信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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日の丸誕生秘話

日の丸は、源氏のと平氏ので できています。

今からちょうど、千年前のことです。

寛仁3年(1019年)3月27日に、中国・遼 配下の 満州の女真族(刀伊)の海賊船団が 壱岐・対馬、更に 筑前にまで 攻めてきました。 
いわゆる『 刀伊(とい)の 乱 』です。

その時 刀伊は 賊船約 50隻・約三千人の 船団を組んで、対馬や各地で 殺人や放火を繰り返し 暴れまわったのでした。

入寇の目的は 農耕民族住民の確保が あったと言われていますが、記録された被害は 殺された者 365名、拉致された者 1,289名、牛馬 380匹、家屋 45棟以上で、壱岐島では 残った住民が 35名に 過ぎなかったといいます。

・刀伊の入寇・経緯(Wikipedia)↓ 詳細はこちらをご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3..

また、藤原定家の日記 『 明月記 』 には、
『 鎮西の 凶党等 数十艘の 兵船を構へ、彼の国の 別島に行きて合戦し、民家を滅亡し 資材を掠め取る。 行き向ふ所、半分ばかり 殺害さる。 其の残り、銀器などを盗み取り 帰り来たると。 朝廷のため 太(はなは)だ 奇怪なる事か。』
とあります。
いわゆる 「 和冦 」 のはしりでいた。


この時、朝廷は、北の 『 こま人 』 を送り込んで、防人に持たせた武器が 片刃の 刀で、やがて日本刀となった と 言う説があります。
両刃では、生産が 間に合わなかったので、片刃(=かた・な) で、実戦用の刀剣には、十分でした。
以後 衛府の武官に用いられたことから、衛府太刀(えふたち)・野剣(のだち) と呼ばれ、日本刀となったともいいます。


さて、本題の、『日の丸』ですが、ご存じのように、源氏と 平氏は 権勢を張り合っていました。
しかし、海外からの来寇が増すと、必然的に 味方同士として、日本列島の守りに入りました。

もともと、源氏は 『 白 』、平氏は 『 赤 』 で、敵・味方でしたから、源平合戦以降 なかなか 同じ軍団には なれませんでしたが、外敵の前にはそうはいきません。 力を合わせました。

結局 平氏軍団の船に、源氏軍団が乗ることとなり、外敵に対抗したのでした。 
そしてこの時、両者は 源氏の 白地の旗と 平氏の 赤の旗を ひとつの旗にして、日の丸を創りました。

外敵には、皆が 一致団結をしたのでした。 
・・・・ という説。 この説には 大変説得力が あります。


現存、最古の日章旗としては、山梨県甲州市の 裂石山雲峰寺所蔵のものが知られていますが、これは 後冷泉天皇より 源義光(新羅三郎)へ下賜されたという伝承があり、時期的には、ちょうど 『 刀伊の乱 』 の後です。
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# by hansaki460 | 2009-04-02 09:59 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

森繁久彌氏 の こと

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YouTubeで、森繁の 船頭小唄 を見てて 思い出した。e0171497_9333518.jpg

”屋根の上のヴァイオリン弾き” を、何回 見に行ったことだろう。 
見るたびに 涙した。
また、彼のエッセイ 「ふと目の前に」 を読んだ時には、泣が止まらなかった。

それは ある公演でのこと。

公演中に 前列で 下を向いたままの 少女が いた。

役者たちは、代わる代わる 「起きろ!」 と ばかりに、近くに行っては 大きな音を立てて 床を 踏みならしたそうな。

舞台が終わって 拍手をしながら やわら顔を上げた 少女は、盲目だった という。

出演者 全員が、もうしわけなさに 泣いたという。 

森繁は 舞台から 少女に わびた、と書いてあった。

思い出すたびに 涙する。    ・・・・・・今も。


森繁久彌氏は、お元気だろうか?


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# by hansaki460 | 2009-04-02 09:42 | Comments(0)

『 白山神社 』 と 『 駒ヶ岳 』

『 白山神社 』 と 『 駒ヶ岳 』

弾左衞門 と 『白山神社』
中山英一氏は 著書で、長野県の被差別部落の人々と 白山神社の関わりを 詳しく描写しているが、東日本によく見られる 白山神社は、一体何を 祀っているのか。 氏は 「江戸の弾左衞門の 信仰に ならったものでは ないか」 と 推測する。 そして 「権力と財力を ほしいままにした 弾左衞門が、己の職業に与えられた 精神的 いやしさ からの 解放を 必死に願わずには いられなかったであろう」 としているが、なぜ 「賤民史観」 が突如 出現してくるのか? (弾左衛門は 江戸時代の 被差別民であった 穢多・非人身分の 頭領) 
弾左衞門は、本当に 白山神社に 祈り、解放を 求めたのか?
いいや、代々の 弾左衞門 は、己の 職業に 「精神的な いやしさ」 を 感じる どころか
「誇りと 自負心」 を 持っていた はずだ。

