信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
e0171497_18581696.jpg



e0171497_1725895.jpg

   発売中



 今日も 応援クリック
 ありがとうございます

   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村 





ブログパーツ
以前の記事
2017年 01月
2016年 10月
2016年 08月
more...
カテゴリ
全体
やまと言葉
幻の吾道之宮
和歌姫 吾道彦
大御食神社社伝記
神代文字
古代文字便覧 
竹内文献 ホツマツタヱ 古史古伝
歴 史 秘 話
地方史から見た覇権の姿
一般
未分類
最新のコメント
これが高学年の問題であれ..
by 通りすがり at 02:55
当方のブログに関しまして..
by hansaki460 at 07:23
三毛猫さんが書いているこ..
by moon33magic at 16:05
高良大社とは、朝鮮神社、..
by moon33magic at 11:25
同じ意見の方がいらっしゃ..
by のりあ at 20:58
その他のジャンル
外部リンク
記事ランキング
ブログジャンル


あひる草文字の印影を作ってみました。

日本には、何種類もの古代文字がありました。

その中で、甲骨文字の起源という説がある『あひる草文字』と呼ばれる文字があります。

江戸時代、あひる草文字の蔵書印を、賀茂真淵,常世長胤らが持っていました。

そこで 私も作ってみました。

ご笑覧ください。(^^
e0171497_10115352.jpg

[PR]
# by hansaki460 | 2015-08-02 10:12 | 神代文字 | Comments(2)

神功皇后、仲哀天皇、実在の証明書

一ヶ月ほど前、日本経済新聞に
神功皇后は実在した? 九州に数多く残る伝承地
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86406480S5A500..
という記事がありました。

神功皇后と仲哀天皇が実在しなかった、という説に対する神社伝承からの反論です。

〔Wikipediaからの参考〕
神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。
現在では実在説と非実在説が並存している。

仲哀天皇:足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。

     ◇

伊勢神宮には、約1450年前の物部大連尾輿自身の奉納文や、藤原の鎌足・藤原の不比等・源頼朝・源義経等、99葉の本人による奉納文が、日本古来の文字で奉納されています。

そしてその「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」があり、私も会員になっていますが、先日作家で会長の大下伸悦先生が

「神代文字文書には「西暦112年から840年間の歴史」が刻まれていた。」
http://kotodama-club.seesaa.net/article/421095646...

と書かれたので、早速私のHPとブログを紹介したところ、今朝、

「大御食(おおみけ)神社ご神字….神社の古史社伝」
http://kotodama-club.seesaa.net/article/421361753...

とのブログがありました。

大下先生は、

『驚きましたね。
 日本の伝統文字によって正式な神社の社史がつづられ、いまに残されていること・・・。
 そして赤裸々につづられているこの国の歴史です。
 例えば、「おきながたらしヒメ(神功皇后)」の治世の御代がおありであったことがこの社史で確認できることにも興奮を覚えます。』

と書かれていますが、私ははずかしながら神功皇后の御代の記述が、大下先生をして

『私は今生ではもう出合えるはずのない宝物に出合ってしまった。』
『よもや本物の日本とつながれるとは…、思ってもいない出来事でした。
 衝撃が強すぎてこれ以上は言葉が続きません。』
『いやはや、生きていてよかったという思いです。』

とまで言わしめる程の記録とは、思いもよらなかったのでした。

ただ、『古代文字便覧』を発表してからというもの、ネット上での無責任な古代神代文字は偽物という書き込みはほとんどなくなった実感はりましたが…。

     ◇

落合直澄の 翻刻した社伝記には以下の記述があります。

「息長帯日子(おきながたらしひこ)〔仲哀天皇〕 ノ御代四年の秋葉月(あきはつき)、御蔭の杉枯れにき。
然れども 御蔭杉(みかけすき)の中つ枝に 大空(おほうつろ) あり。
杉の実 生いて、巡りて一抱き余り成る有り。
よりて 同じ天皇の五年の春 弥生、植え継ぎの御業、またその御杉もて、御殿(みあらか)を御建て、御渡ノ神幣(ぬさ)奉り、厳(いかし)楯矛 御旗、厳しく清すがしく、日本武尊の御霊を御渡り奉れり。」
http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage7...
e0171497_8355836.jpg
注)
あひる草文字の〔こ〕という文字は、〔め〕と似ており、書き写し時のリスクなどを考慮すると、「おきながたらしひこ(仲哀天皇)」とあるのは、「おきながたらしヒメ(神功皇后)」であるかもしれません。

     ◇

というわけで、解説が長くなりましたが、「神功皇后、仲哀天皇は実在の証明」の一助とさせていただきます。

私は戦後の、九州朝に関わると思われる人物らが、日本武尊も含め実在を疑うがごとき一部の学者の見解を憂いております。(^^
.
[PR]
# by hansaki460 | 2015-06-28 08:36 | 神代文字 | Comments(0)

