信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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なぜ韓国は、パチンコを全廃したのか?

なぜ韓国は、パチンコを全廃したのか?


レジャー白書によると、平成21年度のパチンコ参加人口は、前年比140万人増の1,720万人、参加率も前年比2.5%増の16.8%と、ともに2年連続で増加傾向を示した。

しかし、規制の強化に伴い、年間平均活動回数は20.4回、年間平均費用は7万5,000円と、ともに過去10年で最低値を記録し、市場規模も21兆650億円と、過去最低 を記録した一昨年からさらに6,510億円下回り、6年連続で減少となった、という。


一方、台湾では随分前にパチンコが法律で禁止になり、1万5000軒のパチンコ屋があり、夜通し営業で日本円にして3兆6500億円の規模だった韓国でも、2006年にパチンコが法律で禁止になった。

日本では、米国ラスベガスや中国マカオに常設された商業カジノの10倍も多く売り上げる21兆650億円の規模だ。

市場規模を参加人口で割ってみると、なんと126万円になる。
そのうえにパチンコ常習者の平均年収は日本人全体の平均年収を上回ることはない。



パチンコ店長職のブログには、こんな事が書いてある。

パチンコ依存症を自覚している人が、遊技している人全体の30%もいらっしゃいます。
また多重債務で苦しんでいる方が遊技客全体の0.5%となっております。

パチンコ依存症の方は全国で100万人と言われておりましたが、この意識調査を元に考えますと、単純に参加人口が1380万人でその30%。つまり400万人の方が何らかの形で自覚されていることになります。



中毒の危険のある嗜好品として、酒とタバコがある。
酒の市場は4.5兆円、タバコのそれは1.5兆円。
額面上では、二つをあわせた三倍以上も、パチンコは危険だということになるが・・・・・。^^;


パチンコ業界の成り立ちや、背景にある利権については、いろんな経過や要素がある。
一部では、タブーですらあるようだ。

しかし、私はパチンコへの規制は、もっと厳しくするべきだと思います。
by hansaki460 | 2010-12-23 07:09 | Comments(1)

世界に誇るべき 『江戸しぐさ』

世界に誇るべき 『江戸しぐさ』


江戸時代の日本人について、外国人が観察した記録が残っている。

渡辺京二氏の「逝きし日の面影」によると、異口同音に
「こんな美しい愛すべき民族はいない」
と日本人を誉めている。

約束は守る、真面目、子供を可愛がる、友達思い、皆で助け合って仕事をしていると言うのです。

また、「こんにちは」、「おはよう」、「さよなら」と挨拶をする、それを小さな子守までが言うから、背中の赤ちゃんが真似して「よー」とか「ちわ」とか挨拶すると言う。


イギリスの詩人アーノルドは、日本人を評して、

「日本には礼節によって生活を楽しいものにするという普遍的な 社会契約が存在する。
 その魅力的な態度、礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈ではなく、精巧ではあるが飾ることもない」
と述べている。

このような江戸時代の日本人の身のこなし方は、「江戸しぐさ」と言われている。


1700年代の初め、江戸の人口は100万人を超え、武士も町人も全国各地から集まり、異なる習慣や方言が寄り合った。

そこに相手を尊重し、互い助け合う相互扶助の精神が根付いた。
それを具体的な身のこなしや言葉として示したのが 「江戸しぐさ」 だ。

江戸しぐさの生みの親は、町方のリーダーの町衆だ。
商人の中でも上に立つ人たちで、商売繁盛のために、お客様とのよい関係を築き、それを保つために知恵を絞り、工夫を重ねた人付き合いのノウハウがベースになっている。
そして商売繁盛の知恵から、一般的な生活の知恵になった。

基本は相手に対する思いやり、お互い様、惻隠の情です。

江戸しぐさには「お心肥やし」というキーワードがある。
心を豊かにし、学問を学び、人格を磨くことに努めるべきだとの戒めだ。
それを書物から学ぶだけではなく、手足を動かし、自分で体験して考える実践が大切だと教える。

江戸の子育てを表している言葉がある。

「三つ心、六つ躾、九つことば、十二文(ふみ)、理(ことわり)十五で末決まる」

「三つ子の魂百まで」がすでに理解されていた。
親は子供が3歳になるまで脳と身体と心をしっかり養育する。
6歳までには箸の使い方や日常生活のルール、良い悪いの判断、
9歳までには世辞や挨拶ができること、
12歳までには商売上の書類や書状を書けること、
15歳までには、世の道理がきちんと分かることと言うこと。
この年齢でその子の行く末を判別した。

子供の成長段階に応じた教育と言うよりも養育、鍛育だ。
15にもなって躾をしてもダメなのです。

寺子屋では、「読み書き算盤」とともに、他人の意見を否定せずに自分の考えを出し合う、今で言うブレーン・ストーミング、設定した役割を演じるロール・プレイングなどが行われていた。

また地域には、相互扶助の「講」があった。
講は地域の問題解決の場であると共に、人々の触れ合いの場で、子供達に江戸しぐさを、手取り足取りで教えることも非常に大切にされていた。

