信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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古代文字・神代文字は、存在した!

古代文字・神代文字は、存在した!
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古代文字 否定の 最大争点は、斎部広成が言う 『 上古の世は 文字が 無かった 』 というものですが、先ず その古語拾遺についてです。

O 斎部広成が言う、古語拾遺の 『 上古 』 とは、いつのことか?

e0171497_10265246.jpg斎部広成が 807年に 天皇に奉った本「古語拾遺」を 記します。
古語拾遺 一巻 加序   從五位下 齋部宿禰廣成 撰
蓋聞、「上古之世、未有文字、貴賤老少、口口相傳、前言往行、存而不忘。」書契以来、不好談古。浮華競興、還嗤舊老。遂使人歴世而彌新、事逐代而変改。顧問故実、靡識根源。國史・家牒、雖載其由、一二委曲、猶有所遺。愚臣不言、恐絶無傳。幸蒙召問、欲[手慮]・蓄憤。故、録舊説、敢以上聞、云爾。      以下・・略

[訳文]
聞くところによると、上古の世は 文字が無く、貴賎老少 問わず 口から口へ 伝えていたが、 その 言った事、行った事や 出来事を 忘れは しないかと 書き記して以来、古を語る事を好まなくなり、浮ついた 華やかさを 競い 興じて 還って 旧老をあざ笑い、遂に 世代を 重ねて 古代を忘れ、 代を重ねる後とに 古法を 失った。 顧みて 故実を問う時 その根源を 知らない。国史・家史に この理由を記録されている と 言っても、詳らかにすれば、なお 判らない所が 有る。 愚臣が 言わなければ、恐らく 絶えてしまって 伝える事が 出来なく成ります。 幸いに 召されて 問われましたので、長らく 思っていました事を 述べたいと 思います。 故に 旧事を敢えて申します。      以下・・略

それでは、斎部広成の言う『 上古 』 とは、いつのことだろうか?
広成は 古語拾遺で 言いたかったことは、イワレヒコ(神武天皇)の即位のときの 本来の職掌分掌を 今日(当時)の世にも 貫かせたかった のである。

すなわち、フルコトを記して、それは 忌部(斎部)の役割で あり、また 神武以来 三種の神器にかかわり 且つ、大殿祭・御門祭の 祝詞を司っていて、最も重要な 立場だったと、アピールしているのである。
忌部にとって 神武即位の儀式は、当家の 役割だったからして、当然 『 上古 』 では ないだろう。

2009年の 現在から上古と云えば、大化の改新までを 指すようだが、720年完成の 日本書紀では、「 山幸彦と海幸彦 」 以前を 神代としているからして、神武天皇の即位を 紀元前660年の 辛酉の年を起点としていると 解釈すれば、前七世紀には、既に 文字があったと 読める。

天之御中主・天照大神が治めた 南九州王朝の 高千穂国は、前十世頃と 推定できるから、おおよそは 想像できるが、ホツマツタエには、天照大神の回文や、妹の 和歌姫の歌や、文字を創ったという 思兼尊の事が 記されているので、前九世紀頃には、文字が あったかも しれない。

こういう乱暴な推測を、すべての学者は 極度に嫌う。
だから、記録にとどめたのは 最近なんだ、というかもしれない。
斎部広成の言う『上古』 とはホントはいつなんだろうか?
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# by hansaki460 | 2009-05-04 10:29 | 神代文字 | Comments(0)

『執念の女帝・持統』

『執念の女帝・持統』  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 

伊那谷では、天武天皇の時代に、大きな変化が あったことを 感じ取ることが 出来ます。
私は 感覚的には、天武が もう少し若く 長く天皇でいたなら、かなり違った国造りが 出来ていたと 思われます。

なぜ そう言うか というと、続く 女帝・持統天皇の施政について、違った見方を するように なったからです。

はじめの頃、私は 持統天皇の能力を 高く評価する 一般的な見方 を 取っておりましたが、どうしても 地方史から見た場合、天武と持統では、180度違っていますので、疑問が ついて まわっていました。

最近 いくつかの本を 読んでいるうちに、
「持統は 操られていて、取り巻きに 後の 藤原体制 を 作られてしまった、と言うのが 本当のところでは ないか?」 
と 思うようになりました。