ム-の記憶・日本語・ハプログループD (Y染色体) そして日本人

1)日本語について

日本語の系統については大きく分けて二つの考え方がある。
ひとつは北方起源説であり、もうひとつは南島起源説である。

戦前は日本語アルタイ系説(北方起源説)が主流であった。(新村出、金田一京助)
また国語学者橋本進吉は、アルタイ系言語の母音調和が、奈良時代の日本語にもあると指摘し、日本語アルタイ系説を裏づけた。

戦後は南島起源説が多い。(泉井久之助、村山七郎、崎山理など)
朝鮮語と日本語は 共通の語彙が少ないのにたいして、オーストロネシア系(南島系)のことばのなかには日本語と似た単語が多いという。

また、安本美典はビルマ語、カンボジア 系、インドネシア系の語彙との関係を指摘し、西田竜雄はチベット・ビルマ語と日本語の語彙の類似を指摘している。

近年大野晋は、インド南部やスルランカの一部で話されている「タミル語」と日本語の類似を指摘している。【注①】
すなわち、「アジア西部に「原日本語(「ドラビダ語」というべき)」中心があり、一つは東進して日本に、南進したものはインド大陸に進み入ってそこに広まった」という仮説を立て、主張している。

安田徳太郎は、ヒマラヤの谷底にすむレプチャ人の「レプチャ語」で、万葉時代の日本語が解読できるとした。【注②】
専門家からは総スカンを食らったが、後に記す理由でとても興味深い。


2)さてそこで、日本人とは?ということだけれども…

ミトコンドリアDNAの分析では、地球上のヒトの祖先はアフリカで誕生し、その後世界中に伝播していったとするアフリカ単一起源説が主流を占めている。

それは、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3千年前頃であり、ヨーロッパ人とアジア人の共通祖先の分岐年代は、7万年前頃であると推定された。

そして、アジアにおけるY染色体の系統地理学は、アフリカ起源の現生人類が最初、東南アジアの大陸部に定住し、それから約2万5千~3万年前には北方へ移動し、東アジア全域に広がっていったとこれまで示していた。


※ しかしこのようなシナリオでは、東アジアに特有の「D系統ーマーカーM174」【注③】が、チベットと日本列島およびアンダマン諸島にだけ、高頻度で分布することを説明出来ないので、最近の研究では次のように提唱する。

『東アジアにおけるD系統の分布、南方に起源があり、北方への拡散は約6万年前から最終氷期最寒期と新石器時代に起きた可能性が強い。
そして、チベット人の集団と日本人の集団は、主要な東アジアに特有のY染色体系統「Oハプログループ」と「Dハプログループ」をもつ、二つの古代の集団が混交したものである。』


3)日本語
ここで注目すべきことは、日本語の系統で簡単に述べた通り、【注①】の「タミル語」が存在する場所と、【注②】の「レプチャ語」が存在する場所が、【注③】の「D系統ーマーカーM174」が存在する場所と一致するという事実だ。

e0171497_1042533.jpg

4)そこで「ム-の記憶」だが、このように仮説する。

ム-大陸の人たち(洋族)は、天地変動の結果周辺部に拡散移住した。
その時日本列島へは、主流が大勢移住した。

一部の人たちは大陸へ移住し、その後相離れたチベットおよびアンダマン諸島にのみ色濃く残った。

これは柳田国男の「方言周圏論」の原則に一致し、日本語と似たと思われる言葉(レプチャ語・タミル語)は、相離れたチベットおよびアンダマン諸島(→タミル・ナードゥ州)に「古語」が残った。

日本人集団特有の「D系統ーマーカーM174」が存在する場所もまた、おなじ現象で残り、言語の現象と一致した。
[PR]
# by hansaki460 | 2015-05-28 10:06 | 一般 | Comments(1)

焚書の歴史【禁書を持っている者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない】



古事記日本書紀を編纂した後、大和朝廷はそれ以前の古記録を徹底して抹殺焚書した。


古事記(ふることふみ)」は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂し、元明天皇に献上された。

日本書紀」は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされ、養老4年5月完成し、一品舍人親王が元正天皇に撰上した。

…というのが定説だ。

さて、古事記,日本書紀が完成した頃、元明天皇の『年号を和銅と改めたまふ時の宣命』(続日本紀)にこうある。

【亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。】
(禁書を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)

この【挟蔵禁書】を学者らは【武器を持って】と読んでおり、また「九州王朝説」では【太宰府中央政府の記録を持って】と読んでいる。

しかし、壬申の乱も収まり、記紀が完成した後のことであり、新しい体制が動き始めたときに、旧体制(伊弉諾,伊弉冉以前の歴史)を記した記録が残っていることはたいへん不都合であったに違いない。


