信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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焚書の歴史【禁書を持っている者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない】



古事記日本書紀を編纂した後、大和朝廷はそれ以前の古記録を徹底して抹殺焚書した。


古事記(ふることふみ)」は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂し、元明天皇に献上された。

日本書紀」は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされ、養老4年5月完成し、一品舍人親王が元正天皇に撰上した。

…というのが定説だ。

さて、古事記,日本書紀が完成した頃、元明天皇の『年号を和銅と改めたまふ時の宣命』(続日本紀)にこうある。

【亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。】
(禁書を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)

この【挟蔵禁書】を学者らは【武器を持って】と読んでおり、また「九州王朝説」では【太宰府中央政府の記録を持って】と読んでいる。

しかし、壬申の乱も収まり、記紀が完成した後のことであり、新しい体制が動き始めたときに、旧体制(伊弉諾,伊弉冉以前の歴史)を記した記録が残っていることはたいへん不都合であったに違いない。


これに先だつ聖徳太子(574 -622)は、推古天皇に先代旧事本紀の編纂を願い出た。

定説では偽書とされているが、先代旧事本紀大成経の神代皇代大成経序にこうある。

【 聖徳太子が奏上するには … 神代は年々が過ぎていくごとに隔たり、先皇の行跡は日々が過ぎていくごとに隔たるが、それは「近世の史家(このごろの ふみつかさ)は、或いは秘し、或いは偏りて而も私無きことを得ず。」と警告をする。

 それゆえに「天皇は、先代にあった出来事を忠実に記して、後の天皇の永久の鏡として、それと違わない法を定めなければならない」と上宮太子(聖徳太子)は訴える。

 これを聞いた 推古天皇は「どうか大王上宮太子よ、御配慮なさって下さい」と答えた。

 そこで太子は、蘇我馬子の宿祢に命じ、朝廷にある記録と、吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の六家の、祖先人のことを記した家蔵の記録を集めさせ、また中臣御食子に命じて、馬子大臣と共に歴史の編纂をおさせになった。】


…… これが、先代旧事紀編纂の動機であると伝わる。


この先代旧事紀には、古神道の秘密がたくさん書かれている。
古神道は古来、皇統の神々を祀るものであったが、崇神天皇の頃から宮中の外に出た。
これが神社神道となり、今に続いている。

また列島には以前からアニミズム的な「祠(ほこら)信仰」もあり、やがて神社神道に祠信仰も習合し、現在も日本人の心の中に息づいているのではないだろうか?


その後 天武の時代、古事記、日本書紀などの編纂を経て、現在に伝わる国体、すなわち天照大神の神勅をもって、日本国の正統と為す国体を創りあげた。


この壮大な『国体創造プログラム』実行の裏には、【古代文字で書かれた古史古伝の焚書抹殺が必須】だったのだ。

今でも学者は、この事実を直視しようとしない。
やまと言葉の研究をする学者すら、言語学会の中にはいない。

だから、在野の研究が大切になる。(^_^)
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by hansaki460 | 2015-02-28 07:52 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

銅鐸


銅鐸は、大国主に授けられた「逆戈=警察力」だった!
   
太古の列島 (日本) では、縄文時代から偉人で神と呼ばれる方々がいた。

記紀や古伝では、天御中主をその始めと伝わる。

そして偉人「天御中主神」に始まる「国之常立神」の皇統は、~ 国狭槌尊 ー 豊国主 ー 泥土煮尊 ー 角杙神~ と続いたが、次の「面足尊」で絶えた。

その間、日高見のトヨケ後の豊受大神が暫定的に日本を総括していた。 

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(トヨケの語るところでは、クニトコタチ → キノトコタチ → トヨケ と生まれ代わっているという。)
(皇産霊尊は、初代(東常立)から7代(高木神)までの役職名だという。)


高木神(7代皇産霊尊)は、娘の伊弉冉(分家)と、根の国を治めていた沫蕩尊の子の伊弉諾(別の分家)を結婚させ、その子を以て本家とすることで、中央部 (葦原中国) の窮状を救済しようと図る。そして天照神が生まれ中央政権が復活し、分割統治に陥っていた日本の再統一が成る。

しかし、養子の「天萬尊」の孫である天つ君となった二神(伊弉諾,伊弉冉)の立場は苦しく、「妥協の暫定政権」とでも言うべき立場であった。

だから、伊弉諾,伊弉冉の世嗣には国常立尊に匹敵する高貴さが要求された。並の世嗣では世の臣民は納得して服わないだろうからだ。

その様な背景の中、伊弉諾,伊弉冉は、未開の八島を、「ト(法)」と「ホコ(警察力)」で世を治めようと、子の天照大神に政権と「経矛」を引き継いだ。

このことをもって「調和/融和と秩序」の実現するためのを象徴とし、日本神道の根源にあるのではないだろか?

