信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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まぼろしの
吾道之宮


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無病息災願い「やに回し」

「をけら詣り」と「やに回し」

『新撰姓氏録』の、諸蕃 帰化人系の氏族 326氏の中に、
 八坂造 出自 狛国人 久留 川麻乃 意利佐也 …とある。

これを、

・八坂造(やさか の みやっこ) は、久留(くる) 川麻乃(せんまえ) 意利佐(おりさ) の 狛(こま) 国人(高句麗人) の出身。

と読む。すなわち、

・久留(クル) は、中国・江南(長江の南) にあった クル=呉 のこと。
意利佐(オリサ) は、インド東部のオリッサ州。
川麻乃(センマエ) は、呉とオリッサの中間にある、タイのチェンマイのこと。

・祇園祭りの伝統を守ってきた 京都、八坂神社の社家・八坂一族は、インドのオリッサ州から、タイのチェンマイ、中国の 呉 を経て、朝鮮や日本にやってきた、コマ国(高句麗=狛国) の人である、……と読める。
http://utukusinom.exblog.jp/12910488/

 さて、その八坂神社には、白朮(をけら) 祭が伝わる。
 古式にのってきりだされた御神火は、大晦日の除夜祭斎行の後、灯籠にともされ、「をけら木」とともに、焚かれる。
「をけら詣り」は、移した火を消さないように火縄をくるくると回しながら持ち帰えり、神棚の灯明に灯したり、雑煮を炊く火種に用いるなどして新年を祝う、京都の正月の風物詩だ。

 「おけら」は、虫ではなく薬草だとするが、八切止夫はこう言う。
 七世紀、大陸人が日本へ来て以来、日本原住民がレジスタンスをすると、「根の国で行かしてやる」と、生き埋めにして土砂をかけて蓋とした。
 そのうえ奴隷となった者らに足で踏み固めさせるのが、今も残る「ネブタ祭り」で、怨霊が穴から這い出ないかと根株が、地面にバリケードをはるように生い茂る「求」という草の種をもってきて植えた。
 それを、薬草だと言った、と。
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そんな「をけら詣り」の変形した祭りが、信州伊那谷に伝わる。
無病息災願い「やに回し」 辰野町唐木沢
嗚呼、已矣哉!
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# by hansaki460 | 2017-01-29 12:22 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

日抱宮(ひだきのみや) のこと

日抱宮(ひだきのみや) 白井神社 【岐阜県高山市丹生川町白井】

祭神 五十猛大神、お祭 例大祭9月1日とされているが、本来は祭神などない「日抱宮」です。
江戸時代に十八ある日抱宮が伊太祁曽神社と改名させられたが、この白井地区の住民は他地区の伊太祁曽神社に合祀されたのを、元の場所に取り返して奉斎した。
狛犬は社殿最奥にしまい込んだという。

日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ) は飛騨のあちこちで大昔から行われ、丹生川村では、魂鎮の地が日抱宮(ひだきのみや) となった。他にも何社か残っているという。

飛騨の古代人は乗鞍岳を拝み、飛騨の中心に高くそそり立ち頂上に広い平地があり巨石のある山、日本の中央の分水嶺でもある位山を拝み、その山の巨石を磐座として、その横に天照大神(ヒルメムチ) やそれ以前の先祖を葬り拝んできた。
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★みかさふみ 『"如何んぞ君を 生まん" とて 日の神を生む その御名を 太陽霊貴また 和照らす 大御神とぞ 称えます』

三部の神道とは、宗源道(カンツモト)・斉元道(カンツイミ:いつきみもとのみち)・霊宗道(カンツムネ)の三部五鎮の神道のことをいい、
宗源=神道神学と祝詞を意味し、(天児屋根命)
斎元=祭事の要領(ヌサなどの祓い具による祓い)を、(天太玉命)  
霊宗=霊覚を開き、神々と感応する方法を教える、(天思兼命=吾道家)  とします。

このうち、霊宗は、天思兼命(吾道家) が伝えてきたと思われますが、吾道家のある伊那の地は、やがて藤原(中臣) が 天台の寺を隅々まで布陣し、その勢力と権力で吾道宮は消滅し、霊宗は簒奪されてしまったと思われます。
http://utukusinom.exblog.jp/24540778/

吾道家が伝えてきた「霊宗道」は、この「日抱御魂鎮」ではなかったのか?
(吾道家は、飛彈に隣接しています)
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# by hansaki460 | 2017-01-29 05:25 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

地名の三日町は、三日待ち

長野県箕輪町にある「南宮神社(祭神:建御名方命、八坂刀売命)」には、春宮と秋宮がある。

建御名方命は秋宮と春宮とを半年ずつ遷座し、それを「御神渡り」といい、毎年の祭事である。

初夏に行われる春宮から秋宮への遷座のあと建御名方命(祭神) は、山中に建てられた「御旅所」と呼ばれる「穂屋」に三日間、避暑に行った。

現在の穂屋
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その三日の間、お供の者たちは麓で待機し、その場所を三日待ち(三日町) と称するようになった。


思うに、全国にある三日町・六日町・十日町等の地名も、町=待ち ではあるまいか?
雪に閉ざされて、動けなくなり、六日も十日も待たされたと云う事では無いだろうか?

ただ、町=市場 と、まことしやかに言う識者らが巨万といるから、手に負えない。(^^

【……三日町の地名から、中世ここでは市が聞かれたにちがいないが、その姿を窺い知るすべもない……(箕輪町誌)】

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# by hansaki460 | 2017-01-17 08:09 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

日本文明の源泉は、ムー

日本には、大陸より以前に文明があった。

『山海経』には『東海に…君子国あり、衣冠をつけ剣をおびる。』との記述があり、太古から東の海中に、「スメラミコトの御座す国」があることを知っていた。

支那古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立した『山海経』(せんがいきょう) は、最古の地理書(地誌)とされるが、その中の
 
第九  海外東経『君子国…あり、衣冠をつけ剣をおびて獣を食らう。』

第十四 大荒東経『君子国あり、衣冠をつけ剣をおびる。』

とある。
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日本文明の源泉は、ムーである。

大陸の文明より古い!
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# by hansaki460 | 2016-10-09 21:23 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

阿比留草文字で書かれた「大御食神社社伝記」を読む【01】

大御食神社社伝記【01】

【 纏向の日代ノ宮に 天下 治ろしめし給ひし、大足彦忍代別ノ天皇の御代、日本武尊 東の蝦夷ら征平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。】

日本武尊がこの地に来た年は、大足彦忍代別ノ天皇の御代、とだけあり、年数は書いてない。明治十二年内務省達による神社明細帳には「景行天皇四十一年、日本武尊東夷を征和して、帰路を信濃に取りて、赤須の里に至り、云々」とある。

日本書紀では、「日本書紀 卷第七 四十年夏六月東夷多叛辺境騒動・日本武尊出動 冬十月壬子朔癸丑 日本武尊発路之(冬十月二日、日本武尊は出発された)」とあり、また東征の途中に冬の記述がないことなどから到着時期は「景行天皇四十一年」であろうと推定される。

纏向(まきむく) の日代(ひしろ) の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」,「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか? 同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。(播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。
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Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ) にあった筑紫の大宰 (つくしのだざいという役所) を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃) は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713) で、日本書紀の完成が養老4年(720) 。
倉野憲司や井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。
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# by hansaki460 | 2016-08-28 21:03 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)