信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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古代文字の真実[2]”実際に見てみよう”

古代文字の真実[2]”実際に見てみよう”

古代文字”あひる草文字”で記された”ひふみ歌”を紹介します。

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出雲大社に伝わるものです。

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九州 弊立神社のものです。
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# by hansaki460 | 2009-02-17 00:43 | 神代文字 | Comments(0)

古代文字の真実[1]”ひふみ歌を読む”

古代文字の真実[1]”ひふみ歌を読む”

日文(ひふみ)唄の意味を知ろう

ひふみよ いむなや こともちろ
一二三四 五六七八 九十百千万


らね しき るゆゐ
蘭根 敷き 縷結い


つわぬ そを た はくめ
強 ぬ  襲を 多  育 め


かうお えにさり
交う悪 穢に去り


へての ますあせ
辺天の  枡 畦


ゑ ほれ け
ゑ 掘れ け


いかがですか? 目から鱗が落ちましたか?

いろんなことが読み取れますが、それはまたの機会に!
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# by hansaki460 | 2009-02-17 00:33 | 神代文字 | Comments(1)

吾道彦物語[5]”天八意思兼尊の時代 と大御食神社”

吾道彦物語[5]
”天八意思兼尊の時代 と大御食神社”


紀元前9世紀頃、吾道彦たちが活躍した南九州王朝”高千穂国”は、本当に存在した。

そう確信しております。

信州信濃、伊那の谷に《大御食神社》がありますが、そこに伝わる神代文字で書かれた社伝記『美社神字録』は、その証明に他ならないと確信しております。

赤須彦の祖先は、高千穂国で活躍した吾道彦・天八意思兼尊であり、尊こそ神代文字の創造者と伝わって居るではありませんか。

今は無き阿智村の阿智家を経て、その別裔の『大御食神社の神官家』に、神代文字の社伝記『美社神字録』が伝わっていることは、至極自然であり、当然であると考えられます。

阿智家は覇権移動の犠牲者で、戸隠に移封させられ、覇者等に意図的に消されたのだと思います。

伊那谷では、御子柴遺跡の旧石器時代,縄文の時代,阿智彦の時代,古墳の時代,馬の時代,天武の時代を経て、ようやく藤原の時代の頃からの文化,風俗が、民俗として現代に残っております。

なぜ藤原以降、1200~1300年前の事柄が、現代に残っているかというと、封建時代が藤原の時代から始まっているからですね。 

近代制(国家)は、封建制(国家)の改良にほかなりません。

歴史が連続している地域(国)で、その歴史の始まりは、封建制があった時期からですから。

ということは、封建時代が始まった大宝律令以前の文化・風俗は、伝統として残っていないと云うことにほかなりません。 遺跡等でしか残らず、連続性がないと云うことですね。



『聖徳太子,蘇我馬子,天武天皇と続く大和朝の創作者たちは、南九州・高千穂朝を神話の世界に閉じ込め、神代文字の古史古伝書を焚書して、古事記,日本書紀でもって自らを正統と創作した。』

そう仮説をたててから、あらゆる事柄がすっきりして来ました。

この仮説は、確信に変わっております。 



『大御食神社』の関係者は、自信を持って神代文字の社伝記『美社神字録』を発信しほしいと思います。

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# by hansaki460 | 2009-02-16 22:47 | Comments(0)

吾道彦物語[4]”天八意思兼尊の時代”

吾道彦物語[4]”天八意思兼尊の時代”

 芥川龍之介の『素戔嗚』に、思兼尊が登場しますね。思兼尊の姪と、素戔嗚の恋の場面もあり、生き生きと芥川の文章の中で生きています。 

 思兼尊のエピソーには、天岩戸隠に登場する話が余りにも有名ですが、それは思兼神がアイデアを駆使して企画した、盛大な祭りのイベントだったようです。その企画を少し紹介すれば・・・・

 まず常世の国から来た鶏の長鳴鳥(ナガナキドリ)を鳴かせ、鍛冶と玉造の神に鏡や玉を作らせ、それを飾った立派な玉串を製作させた。そして玉串と祝詞を捧げながら、天照大神を褒め称える最高の儀式を演出しました。

 このイベントを最高に盛り上げたのが、意表をついたダンスで、最後の仕上げが天手力男神の『力技』ということですね。

 神器として欠かせない御鏡や玉の製作、神祭りの重要な祭具である玉串の考案、神をたたえる儀式の演出、そして神楽の源流といわれる舞踊ショー。 こうした企画のひとつひとつがのちのいろいろな産業や芸能文化の源流となったことを考えると、思兼神というのはとてつもなく優れたクリエイターだったのでしょう。

 いくつか拾ってみると、

 「日本書紀」では、思兼命が指揮を執り、天太玉命と天兒屋命に命じて御幣を作らせて、相共に祈祷したことや、

 「古事記」には、思兼命が発案して神々が準備した御幣(みかぐら)を、布刀玉命(太玉命)が持って、天児屋命が詔戸(祝詞)したことがあります。

 「古語拾遺」にも、思兼命が指揮を執り、天太玉命が諸神を率いて和幣(にぎて)を作らせ、天太玉命と天兒屋命(神皇産霊神の兒となっている)が一緒に祈祷したとあります。

 「先代旧事本紀」では、思兼命が発案し、天太玉命は諸神を率いて御幣を作り、天太玉命と天児屋命が一緒に祈祷したことになっており、その際、阿波の忌部の祖天日鷲神は木綿を作ったことになっています。

 そのほかにも、本居宣長の「古事記伝」には、思兼神について「数人の思慮る智を一の心に兼持る意なり」と説明されています。それは、「 あまたびとの おもいはかるちを ひとりのこころに かねもてる い なり 」です。つまり、数多くの人間の知恵を一身に結晶させているのが 思兼神と表現しているのです。

 それでは、思兼尊が活躍したのはいつ頃のことでしょうか?