その後の代々、「ト(璽)」は中央政府が継承し「銅戈」に象徴さ、「ホコ(逆矛)」は大国主に授けられ「銅鐸」に象徴された。
そして清汚を鑑みる「八咫鏡」を加え「三種の神器」とし、「ヤマト(大和)=調和と秩序,大調和,完成。=日本の国号」と成した。

その過程で、「銅戈(剣),銅鐸の埋葬儀式」が行われ、巻向へ習合し、ヤマトの国体へと発展していった。


【 仮説 】

銅矛や銅鐸が造られた時代に「トホコ」という言葉の記憶が残っていて、その物実(ものざね)としてそれらが造られた。

これが、「銅鐸の謎」の実体である。



 参考サイト
  ほつまつたゑ 解読ガイド(http://gejirin.com/index.html)
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by hansaki460 | 2015-02-24 12:43 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

銅戈・銅鐸の謎解き

古代文字で書かれた「ホツマツタヱ」から、銅戈・銅鐸の謎解きをします。


出雲圏内にあったと思われる銅鐸は、三世紀になると突然造られなくなり、近年には埋葬されたものが発掘されている。
その埋納時期は、紀元前後と二世紀頃に集中している。

銅鐸については諸説があり、例えば松本清張等は、平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られた、とする。

しかし、古史古伝から観ると、違った風景が見える。


     ◇


ホツマツタヱには、「ホツマツタヱを述ぶ」という前書きがあり、

初代天神国之常立は「トの教え【トホコ】」を説いた。
【ト】は「調の押手」といい、「経・法」の意味をさし、「調和/融和と秩序」の実現を象徴する。
【ホコ】は「逆矛」のことで「法と警察力」を指す。


…と云う。


さて、

『またも 宝の故は 調の道に 地 治むれど その中に 横転く者は 己が実に 合わねば道を に行く』23文

『オオヒコをして 越の治人 タケヌナガワを ホツマ治人 キビツヒコして 西南の治人 タニハチヌシを 丹波治人 教え 受けずば 綻ばせ  賜り 軍立ち』33文

矛の掟は 御恵みに 横曲(汚しま) 滅ぼす 端の抜き』ミ1文

『玉はタテ 貫は潤す 矛もタテ 横曲 滅ぼす 二柱 行き来 鳥居の 二神と 聞きて 各々 ヲシテ 染めけり』ミ3文



トとは「調の押手=爾・法」で、北九州にあった当時の中央政府は、銅戈をもってその象徴とした。

一方、「トのヲシテ」(爾・法)と共に伊弉諾,伊弉冉から天照大神が授けられた「ホコ=矛=逆矛」は、後にクシヒコ (大国主) に授けられた。
この「ホコ」はイサナミの『調の道に逆らう者を排除する「逆矛」』を表し、「隈の神」の意味でもある。

この「逆矛」こそが【 銅鐸 】が象徴する教え=神道なのだ。


例えば、ヤマトタケノ尊が東征した時の随伴者は、出雲の人間だ。

だから当時、北九州の中央政府と、出雲の警察力が力を合わせて列島の統一に力を合わせたことは想像できる。

ただし古史古伝では、本来 列島はまとまっていたが、やがて横曲(汚しま)がはびこる世とになったため、東征・西征を成した…と。

その後【銅戈】と【銅鐸】を収めた史実は、

『禊に民の調ひて イヤマト 徹る 葦引きの 千五百の生田の 瑞穂 成る マトの教えに かかんして のん アワ国は てん ヤマト』5文
『マトの教えは 昇る日の 本なる故に "日の本" や 然れど ヤマト な棄てそよ』23文


と、やがてヤマトと成るためのセレモニ-だったのだ。

そして清汚を鑑みる八咫鏡を加え三種の神器となし、ヤマト(大和)と成した。

だからヤマトとは、調和と秩序・大調和・円満・完成のことであり、日本の国なのだ。
もちろん「日の丸」もその象徴。


『やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 やまこもれる 倭しうるはし 』と、詠んだヤマトタケの時代の偉業は、史実からも裏付けされる。


また、柏手を四回打つ作法は、神道の流儀が別れたことにすぎないと思う。
宮中の神殿(三殿の内)には、出雲系も祀られていると云う。

銅戈が北九州~瀬戸内側に、銅鐸が出雲~近畿,東海にあるのは不思議なことではない。
学者らが、古代文字で書かれた記録を忌避しているかぎり、日本の歴史は外つ国からの賜物と、自虐史観が続くのではないだろうか?


参考サイトは、『ほつまつたゑ 解読ガイド』 です。


銅戈=爾、逆矛=銅鐸、という見解は、見かけません。
ただ、戦後の無神論の史観からは到底受け入れられないから、過去に主張した方もいたかもしれませんが、私が知る限り初めてだと思います。(^^
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by hansaki460 | 2015-02-20 19:29 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)