦夷が 北上川東岸の巣伏村で対戦。
           ゲリラ戦で朝廷軍に 歴史的勝利
793(延暦12)年 坂上田村麻呂が 約10万人の兵を率いて、第2回 胆沢攻撃。
           アテルイ軍、大打撃を受ける
801(延暦20)年 朝廷軍が 第3回 胆沢 攻撃。
           アテルイ軍、力尽く。 朝廷軍が 胆沢制圧。
802(延暦21)年 田村麻呂が 蝦夷支配の拠点・胆沢城(水沢市)を造営。
           アテルイ、モレと 蝦夷 約500人が 田村麻呂に降伏。
           アテルイとモレ、河内国(大阪府枚方市付近)で 斬首される。
803(延暦22)年 志波城(盛岡市)造営
811(弘仁 2)年 徳丹城(矢巾町)造営


すなわち、大陸系の 『 藤原朝 』 が、列島の原住民(北方系、南洋系)を 土蜘蛛(クモ)・蝦夷(エビ)と称して、多民族国家の 支配を 進めました。


クモ と エビ = 原住民 の歴史です。^^

( 言葉が 少なくて、誤解を 生むかも ・・・。 ^^; )
by hansaki460 | 2010-07-02 10:52 | 歴 史 秘 話
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