信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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HP
まぼろしの
吾道之宮


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実録 やまと言葉

古代文字で書かれた大御食神社の社伝記には、
二千年前のやまと言葉が記されています。


【年月の数え方】


三夜三日 (みよ みひ)
三年   (みとせ)
五日   (いつか)
五年   (いつとせ)
七夜七日 (ななよ ななひ)

十一日  (とまり ひとひ)
十一年  (とまり ひととせ)
十四年  (とまり よとせ)
十五日  (とまり いつか)
十六日  (とまり むひか)

二十年  (はたとせ)

三十二  (みそしあまり ふた)
三十八年 (みそじあまり やとせ)
三十九年 (みそじまり ここのとせ)
四十年  (よとせ)
四十二年 (よそじあまり ふたとせ)
四十八年 (よそじまり やとせ)
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【人数の数え方】
一人   (ひとり)
二人   (ふたり)
五人   (いつたり)
十一人  (とまり ひとり)
十九人  (とまり ここのひと)
二十一人 (はたまり ひとり)
二十二人 (はたまり ふたり)
三十七人 (みそしまり ななたり)

【寸法の数え方】
一尺   (ひと さか)
五寸   (いつ き)
八寸   (や き)

【その他】
二夜   (ふたよ)
三夜   (みや)
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# by hansaki460 | 2016-08-01 05:30 | やまと言葉 | Comments(0)

三部五鎮の霊宗道の「降霊際」

信濃国阿智村の阿智神社奥宮で、先日「降霊際」が行われました。

阿智神社は、思兼尊が神上がった「辞な洞」で、磐座があるところです。

さて、先代旧事本紀大成経には「五鎮三部」の神道なるものが説かれています。

三部の神道とは、宗源(カンツモト)・斉元(カンツイミ)・霊宗(カンツムネ)の三部五鎮の神道のことをいい、
宗源=神道神学と祝詞を意味し、(天児屋根命)
斎元=祭事の要領(ヌサなどの祓い具による祓い)を、(天太玉命)  
霊宗=霊覚を開き、神々と感応する方法を教える、(天思兼命=吾道家)  
とします。

このうち、霊宗(カンツムネ) は、天思兼命(吾道家) が伝えてきたと思われますが、吾道家のある伊那の地は、やがて藤原(中臣) が 天台の寺を隅々まで布陣し、その勢力と権力で吾道宮は消滅し、霊宗は簒奪されてしまったと思われます。
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ところで先日行われた「降霊際」は、本来誰もいない神殿で神職だけがする行法・祭祀ですが、近年の諸事情で「祀り」を「祭り」としたようです。

阿知女作法という神楽を舞う神事があります、
このアチメの神事は、原初(ア) の霊(チ) が芽吹いてくる(メ) さまを再現する神事であり、サルメが 神がかり状態になって踊り、神託を伝える行事です。

その中では、アチメが桶の上で 榊の杖を突くごとに、神官がヒフミを唱え、五色のひもを結ぶという所作が、宮中の神事にはあるとのことです。

これらの、いわば「秘伝三部の神道」の霊宗(カンツムネ) を伝えてきた吾道家は、「阿智神社」を三〇年間探し求めた東嶺和尚らが、天明元年(1781) に神供霊祭を行ったが故にその存在が世に知られるところなり、間もなく大御食神社に十一棟あった「吾道宮(神官の邸宅)」が焼失し、ついに吾道宮は滅亡しました。

しかしここに形だけではありますが復活したことは、今後の励みになります。
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# by hansaki460 | 2016-07-20 18:56 | 幻の吾道之宮 | Comments(0)

『 古代の祭祀 』

応神天皇39年(308) の記録から、合祀の様子を読む。

神社祭祀規定によると、「合祀祭」は「大祭とする」とある。
いわゆる重要なお祭りと言うことだが、大御食神社の社伝記に、応神天皇39年(308)、宮簀姫をお迎えしたときの記録が遺されている。


