信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
e0171497_18581696.jpg


HP
まぼろしの
吾道之宮


e0171497_1725895.jpg

   発売中



 今日も 応援クリック
 ありがとうございます

   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村 







google36ed5a3dddf221d0.html
ブログパーツ
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
more...
カテゴリ
全体
やまと言葉
幻の吾道之宮
和歌姫 吾道彦
大御食神社社伝記
神代文字
古代文字便覧 
竹内文献 ホツマツタヱ 古史古伝
歴 史 秘 話
地方史から見た覇権の姿
一般
未分類
最新のコメント
かるいざわ かるいさわ ..
by kuwahara at 11:56
唐・新羅進駐軍の唐側代表..
by 旅人 at 04:53
これが高学年の問題であれ..
by 通りすがり at 02:55
当方のブログに関しまして..
by hansaki460 at 07:23
三毛猫さんが書いているこ..
by moon33magic at 16:05
その他のジャンル
外部リンク
記事ランキング
ブログジャンル


『 故 郷 』

『 故 郷 』

島崎藤村は、郷里の押坂小学校で 記念講演をしたことがある。
近郷から集まった人々で、小学校の講堂はあふれるほどだったという。

ところが、壇上にたった藤村は、深沈としてうなだれたまま一言も発しようとはしない。
集まった人々が、沈黙の時間の長いことにざわつき始めた。
その時、藤村は低音でなにか言った。
瞬間静まった聴衆が聴いた言葉は、たった三行だった。

    血に つながる ふるさと
    心に つながる ふるさと
    言葉に つながる ふるさと


 ・・・・・少し間を置いて

    私は 『春』 という言葉の意味がわかるようになるまでに
    十年間を費やしました。


と、つけくわえた。

ただ、それだけのことだったが、しばらくする、講堂のあちこちからすすり泣きの声が起こったという。

e0171497_17382031.jpg


数年前、テノール歌手の佐野成宏氏が、生まれ故郷の伊那谷で、記念演奏会を行った時のこと。

イタリアに住み、ヨーロッパ各地で多くのコンサートやオペラに出演をしており、もうその頃には、追っかけが いるほどの実力を認められた存在であったが、地元では初めての演奏会だった。

素晴らしい歌声が、故郷のホール満員の観客を酔わせた。

そしてプログラムも最後となり、あの 『故郷』 をうたった。

    兎 追いし かの山     小鮒 釣りし かの川
    夢は今も めぐりて     忘れがたき 故郷

    如何に 在ます 父母    恙 なしや 友がき
    雨に風に つけても     思い 出ずる 故郷

    志を はたして        いつの日にか 帰らん
    山は青き 故郷        水は清き 故郷


歌い終わった一瞬時間が止まったかのように拍手がない。
すると客席からすすり泣く声が聞こえた。 
その声に我に返った客席からは、あたたかなそして大きな拍手が ・・。

       ・・・・ それは、いつまでも いつまでもつづいた。

.
[PR]
# by hansaki460 | 2009-06-24 17:38 | Comments(0)

代官を罷免した中世の百姓は、やはり特権階級だった。

代官を罷免した百姓は、やはり特権階級だった!


応仁の乱の頃、百姓が、東寺領太良庄の代官の罷免を、東寺の惣公文所にあてて、「御百姓等」 の名で出した 『 太良庄 惣百姓等 申状 』 があります。

乱の騒ぎが打ち続くなかで近隣の所領の代官たちは、所領の警護に当たっているのに、太良庄の代官は京からやってこなかった。


「 これ程の大儀に、・・・ せめて御中間を一人下されて、国の様子を見聞されることもない。 口惜しき次第です。」

「 たとい御百姓をば人とは思われずとも・・・・・・ このようなことなら、今後下向されることがあっても、一切御目には掛かりません。」


中世の百姓の論理がまかり通っているのです。
すなわち、よるべき 「公」 の主権者にとって百姓はやはり 「公」 としての存在なのです。

ですから、長禄三年(1459年)当時、「公」 の百姓に対する不当な支配には、抗議をする権利を堂々と行使しているのです。


やはり、古代~中世の百姓は 他の民衆と比べると、特権階級だったようです。

写真は、東寺に残る、申状です。 ↓
e0171497_9283423.jpg

[PR]
# by hansaki460 | 2009-06-14 09:34 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

最古の皇別ゆかりの 『 多神社 』 を ご存じですか?