 私のHP(http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage2-4.html)の小説『美しの森物語』で中谷先生が言うには、

「昔の話だよ。 のちに飛鳥文化を創った九州の倭国のことだがね。紀元前十世紀頃に 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) や 天照大神(あまてらすおおかみ) の、偉人たちが治めていた高千穂国が南九州に有ったんだ。 その天皇家の草分け的存在の 天之御中主神の、天孫族の末裔たちの 倭国人が、阿智神社を奉り、またその末裔の赤須彦が 大御食神社を奉ったのだよ。阿智には 高千穂朝時代の 天思兼命の子孫が来て、信濃の祝(はふり) の租になっているよ。」

と、言ってます。

  天之御中主神の数代後が天照大神の時代だったようですから、紀元前9世紀頃と云うことでしょうか?
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# by hansaki460 | 2009-02-16 22:46 | Comments(0)

吾道彦物語[3]"カナサキ(住吉神)と夫妻のその後"

吾道彦物語[3]
"カナサキ(住吉神)と夫妻のその後"


 カナサキ(住吉神)のことにも触れます。
 ヒルコを拾って育てた住吉の神は、伊邪那岐の神が黄泉の国から戻って禊ぎをした時に生まれた神です。

そして、天照大神の妹・歌姫と思兼尊の仲人をしました。        ・・・・・ホツマツタエ

 水の底の方に潜った時に生まれたのが 底津綿津見神・底筒之男命、中ほどにいた時生まれたのが中津綿津見神・中筒之男命、水の表面で生まれたのが 上津綿津見神・上筒之男命です。

 この中の底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三神が住吉の三神で、底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神が阿曇連の祖先となったとされます。

 信濃の山深い阿智神社の近くには、思兼尊を守るかのように住吉神を奉る御坂神社があります。

 さて、話は戻ります。

 和歌姫はアチヒコ(思兼尊)と結婚した後、しばらくは紀州に滞在して 新婚生活を送った時期がありました。

紀州には、多くの神社に、いろいろな名前で、思兼尊・ワカ姫夫妻が奉られておりますが、このことはまたの機会といたします。

 それから後、夫妻は 野州川のほとり(滋賀県野洲市)に移って 宮を造りました。

 思兼尊・和歌姫夫妻は、伊邪那岐の遺言に従って、天照神の日嗣の皇子 オシホミミ(忍穂耳尊)の 御子守をしながら、実子・シズヒコ(手力男尊)を育て、北陸や山陰を同時に治め、伊勢(男女の絆)を結んで 夫婦協力して政(まつりごと)を執っていました。



 和歌姫が まだ思兼尊と一緒になる 前のことです。

 『クシキネ(大己貴)が諸国を巡って農業指導をしている時のこと、災害で食糧の乏しい村民の訴えに、つい誤って獣の肉食を許してしまいました。

 すると、天罰が当たり その年の秋、村の稲田に稲虫が大量に湧き出て 葉を食い荒らして しまいました。

 驚いたクシキネは シタテル姫(和歌姫)の坐す ヤスカワに馳せ参じて、稲虫祓いの「教え草」を習い覚えて 急ぎ帰り、オシ草(玄人)を持って 扇(あお)ぐと、やはり ホオムシは去って 稲は若やぎ よみがえりました。

 その秋豊作となったので、喜んだクシキネは、自分の娘のタカコ(高子)をシタテル姫の元に奉りました。』 という話があります。

 ワカ姫は没後、トシノリ神(歳徳神)と称えられましたのは、トシとは 穀物・特に稲をさす古語 だと言うことを考えると 納得できます。

 稲作が 全国に定着していった当時、稲虫対策の農業技術指導は、朝廷による統治の要の一つになっていたのでしょう。

 和歌姫は、各地の農業指導者達に対して、教え草(ハーブの燻煙)を用いた 稲虫払いの除虫方法を 伝授したとされています。

 その最先端をいく知識を持っていた 当代きってのスペシャリストが 和歌姫ですから、朝廷の領地を巡回視察する仕事をしていた者達を 実質的に統括していたのが、野洲川の川辺にあった 思兼尊・和歌姫夫妻の宮だったことが うかがえます。 

 野洲川付近は 縄文時代から人通りが多い街道筋に当たりますから、この地域に建てられた神社は、後世いろんな人がさまざまな思い込みの解釈で 情報を付け加えてしまっているようです。 (この話も、別の機会に・・・・)

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# by hansaki460 | 2009-02-16 22:45 | Comments(0)