その考えを、決定的にしたのは、関裕二氏の 『 執念の女帝・持統 』 という本です。

その後の 伊那谷は、律令体制の下に 組み敷かれて いきました。
ただ 救いは、やはり最近の本の中で、「近代国家は、律令体制を経て 出来上がって いった」、という ところを 読んだことでした。


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# by hansaki460 | 2009-04-29 11:31 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

縄文中期から、信濃では製鉄が行われていた。

縄文中期から、信濃では製鉄が行われていた。
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【 南宮の本山は 信濃国とぞ 承る さぞ 申す 美濃国には 中の宮 伊賀国には 稚き児の宮 (梁塵秘抄・262)】

蓼科・更級(科)・明科・豊科・埴科など、信州には 今日なお 「○シナ」 の土地名が 多く残る。
科(シナ)を 特有の地形・地勢と見る説が 有力で、司馬遼太郎氏も この地形説を 支持している。

だが、シナには 鉄の意味も あるという。
真弓常忠氏によれば、鉄を意味する 多くの古語について、大きく 次の五つの語群に 分けられる。
 (@) テツ・タタラ・タタール・韃靼  (A) サヒ・サビ・サム・ソホ・ソブ
 (B) サナ・サヌ・サニ・シノ・シナ   (C) ニフ・ニブ・ニビ・ネウ    (D) ヒシ・ヘシ・ベシ・ペシ

豊前の 「犀川」 「佐比川」 には (A) サヒ音=古代産鉄の可能性があり、また 「犀川」 は、加賀にも 信濃にもあり 「犀」 は 産鉄の可能性を示す 「サヒ」 ではないか? と 指摘する。

また、信濃の国にかかる枕詞は 「ミスズカル」 であるが、ミスズと シナの関連を、こう説明する。
ミスズは 「御鈴」 であり、鈴は 「鈴石・鳴石」 などと呼ばれ,水辺の 禾本植物の根に 形成された 褐鉄鉱団塊のことで、古代製鉄の 原料となったものである。
そして 沼沢から 抜き取り 鈴石を採取することが、ミスズカル という言葉で 表されていると 指摘する。

また、百瀬高子氏は 著書 「御柱祭・火と鉄と神と」 の中で、信濃では 縄文中期から 製鉄があったという。
その製鉄材料は、葦や芳の根に 鈴状に付着した カッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まるが、諏訪地方は 縄文土器の産地であり、その焼成温度は 800度を 4時間以上必要としたから、製鉄に必要な 諸条件は 十分満たしているとする。

そしてまた 縄文中期の 円筒埴輪や 朝顔型埴輪が、明治初期の キューポラ(鋳物炉)に 酷似している事実を 指摘して、製鉄が行われていた証明に ほかならない と しいる。
そして、諏訪大社に伝わる、薙鎌は(火を起こす)風の神であり、鉄鐸は、褐鉄鉱団塊 (高師小僧)の象徴であると。。。  この説は かなり 説得力がある。

だから 『 南宮の本山は 信濃国とぞ 承る・・・・ 』 とは 真実みがあり、まさに十二世紀頃までは、諏訪の 縄文中期からあった 製鉄の伝承が 語られていたのである。 
しかしカッ鉄鉱からの縄文鉄は不純物が多く、強度に難があり、その後の青銅器の弥生文化に破れたのだ。

そして今では 弥生以前の カッ鉄鉱からの縄文製鉄技術は、砂鉄からの製鉄技術に押され、やがて 忘れ去られた。 列島の原住民である 縄文人は、未開(文化がない)人とされているが、まったく事実と反する。

【 みすずかる 信濃の真弓 わが引かば 貴人(ウマヒト) さびて いなと 言はむかも (万葉集巻2・96) 】    弓-とりわけ 鉄鏃(矢じり)を 考える時、結びつくのでは? と 思うし、後段の サビが (A) の鉄音に懸る とすれば、なかなかおもしろい と 言える。