多坐弥志理都比古神社を ご存じですか?
( おおにます やしりつひこ )

多坐弥志理都比古神社は多氏 ゆかりの神社で、『 多神社 』 と 呼ばれ、奈良県 磯城郡 田原本町 大字 多、「 笠縫 」に有ります。
e0171497_1114230.jpg


古事記、日本書紀によれば、垂仁天皇の皇女・倭姫命は 天照大御神を鎮座する地を求め旅をしたとされ、倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、尾張国、伊勢国 の順に移動し、伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮という名で鎮座したとされます。

笠縫邑(かさぬいむら)は、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を、一時的に祀られた 最初の場所という伝承を持つ場所ですが、多神社を笠縫邑の位置と比定するなら、大変に興味深いことがあります。

多氏は、太安万侶の一族です。信濃の祝もその系統です。

美濃国、尾張国、伊勢国 一円の東にある恵那山には、天照大神の胞衣(えな)を奉ったという伝説があります。
恵那山の東側には、それを守るかのように天照大神の妹の夫ある 天智彦が奉られた 阿智神社があります。

壬申の乱の時、多氏系は 大海人皇子(天武)に荷担しました。
その後天武天皇は、信濃に行宮を計画したり、伊勢神宮の祭祀を重視し 広瀬・竜田祭を国家事業として行い、その影響で信濃の神社(阿智神社・戸隠神社・水内神社・諏訪大社等)は大きな影響を受け、大規模な 移転等が行われました。(推測ですが・・)

その後大陸と半島の影響を受けた藤原の天下となり 情勢は変わりましたが、九州王朝の系統の足あとが、ここそここに たくさん有ります。 古代の伊那谷には欠かせないテーマなのです。

多神社は神武天皇の子で二代・綏靖天皇の兄・神八井耳命のゆかりの神社で、最古の皇別 という 由緒正しいのですが、何故かひっそりと佇んでいます

多氏は謎の多い一族なのですが それだけにまた興味深い一族でもあります。
[PR]
# by hansaki460 | 2009-06-12 11:09 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

百姓は 昔から特権階級だった。

百姓は 昔から特権階級だった。  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

お米の栽培は種籾を催芽させてから籾すりまで約7ヶ月だ。 だが、年1回の収穫だから、12ヶ月が投資期間とすると、米一粒からとれる数は約400粒だから、単純に言えば表面利回りは、40,000%だ。 (半分の生産性でも20,000%)

米は自然の恵みではない。 米は血で購った宝である。 だから古代から為政者は、米を支配した。
米を栽培したのは姓を持った階層の、数多い人達だから百姓という。
だから古代から米を生産する者を、支配者はけして差別しなかったのである。
農民は搾取されたという見方は、金銭で納税されるようになた、近年の作り話である。
農家になれない人たちが、被差別にあったのである。

古代、為政者は籾を貸し与え、秋に回収した。 投資である。
(「貸稲」(いらしのいね)や、「出挙」で、50%~100%の利子を払った。 しかし40,000%の中の100%なのだ。 けして多くない。)

秀吉の太閤検地で、その体制は変質したが、おかげで 家康は 始めから全国を、石高という同じ物差しで 支配することが出来た。
(荘園の一掃と、度量衡の統一)

都市部にある農協が、組合員(農家)の人数より職員の人数の方が多いのは、作物ではなく、元農地の利用から上がる、お金と不動産を管理しているからである。

話がそれたが、おおみたからは大切に保護された。 いわば特権階級だった。 (異論はみとめる。(^^))
今でも農家はことのほか優遇されている。

中世からの本百姓は別だが、江戸期に大きくなった豪農の多くは、小さな百姓に田畑を質にして金を貸し、取り上げた農地を元の農民に貸し与え、小作とした。 それを 「質地地主」 と呼ぶ。 
地主小作制の始まりである。 農家が農民を支配下に置いたのだ。 それが戦前まで続いた。 

