信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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まぼろしの
吾道之宮


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日抱宮(ひだきのみや) のこと

日抱宮(ひだきのみや) 白井神社 【岐阜県高山市丹生川町白井】

祭神 五十猛大神、お祭 例大祭9月1日とされているが、本来は祭神などない「日抱宮」です。
江戸時代に十八ある日抱宮が伊太祁曽神社と改名させられたが、この白井地区の住民は他地区の伊太祁曽神社に合祀されたのを、元の場所に取り返して奉斎した。
狛犬は社殿最奥にしまい込んだという。

日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ) は飛騨のあちこちで大昔から行われ、丹生川村では、魂鎮の地が日抱宮(ひだきのみや) となった。他にも何社か残っているという。

飛騨の古代人は乗鞍岳を拝み、飛騨の中心に高くそそり立ち頂上に広い平地があり巨石のある山、日本の中央の分水嶺でもある位山を拝み、その山の巨石を磐座として、その横に天照大神(ヒルメムチ) やそれ以前の先祖を葬り拝んできた。
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★みかさふみ 『"如何んぞ君を 生まん" とて 日の神を生む その御名を 太陽霊貴また 和照らす 大御神とぞ 称えます』

三部の神道とは、宗源道(カンツモト)・斉元道(カンツイミ:いつきみもとのみち)・霊宗道(カンツムネ)の三部五鎮の神道のことをいい、
宗源=神道神学と祝詞を意味し、(天児屋根命)
斎元=祭事の要領(ヌサなどの祓い具による祓い)を、(天太玉命)  
霊宗=霊覚を開き、神々と感応する方法を教える、(天思兼命=吾道家)  とします。

このうち、霊宗は、天思兼命(吾道家) が伝えてきたと思われますが、吾道家のある伊那の地は、やがて藤原(中臣) が 天台の寺を隅々まで布陣し、その勢力と権力で吾道宮は消滅し、霊宗は簒奪されてしまったと思われます。
http://utukusinom.exblog.jp/24540778/

吾道家が伝えてきた「霊宗道」は、この「日抱御魂鎮」ではなかったのか?
(吾道家は、飛彈に隣接しています)
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# by hansaki460 | 2017-01-29 05:25 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

地名の三日町は、三日待ち

長野県箕輪町にある「南宮神社(祭神:建御名方命、八坂刀売命)」には、春宮と秋宮がある。

建御名方命は秋宮と春宮とを半年ずつ遷座し、それを「御神渡り」といい、毎年の祭事である。

初夏に行われる春宮から秋宮への遷座のあと建御名方命(祭神) は、山中に建てられた「御旅所」と呼ばれる「穂屋」に三日間、避暑に行った。

現在の穂屋
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その三日の間、お供の者たちは麓で待機し、その場所を三日待ち(三日町) と称するようになった。


思うに、全国にある三日町・六日町・十日町等の地名も、町=待ち ではあるまいか?
雪に閉ざされて、動けなくなり、六日も十日も待たされたと云う事では無いだろうか?

ただ、町=市場 と、まことしやかに言う識者らが巨万といるから、手に負えない。(^^

【……三日町の地名から、中世ここでは市が聞かれたにちがいないが、その姿を窺い知るすべもない……(箕輪町誌)】

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# by hansaki460 | 2017-01-17 08:09 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

日本文明の源泉は、ムー

日本には、大陸より以前に文明があった。

『山海経』には『東海に…君子国あり、衣冠をつけ剣をおびる。』との記述があり、太古から東の海中に、「スメラミコトの御座す国」があることを知っていた。

支那古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立した『山海経』(せんがいきょう) は、最古の地理書(地誌)とされるが、その中の
 
第九  海外東経『君子国…あり、衣冠をつけ剣をおびて獣を食らう。』

第十四 大荒東経『君子国あり、衣冠をつけ剣をおびる。』

とある。
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日本文明の源泉は、ムーである。

大陸の文明より古い!
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# by hansaki460 | 2016-10-09 21:23 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

阿比留草文字で書かれた「大御食神社社伝記」を読む【01】

大御食神社社伝記【01】

【 纏向の日代ノ宮に 天下 治ろしめし給ひし、大足彦忍代別ノ天皇の御代、日本武尊 東の蝦夷ら征平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。】

日本武尊がこの地に来た年は、大足彦忍代別ノ天皇の御代、とだけあり、年数は書いてない。明治十二年内務省達による神社明細帳には「景行天皇四十一年、日本武尊東夷を征和して、帰路を信濃に取りて、赤須の里に至り、云々」とある。