諏訪社の 鉄器にまつわる話は 数多くあり、諏訪に係わる 権力闘争の歴史が 面白い程よく分かってくるが、それは 次回に 記す事とする

     朝顔型埴輪 ↓                      円筒埴輪 ↓   
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      現代手作り鋳鉄炉 ↓
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# by hansaki460 | 2009-04-10 20:46 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

日の丸誕生秘話

日の丸は、源氏のと平氏ので できています。

今からちょうど、千年前のことです。

寛仁3年(1019年)3月27日に、中国・遼 配下の 満州の女真族(刀伊)の海賊船団が 壱岐・対馬、更に 筑前にまで 攻めてきました。 
いわゆる『 刀伊(とい)の 乱 』です。

その時 刀伊は 賊船約 50隻・約三千人の 船団を組んで、対馬や各地で 殺人や放火を繰り返し 暴れまわったのでした。

入寇の目的は 農耕民族住民の確保が あったと言われていますが、記録された被害は 殺された者 365名、拉致された者 1,289名、牛馬 380匹、家屋 45棟以上で、壱岐島では 残った住民が 35名に 過ぎなかったといいます。

・刀伊の入寇・経緯(Wikipedia)↓ 詳細はこちらをご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3..

また、藤原定家の日記 『 明月記 』 には、
『 鎮西の 凶党等 数十艘の 兵船を構へ、彼の国の 別島に行きて合戦し、民家を滅亡し 資材を掠め取る。 行き向ふ所、半分ばかり 殺害さる。 其の残り、銀器などを盗み取り 帰り来たると。 朝廷のため 太(はなは)だ 奇怪なる事か。』
とあります。
いわゆる 「 和冦 」 のはしりでいた。


この時、朝廷は、北の 『 こま人 』 を送り込んで、防人に持たせた武器が 片刃の 刀で、やがて日本刀となった と 言う説があります。
両刃では、生産が 間に合わなかったので、片刃(=かた・な) で、実戦用の刀剣には、十分でした。
以後 衛府の武官に用いられたことから、衛府太刀(えふたち)・野剣(のだち) と呼ばれ、日本刀となったともいいます。


さて、本題の、『日の丸』ですが、ご存じのように、源氏と 平氏は 権勢を張り合っていました。
しかし、海外からの来寇が増すと、必然的に 味方同士として、日本列島の守りに入りました。

もともと、源氏は 『 白 』、平氏は 『 赤 』 で、敵・味方でしたから、源平合戦以降 なかなか 同じ軍団には なれませんでしたが、外敵の前にはそうはいきません。 力を合わせました。

結局 平氏軍団の船に、源氏軍団が乗ることとなり、外敵に対抗したのでした。 
そしてこの時、両者は 源氏の 白地の旗と 平氏の 赤の旗を ひとつの旗にして、日の丸を創りました。

外敵には、皆が 一致団結をしたのでした。 
・・・・ という説。 この説には 大変説得力が あります。


現存、最古の日章旗としては、山梨県甲州市の 裂石山雲峰寺所蔵のものが知られていますが、これは 後冷泉天皇より 源義光(新羅三郎)へ下賜されたという伝承があり、時期的には、ちょうど 『 刀伊の乱 』 の後です。
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# by hansaki460 | 2009-04-02 09:59 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

森繁久彌氏 の こと

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YouTubeで、森繁の 船頭小唄 を見てて 思い出した。e0171497_9333518.jpg

”屋根の上のヴァイオリン弾き” を、何回 見に行ったことだろう。 
見るたびに 涙した。
また、彼のエッセイ 「ふと目の前に」 を読んだ時には、泣が止まらなかった。

それは ある公演でのこと。

公演中に 前列で 下を向いたままの 少女が いた。

役者たちは、代わる代わる 「起きろ!」 と ばかりに、近くに行っては 大きな音を立てて 床を 踏みならしたそうな。

舞台が終わって 拍手をしながら やわら顔を上げた 少女は、盲目だった という。

出演者 全員が、もうしわけなさに 泣いたという。 

森繁は 舞台から 少女に わびた、と書いてあった。

思い出すたびに 涙する。    ・・・・・・今も。


森繁久彌氏は、お元気だろうか?


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# by hansaki460 | 2009-04-02 09:42 | Comments(0)