40,000%の超超高利回りの投資商品である米は、江戸時代には世界に先駆けて先物取引市場を発展させた。

それを扱う 商人達の中から、石門心学のようなその後に発展した資本主義の精神が生まれてきた。

日本は世界の中で、ほとんどの分野で最先端を走っていたのである。 そこには米の存在があるのだ。


今でも米作りは、差別である。 (農家が悪いわけではない) 
農地は、農家認定されていない非農家の国民は絶対に持てない。

戦後、農地解放で、ただでもらった土地が数十年たって、米の利回り位に値上がりした。 (農地解放を否定しているのでは ない)

だから、農家・農地を支配している 隠れたる者達は、古代の支配者と何ら変わらない。  形が変わっただけなのである。

     ↓ 応援よろしくお願いします
  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 人気ブログランキングへ
     → 史郎のHPもどうぞ!←
[PR]
# by hansaki460 | 2009-05-24 20:16 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

稲荷 と 熊鷹大神 と 羽白熊鷲 と


九州の羽白熊鷲や、蝦夷のアテルイは、列島の先(原)住民であり、リーダーです。 そして熊鷹大神は、伏見稲荷大社や、多くの地で 奉られています。 今回 あるきっかけが あったので、見解を述べます。
e0171497_1311445.jpg
「羽白熊鷲」雄鹿原上組神楽団 

先ず、熊鷹大神とは 誰か?
ということですが、日本書紀にある 神功皇后に 征伐された 甘木朝倉の豪族 『羽白熊鷲』 だと思われます。
それは、 神功皇后が 羽白熊鷹を退治した所の 福岡県筑穂町の 老松神社の 宮司さんによると、鷲 ではなくて 羽白熊鷹 と 伝わっていると、仰ってますから、同一人物 だと 思われます。 世に憚って、鷲を鷹と言い換えたのかもしれません。

では、神功皇后に 征伐された 羽白熊鷹が なぜ神様か? 
ということですが、そこが 藤原氏の天下が 1000年以上、今でも 続いている構造で、夷は 夷の社会を 容認して、公家とは 違う社会 を ずっと造らせて きたのです。 (公家・藤原は 比叡に代表される 寺です。)
そして 羽白熊鷲や、アテルイを倒した後 神にして、順わない民を、あの手この手で 懐柔したのです。

ではなぜ 「稲荷」 にあるのか?
というと、「稲荷」 は 「夷也」 で、先住民というか 原住民というか、朝廷(藤原朝)から 見た場合、従順な 夷の民 (=祠庫信仰者達)の 神様 なのですね。
そして 羽白熊鷹 は、朝廷(藤原)から見た場合の 「夷」 なのですね。
ですから、羽白熊鷹を稲荷に奉ったのです。

関西に 被差別が 多く存在するのは、差別する階級が いるからで、実は 差別する階級は、白村江の勝者で その時 進駐してきた、唐・高句麗系の公家(藤原氏) なのです。
そして差別される 階級は 日本の 原住民 すなわち、『夷』 たちなのですね。 (実際は、職能別で 複雑ですが・・・)

それから、天照大神 も、広義の 『夷』 ですから、天皇家は 日本の 原住民の 祖 なのですが、公家(藤原氏)達が、この国の 官僚として 天皇家の 血 の管理をしながら、君臨して きました。

ただし、あくまでも 天皇家は、夷 の 祖 で あり続けますから、日本は 安泰 なのです。

少し 刺激が 強かったでしょうか? 
私のような 地方の自由人でしか、本当のこと(?)は 口にだしません。
ただ、梅原猛先生は 「藤原の、賢明な悪党は 1000年ばれない 悪を してきた」 と、著書の中で 述べておられます。
[PR]
# by hansaki460 | 2009-05-08 13:13 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)