安産の神 と 『白山神社』
折口信夫は、加賀白山神社が 「ククリヒメ」 を祀っていることから 「ケガレ淨化 との関わり」 を 指摘した。
同じく民俗学者の 宮田登は 「これは 職能祖神というべきもので、その職能の安全を 保護する神霊」 とし、また 「穢れを 除去する」 神と 説明している。
しかし、白山神社は、古来から、出産の神、安産の神として 祀られてきたという 事実が もう一方にある。
出産の神、安産の神である 『白山神社』 の神が、なぜ穢多の神になっていったのか、歴史学者も 民俗学者も 明確な説明を することができないでる。 被差別部落の人々でさえ、そのことを 説明することが できない。

『駒ヶ岳』 と 『白山神社』
そこで、『駒ヶ岳』 の所在地と、『白山神社』 の所在地を みた時、帰化人の存在と オーバーラップするのだ。

徳川家康 と 『源氏名』
秀吉から 国替えを 命ぜられた 徳川家康は、八月一日(陰暦の八月一日は秋風のたつ九月) に白衣を羽織って 江戸入りした。  
以後、八月一日の 江戸開都祭 の 「八朔の祝い」 では、諸大名や旗本は 皆 白上下を着て、江戸城へ伺候し、江戸城では 将軍から茶坊主に至るまで 白衣を着て、又 その日の 吉原の女郎衆も 白一色になる 行事が あった。
(ちなみに、女郎衆は 源氏系の 限定職で、白拍子も 同じ。 今でも 花柳界や 接客業界で 女性は 職業上の名を 『源氏名』 と称する伝統が ある。)

足利氏 と 源氏
先立つ 室町時代、明国に臣従の形をとっていた 足利氏は、仏教をもっての 人心教化方策として、片っ端から、ナムアミダと やらせていたが、白旗党余類の中でも 『騎馬民族系』 は、それに対抗して 韓(から)神さまを 信仰し、白頭山でも偲ぶのか、加賀の 白山さまを 各地に 勧請したのだ。

◎ すなわち、大陸東北部からの 移住 渡来人の 末裔たち・源氏系氏族が、白山を 信仰したのである。( 白=まわし=北方系=源氏系 )

黒 対 白 の 社会構造
江戸時代になっても、唐・高句麗系の 大和朝廷の貴族や仏教徒は、契丹系の 源氏を差別して 「西方極楽浄土を説く仏教徒」 等は、墨染の衣、つまり黒を身につけて 威張っていたが、江戸の天下では、旗本で 反仏的な 水野十郎左衛門などは 「吾々は 白系だぞ」 とのし歩き 「白衣をもって 対抗していた」 という 歴史的事実 が あるのだ。 北面の武士 以来、武は 貴族から 差別されてきたが、力は 逆転していた。

赤 の 倭
ちなみに、それより古い 八はた系は、土俗八幡の祠 を 作り、その辺りに、男性のものに 似た 陽石を並べ、これを 「道祖神」 として奉っていた。
(北の 『白』 に対して、こちらは 赤=赤ふんどし=海人系=平家系でもある )

覇権者 の 姿
事程左様に、大陸・半島・列島の 人的移動の 歴史の考察 が 不可避だ。 
そして、差別・被差別の 構造も、新しくて 古い問題であり、古代に 遡る、部族間の 問題なのだ。 
学者も、評論家も 決して 正面から 見ようとしない。 
東大寺の 古文書には、寺男を 銭で売買した 記録が あるというのに である。

◎ そこには、白村江の 勝者・唐の郭務宗と、その軍団と、やがては 追い詰められて 列島たへ来た百済系の貴族たちが、倭の 天皇家を 担ぎだし、以後1000年以上 後ろで巧妙に操って来た、覇権者の 姿が見て取れる。
そして、やがては、白山社まで 権力に取り込み、比叡の 配下にして いったのだった。
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# by hansaki460 | 2009-03-28 06:32 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

古代の地名 『 駒ヶ岳 』 の 由来


伊那谷から、木曽駒ヶ岳と甲斐駒ヶ岳が見えます。
駒ヶ根市は駒ヶ岳サミットを提唱した市です。
全国には、正式名称では16ケ所ですが、通称では大小いくつの駒ヶ岳があるのでしょうか?

駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川 以北にのみありますが、それには 大きな理由があります。


紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による高句麗という 国がありました。 日本語での古名は「こま国」です。 

混同されやすいですが、後高句麗(899年~918年)とは、違う国です。 
当然、高麗(こうらい)とも違います。 
高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。

古代、「こま国」からは、『弊賂弁島』『渡島』を経て、列島に多数の帰化人が入植しました。(下図を参照して下さい)

彼らが附けた山の名が、『駒ヶ岳』なのです。 後に彼らは大和朝廷に支配される側となりますが・・・。


日本海を見ると、ほぼ中央に 大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に『粛慎人が「佐渡嶋北」に住み着いた』とある、今は無き 『弊賂弁島』『渡島』です。

大和朝廷の官僚・貴族たちは、「倭人」を『弥次さん』と、「こま人」を『喜多(北)さん』と、または、『八つぁん、熊さん』とか『野次・馬』などと揶揄し、差別・卑下と懐柔策で 日本の国を支配してきました。
 (現在、言葉狩りで、マスコミもこの重大な事実を隠し通していますが・・)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は 朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の維持を図りました。