 -略-
軽島の明宮に坐まし給ひし ホムダワケノミカド(応神天皇) の御代 三十八年(みそじあまりやとせ)
 -略-
秋 文月(ふつき) 二十二日(はつかまりふたひ) と云う日、尾張ノ国 熱田ノ宮より 草薙ノ御剱(みつるぎ) の御霊代(みたましろ)、またうつくしの杜に坐す 宮簀姫 またの御名は 厳郎姫(いついらつひめ) を迎え奉りて、所の名を「うつくしのもり」と み名 おはせ奉る。

熱田ノ宮より迎え奉る その装は、いかし縦鉾、日の御旗、月の御旗、覆衾、御榊にゆふ取り垂て 迎え奉れり。

また、先のためしの随に、御黒酒 御白酒 はた大御食 種々の物を、山成す如く供え奉りて、おちこちの里人 集ひ、七夜七日 宴のとのい 奉りき。
 -以下略-


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 少し分解してみよう。

熱田ノ宮より迎え奉る その装は、
いかし建て鉾、
日の御旗、月の御旗、
覆衾(おおいふすま)、
御榊に木綿(ゆふ) 取り垂て
迎え奉れり。

いかし建て鉾、とは何か?
・これは、今に残る剣鉾の原形で、トホコの教の「ト」の象徴であると推察する。

日の御旗、月の御旗、とは何か?
・明治維新の錦の御旗に象徴されるものの原形で、日月=日継のことで、「ト」の教と同じく正統性を象徴するものと推察する。

覆衾(おおいふすま)、とは何か?
・覆衾 が、「真床覆衾(まどこおふすま)」の事ならば、神座の名称であり、「大嘗宮神座の寝具・御衾」を指すと解釈する真床覆衾説ではなく、従来の天孫降臨神話由来説が正しいと思われる。

これらのことから、祭祀は、その神社や御祭神の出自由来を顕すものだと思われる。
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# by hansaki460 | 2016-07-19 19:22 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

米栽培は、年 50,000%以上の利回り商品

米(こめ)の力
古代から米栽培は、年 50,000%以上の利回り商品だから、現代も農家は農地法を死守する。
お米の栽培は種籾を催芽させてから籾すりまで約7ヶ月。
年1回の収穫だから12ヶ月が投資期間とすると、米一粒からとれる数は約500~1000粒だから、単純に言えば表面利回りは、50,000~100,000%になる。
米は自然の恵みではない。 米は血で購った宝である。 だから古代から為政者は百姓を「おおみたから」といって大事にして米を支配した。
米を栽培したのは姓を持った階層の、数多い人達だから百姓という。
だから古代から米を生産する者を、支配者はけして差別しなかったのである。
農民は搾取されたという見方は、金銭で納税されるようになった、近年の作り話である。
農家になれない人たちが、被差別にあったのだ。
さて、古代、為政者は籾を貸し与え、秋に回収した。 投資である。
「貸稲」(いらしのいね)や、「出挙」で、50%~100%の利子を払った。 しかし 50,000%の中の 100%なのだから けっして多くない。
秀吉の太閤検地で、その体制は変質したが、おかげで 家康は 始めから全国を、石高という同じ物差しで 支配することが出来た。
(荘園の一掃と、度量衡の統一)
都市部にある農協が、組合員(農家)の人数より職員の人数の方が多いのは、作物ではなく、元農地の利用から上がる、お金と不動産を管理しているからである。
話がそれたが、おおみたからは大切に保護された。 いわば特権階級だった。(異論はみとめる。(^^))
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今でも農家はことのほか優遇されている。
中世からの本百姓は別だが、江戸期に大きくなった豪農の多くは、小さな百姓に田畑を質にして金を貸し、取り上げた農地を元の農民に貸し与え、小作とした。 それを 「質地地主」 と呼ぶ。 
地主小作制の始まりである。 農家が農民を支配下に置いたのだ。 それが戦前まで続いた。 
50,000%以上の超超高利回りの投資商品である米は、江戸時代には世界に先駆けて先物取引市場を発展させた。
それを扱う 商人達の中から、石門心学のようなその後に発展した資本主義の精神が生まれてきた。
日本は世界の中で、ほとんどの分野で最先端を走っていたのである。 そこには米の存在があるのだ。
今でも米作りは、特権差別である。(農家が悪いわけではない) 
農地は、農家認定されていない非農家の国民は絶対に持てない。
戦後、農地解放で、ただでもらった土地が数十年たって、米の利回り位に値上がりした。 (農地解放を否定しているのでは ない)
だから、農家・農地を支配している 隠れたる者達は、古代の支配者と何ら変わらない。  形が変わっただけなのである。
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# by hansaki460 | 2016-06-15 10:48 | 一般 | Comments(0)