日本書紀では、「日本書紀 卷第七 四十年夏六月東夷多叛辺境騒動・日本武尊出動 冬十月壬子朔癸丑 日本武尊発路之(冬十月二日、日本武尊は出発された)」とあり、また東征の途中に冬の記述がないことなどから到着時期は「景行天皇四十一年」であろうと推定される。

纏向(まきむく) の日代(ひしろ) の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」,「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか? 同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。(播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。
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Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ) にあった筑紫の大宰 (つくしのだざいという役所) を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃) は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713) で、日本書紀の完成が養老4年(720) 。
倉野憲司や井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。
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# by hansaki460 | 2016-08-28 21:03 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

諏訪の縄文の神々を追放した出雲の武甕槌命の話

悪しき神にされた縄文の神「天津甕星(あまつみかぼし)、亦名 天香香背男」は、黒曜石の守り神!

古来、黒曜石は「矢の根石」であり「星糞」と呼ばれた。
そして、天津甕星は星の名のつく神だ。すなわち黒曜石を産する人々の神だ。

青銅器や鉄などの武器が使われるまで、鏃(やじり) は矢の根石(黒曜石) だった。鉄砲・火薬などの武器を扱う勢力は、昔から今でも、大きな力を持つ。

列島には、多くの黒曜石産地がある。
代表的な産地は、隠岐(出雲) であり諏訪(出雲神) の霧ヶ峰だ。
諏訪大社下社の裏山で黒曜石を産し、上社の守屋(矢) 氏は「鏃(矢じり) を差配した。
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出雲族は隠岐の黒曜石を差配し勢力を広げた。
そして諏訪の黒曜石も手に入れ、縄文人を制覇したのだった。
これが国譲りの正体ではないかと私は思う。

日本書紀巻第二 神代下
第九段 (一書第二)
【原文】
一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰「天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。」
【読下し】
一書に曰く、天神、経津主神・武瓶槌神を遣して、 葦原中国を平定めしむ。時に二の神曰さく、「天に悪しき神有り。名を天津甕星と曰ふ。またの名は天香香背男。請ふ、先づ此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原中国を発はむ」とまうす。


すなわち、日本の正史では『天津甕星』を、天有惡神(天に悪しき神有り) とする。

タケミナカタの話の骨幹は、黒曜石の利権を巡って、隠岐の黒曜石を支配していた出雲族がやがて諏訪の黒曜石をも簒奪した経緯がであるが、追いやれた天津甕星(あまつみかぼし),星神香香背男(ほしのかがせお) らはまつろわぬ鬼神とされ、経津主神・武甕槌命らに追われた。
「武甕槌命」は、文字通り甕星を槌撃した人のことである。

列島はこうして、天孫族に縄文の神々が消され、やがて藤原により天孫の神々もまた被害に遭った。

列島では、旧石器時代~縄文時代、すなわち鉄鏃(てつぞく) が入る2~3世紀までは、黒曜石を加工して鏃(矢じり) を作った。
それを先端に鹿角製の「根挟み」を付けた弓矢または槍に装着して、あたかも鉄砲球を打つかの如く鏃を放った。だから鏃は大切な武器でありかつ狩猟の道具であるが、しかし消耗品であった。

後の世に鉄砲の火薬を得るためにキリシタン大名は、国人を捉えその対価とした事実があるが、権力者はそれほどに武器を必要としたのだった。(もちろん現代でも)

天香香背男を祀る神社や天津甕星を祀る神社は全国に百社近くある。
また天香香背男を祀っていたが現在は征服した布津主を祀っている神社の数は相当なものだろう。

それらの星神社は不思議なことに信濃にはほとんど無い。
かわりにあるのが「ミシャクジ(御石神)」である。

守矢神長官家は「諏訪大社の祭政体はミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝(おおほうり) に降りてくる精霊を中心に営まれます」とするが、そもそもミシャグジ神は「守矢一族」の守り神であり黒曜石を支配していた一族の神だった。

歴史は移り変わるから、武南方神は、黒曜石を簒奪した侵入者だった」などと今さら言っても詮無いことだが、いつまでも「まつろわぬ鬼神」とはたまらない。

先の大戦で敗れた日本人は、野蛮人だったと言われているのと同じだからである。(^^
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# by hansaki460 | 2016-08-19 13:38 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)