知らぬは『庶民』ばかり なのですね。

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     【 大和碓 】
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# by hansaki460 | 2009-03-24 09:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

日本の怨念の源泉と足跡(消された古代文字)

日本と半島の怨念の源泉と足跡

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1)太平洋に今は無きム大陸(無大陸)があった。そこでは,比較的高度の文明が発達していた。この文明を育んだ人種を『洋族』とする。
ム大陸は、或る時、突然に沈没し始めた。
『洋族』は、これに驚き故地を離れ華北平原に四散し、さらにその周辺部に拡散した。

2)『洋族』はム大陸から列島にも到達し、南九州の高千穂国の成立に影響を及ぼした。
後の高千穂国は、天御中主之神,高皇産霊神,天照大御神等の偉人を生んだ。これを 『原倭族』とする。

3)中国大陸で『洋族』は殷国 を樹立したが、以後異なる民族との攻防が 繰り返された。
周辺部では北方系民族に遭遇し、一部は渤海湾を迂回して半島に至り、一部は西海を超えて列島に到達した。

◎『洋族』は、ム大陸の深層の記憶に留めたものと思われる。
半島を南下する『洋族』を『午族』とし、西海を渡って列島に至る『洋族』を『倭族』 とする。  中国大陸では『漢族』が主部を占めるに至った。

4)中国は,春秋戦国の時代を経て,前221年に統一された。
秦の始皇帝との覇権を賭けた戦争に破れた『倭族』の【 徐福集団 】は,東アジアに脱出し、『洋族』や古朝鮮系列の『旧午族』も住む列島,半島に分かれて定着した。 
前者が『倭本族』であり、後者が『倭支族』である。
『原倭族』は、同族ゆえに抵抗なく受け入れ『倭本族』と同化した。

◎ 各地に小国を建設した徐福集団の末裔は,分離を意味する『八族』(=倭本族+倭支族)と自称した。

5)半島南部に定着した『倭支族』は,北からの圧力に対抗するために,三韓国:弁韓,辰韓,馬韓を結成した。

6)九州島に定着した『倭本族』はこれに呼応して、『倭国』を結成した。これを『小倭国』 と称する。

7)時代は下り,半島南部では,三韓が任那,新羅,百済に移行した。

8)『小倭国』は,狗奴国が女王国を制圧し、東征して、政権を樹立した。 
これが 『中倭国』 である。

9)この頃、三韓の民が列島に大量に入植した。 これが,古墳時代の幕開けである。
半島では、後に新羅が膨張し、任那が滅亡して、高句麗,百済,新羅の 三国時代が到来した。

10)AD562年、列島の『倭本族』は、半島の『倭支族』を受け入れ、共同して政権を樹立した。 これが 『大倭国』 である。

11)時代は更に下り、半島では、新羅 が 膨張して、百済,高句麗が滅亡した。

12) AD669年,高句麗の中枢,即ち『 新午族 』は,『大倭国』を簒奪し,政権を樹立した。これが 『大和国』 である

◎古代列島は,半島から見た場合に、駆け込み得る 入植地 であった。
中国の 戦国時代にも流民が渡来していたが、その後、先ずは、三韓国の流民が 畿内他に入植した。
◎次に,任那国の流民が 出雲他に 入植した。三韓国,任那国の民は,『小倭国』,『中倭国 』 の民と同じ『倭族』であるので、この段階においては、『列島倭族』に強い抵抗は生じなかった。
◎更に,高句麗国の流民が 列島を簒奪した。
高句麗の民は,『北方系の午族』であるので、この場合には、『列島倭族』 に強い抵抗が生じた。


13)古代国家『大倭国』の創建時に、列島の勢力を代表する物部氏が任那勢力を代表する蘇我氏に 駆逐され、その残党が東北部に後退した。

14)次に、律令制国家が始った『大和国 』の創建時に、『大倭国 』の勢力を代表する蘇我氏が高句麗勢力を代表する藤原氏に制圧され、橘氏,大伴氏などの 旧勢力も徐々に圧迫され 屈服した。

◎ 宗教面では、『小倭国 』の祠庫信仰が,『大倭国 』の屋代信仰に発展したが,これも『大和国 』の社神信仰へと変質した。
◎ 来世信仰は、内面において『小倭国 』の神教から 『大倭国 』 の仏教に,外面において『小倭国 』 の古墳築造から『大倭国 』の寺院築造に転換した。
◎ 反面、『大倭国 』から『大和国 』への覇権交代時には,旧勢力に対する勝者の呪詛、新勢力に対する敗者の怨念が渦巻き、列島に対立,差別の 社会構造が生じた。
◎ 新午族は、徐福=倭族の 古代文字を徹底的に 焚書してしまった。

   【 これらの《 怨念 》が、1300年後の今でも 続いているのです。 】
(長田通倫氏の論文を参考にしました。)

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# by hansaki460 | 2009-03-19 10:24 | 神代文字 | Comments(0)