これに先だつ聖徳太子(574 -622)は、推古天皇に先代旧事本紀の編纂を願い出た。

定説では偽書とされているが、先代旧事本紀大成経の神代皇代大成経序にこうある。

【 聖徳太子が奏上するには … 神代は年々が過ぎていくごとに隔たり、先皇の行跡は日々が過ぎていくごとに隔たるが、それは「近世の史家(このごろの ふみつかさ)は、或いは秘し、或いは偏りて而も私無きことを得ず。」と警告をする。

 それゆえに「天皇は、先代にあった出来事を忠実に記して、後の天皇の永久の鏡として、それと違わない法を定めなければならない」と上宮太子(聖徳太子)は訴える。

 これを聞いた 推古天皇は「どうか大王上宮太子よ、御配慮なさって下さい」と答えた。

 そこで太子は、蘇我馬子の宿祢に命じ、朝廷にある記録と、吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の六家の、祖先人のことを記した家蔵の記録を集めさせ、また中臣御食子に命じて、馬子大臣と共に歴史の編纂をおさせになった。】


…… これが、先代旧事紀編纂の動機であると伝わる。


この先代旧事紀には、古神道の秘密がたくさん書かれている。
古神道は古来、皇統の神々を祀るものであったが、崇神天皇の頃から宮中の外に出た。
これが神社神道となり、今に続いている。

また列島には以前からアニミズム的な「祠(ほこら)信仰」もあり、やがて神社神道に祠信仰も習合し、現在も日本人の心の中に息づいているのではないだろうか?


その後 天武の時代、古事記、日本書紀などの編纂を経て、現在に伝わる国体、すなわち天照大神の神勅をもって、日本国の正統と為す国体を創りあげた。


この壮大な『国体創造プログラム』実行の裏には、【古代文字で書かれた古史古伝の焚書抹殺が必須】だったのだ。

今でも学者は、この事実を直視しようとしない。
やまと言葉の研究をする学者すら、言語学会の中にはいない。

だから、在野の研究が大切になる。(^_^)
.
[PR]
# by hansaki460 | 2015-02-28 07:52 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

銅鐸


銅鐸は、大国主に授けられた「逆戈=警察力」だった!
   
太古の列島 (日本) では、縄文時代から偉人で神と呼ばれる方々がいた。

記紀や古伝では、天御中主をその始めと伝わる。

そして偉人「天御中主神」に始まる「国之常立神」の皇統は、~ 国狭槌尊 ー 豊国主 ー 泥土煮尊 ー 角杙神~ と続いたが、次の「面足尊」で絶えた。

その間、日高見のトヨケ後の豊受大神が暫定的に日本を総括していた。 

e0171497_18431274.jpg
(トヨケの語るところでは、クニトコタチ → キノトコタチ → トヨケ と生まれ代わっているという。)
(皇産霊尊は、初代(東常立)から7代(高木神)までの役職名だという。)


高木神(7代皇産霊尊)は、娘の伊弉冉(分家)と、根の国を治めていた沫蕩尊の子の伊弉諾(別の分家)を結婚させ、その子を以て本家とすることで、中央部 (葦原中国) の窮状を救済しようと図る。そして天照神が生まれ中央政権が復活し、分割統治に陥っていた日本の再統一が成る。

しかし、養子の「天萬尊」の孫である天つ君となった二神(伊弉諾,伊弉冉)の立場は苦しく、「妥協の暫定政権」とでも言うべき立場であった。

だから、伊弉諾,伊弉冉の世嗣には国常立尊に匹敵する高貴さが要求された。並の世嗣では世の臣民は納得して服わないだろうからだ。

その様な背景の中、伊弉諾,伊弉冉は、未開の八島を、「ト(法)」と「ホコ(警察力)」で世を治めようと、子の天照大神に政権と「経矛」を引き継いだ。

このことをもって「調和/融和と秩序」の実現するためのを象徴とし、日本神道の根源にあるのではないだろか?

その後の代々、「ト(璽)」は中央政府が継承し「銅戈」に象徴さ、「ホコ(逆矛)」は大国主に授けられ「銅鐸」に象徴された。
そして清汚を鑑みる「八咫鏡」を加え「三種の神器」とし、「ヤマト(大和)=調和と秩序,大調和,完成。=日本の国号」と成した。

その過程で、「銅戈(剣),銅鐸の埋葬儀式」が行われ、巻向へ習合し、ヤマトの国体へと発展していった。


【 仮説 】

銅矛や銅鐸が造られた時代に「トホコ」という言葉の記憶が残っていて、その物実(ものざね)としてそれらが造られた。

これが、「銅鐸の謎」の実体である。



 参考サイト
  ほつまつたゑ 解読ガイド(http://gejirin.com/index.html)
.
[PR]
# by hansaki460 | 2015-02-24 12:43 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)