日本の正史(仮説)


1】根源神:天御祖は、天地創造の後も地球に御坐し、スメラミコトを遣われた。この時列島にいた人々は 『原ヤマト族』である。

2】時代は流れ、太平洋に今は無きム-大陸があったが、或る時突然沈没し始めた。彼ら『洋族』は故地を離れ、列島や華北平原,さらにその周辺部に拡散した。

3】列島に到達したムー直系の『洋族』は、その後南九州の高千穂国の成立に影響を及ぼし、後に高千穂国は、天御中主之神,高皇産霊神,天照大御神等の偉人を生んだ。

4】中国は,春秋戦国の時代を経て,前221年に統一された。
秦の始皇帝との覇権を賭けた戦争に破れた『倭族』の徐福集団は,東アジアに脱出し、列島,半島に分かれて定着した。

5】半島南部に定着した『倭支族』は,北からの圧力に対抗するために,三韓国:弁韓,辰韓,馬韓を結成した。

6】九州島に定着した『倭本族』はこれに呼応して『倭国』を結成した。これを『小倭国』 と称する。

7】時代は下り,半島南部では,三韓が任那,新羅,百済に移行した。

8】『小倭国』は,狗奴国が女王国を制圧し、東征して政権を樹立した。これが 『中倭国』 である。

9】この頃、三韓の民が列島に大量に入植した。 これが,古墳時代の幕開けである。
半島では、後に新羅が膨張し、任那が滅亡して、高句麗,百済,新羅の 三国時代が到来した。

10】AD562年、列島の『倭本族』は、半島の『倭支族』を受け入れ、共同して政権を樹立した。 これが 『大倭国』 である。

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11】時代は更に下り、半島では、新羅 が 膨張して、百済,高句麗が滅亡した。

12】 AD669年,高句麗の中枢,即ち『 新午族 』は,『大倭国』を簒奪し,政権を樹立した。これが 『大和国』 である

・古代列島は,半島から見た場合に、駆け込み得る 入植地 であった。
中国の 戦国時代にも流民が渡来していたが、その後、先ずは、三韓国の流民が 畿内他に入植した。

・次に,任那国の流民が出雲他に入植した。三韓国,任那国の民は『小倭国』,『中倭国 』の民と同じ『倭族』であるので、この段階において『列島倭族』に強い抵抗は生じなかった。

・更に,高句麗国の流民が 列島を簒奪した。高句麗の民は,『北方系の午族』であるので、この場合には、『列島倭族』 に強い抵抗が生じた。

13】古代国家『大倭国』の創建時に、列島の勢力を代表する物部氏が任那勢力を代表する蘇我氏に駆逐され、その残党が東北部に後退した。

14】次に、律令制国家が始った『大和国 』の創建時に、『大倭国 』の勢力を代表する蘇我氏が高句麗勢力を代表する藤原氏に制圧され、橘氏,大伴氏などの 旧勢力も徐々に圧迫され 屈服した。

・宗教面では『小倭国 』の祠庫信仰が,『大倭国 』の屋代信仰に発展したが,これも『大和国 』の社神信仰へと変質した。

・来世信仰は、内面において『小倭国 』の神教から 『大倭国 』 の仏教に,外面において『小倭国 』 の古墳築造から『大倭国 』の寺院築造に転換した。

・反面、『大倭国 』から『大和国 』への覇権交代時には,旧勢力に対する勝者の呪詛、新勢力に対する敗者の怨念が渦巻き、列島に対立,差別の 社会構造が生じた。

・新午族は、徐福=倭族以前の 古代文字を徹底的に 焚書してしまった。

日本古族研究所長田通倫氏「古族研究」より、一部改変。
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# by hansaki460 | 2016-05-25 08:09 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)