講が生活に組み込まれていたことは、講習会、講堂、講師、講座と言う言葉が今に残っていることからも推察される。

子供達は、親、寺子屋、地域(講)で教育されていたのだ。

江戸しぐさには、

「傘かしげ」は雨の日にお互いに傘を外側に傾けてすれ違うこと、
「肩ひき」は人とすれ違うとき肩を路肩に寄せること、
「時泥棒」は訪問時には相手の都合を聞き約束の時間を守ること、
「うかつあやまり」は例えば足を踏まれたとき
「すみません、こちらがうかつでした」と自分から謝ること、
「七三歩き」は道を歩くとき片側により、7割は他の人のために空けておくことなど。

これらは「往来しぐさ」と言われた。

江戸しぐさの本質は、「立派な人間」を目指すと言うことだった。
「指切りげんまん」「死んだらごめんよ」は、約束は口約束でも絶対に守ると言うこと。
「結界覚え」は「餅は餅屋」で専門家を立てよと言うことです。
「人のしぐさを見て決めよ」とは、相手をよく理解せよと言うこと。
「尊異論」とは、丁稚の意見でも違う意見は尊重せよと言うことだ。

江戸しぐさは、明治の文明開化でなおざりにされ、戦後は高度成長の折にないがしろにされた。

埼玉県教育委員会で、江戸しぐさのビデオを作成したことがあった。
それを観た中学生が感想文で、
「なぜ大人たちは、この美しいしぐさを教えてくれなかったのか」
と記した。
子供達自身は、立派な大人になりたいと求めているのです。

大人たちはそれに応えられないが、江戸しぐさや、教育勅語も、昔の修身教科書がある。
立派な大人への道を、先祖はすでに示しているのです。


日本の心を伝える会 メールマガジンより
by hansaki460 | 2010-12-21 09:28 | Comments(1)

菩薩のこころ 天使のこころ

菩薩のこころ 天使のこころ


『ジャータカ物語』という古い文学があります。
仏教でいう前世物語のことで、有名な話に、『捨身飼虎(しゃしんしこ)』が知られています。

釈迦の前世である「薩埵(さった)王子」は、飢えた虎とその7匹の子のために身を投げて虎の命を救った、という話で、『菩薩とは何か?』を教えるための説話を描いた一例です。

修行時代の仏陀のことを『菩薩』と呼び、ジャータカ物語でも釈迦の前生の姿を『菩薩』と呼んでいる。
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日本では、『如来』よりも、身近な現世利益・救済信仰の対象として『菩薩』がより崇められ、観音菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、などは女性からも崇拝され、とりわけ庶民の身近にある地蔵菩薩などは、多くのひとびとに尊崇されてきました。

『菩薩』とは、見返りを求めずに、人のために尽くしたいという思いを、無意識のうちに持っていて、行動をとる人のことを言うのだと、私は思います。

そしてなぜ『菩薩』はひとびとから尊崇されるかと考えたときに、人の心の中に菩薩と同じ思いがあり、その思いに共感するからだと思います。


こんな話があります。

「アウシュヴィツの聖者コルベ神父」  マリア・ヴィノフスカ著

1941年7月の末、第14号獄舎で異変が起こる。
一人の逃亡者が出たのである。
しかしそれは収容されている10人の命と引き換えになることを意味している。
つまり徒刑囚達への「みせしめ」となるのだ。

そして7月の炎天下の中で10人が選ばれた。
「ああ、家内と子供がかわいそうだ。もう一度会わせてくれ!頼む!!」
悲鳴が上がり、呻き声がこだまし、激しい呼吸音が交錯した。

10人は列を作らされ、目の前に不気味にそびえる十三号獄舎へと進むよう命じられる。
餓死監房で死ぬためだ。  列が進み始めた刹那、奇跡が起こる。

一人の徒刑囚が前に出てくる。コルベ神父だ。

「わたくしは、受刑者の一人に代わって、死にたいんです」

……所長の顔に驚愕の色が浮かび上がる。

「私は年寄りで、なにもできません。生きていてもたいして役にも立ちませんから」

「だれの代わりに死にたいのか?」

「あの人のかわりに。あの人には妻子があります」

「おまえはだれだ!」

「カトリック司祭です」

「……よし、あいつらと一緒に行くがいい」


おそらく実話でしょう。
遠藤周作の本にもコルベ神父の話はよく出てきます。
西洋ですから天使の話ですが、東洋的に言えば菩薩の姿です。

菩薩と天使の心境は、同じレベルのものなのではないかと思いますが、いかがでしょうか・・・。
by hansaki460 | 2010-12-15 22:05 | Comments(0)

米国の援助で復興した嘘!  隠された戦後史

米国の援助で復興した嘘!  隠された戦後史


朝永振一郎氏、湯川秀樹氏や小柴昌俊氏と言ったメンバーが所属していた『七人委員会』という団体があり、そのメンバーである池田香代子氏が、ブログ書いています。

読んでいて、びっくりしました。
要約を紹介すると・・・・


日本の戦後復興は米国のおかげ、と信じているのは、米国人だけではなく、日本人もいる。
いや、いまだにほとんどの人がそう信じ込んでいる。

しかし、日本への米国の復興資金(ガリロア資金)は、1946年からの5年間で17億ドルほどで、西独の1000分の1である。

民間資本も入っていない。
明治以来、植民地化を警戒して、外国資本受け入れにきわめて慎重でった。
貧しい国だったのに、人びとの多大な犠牲のもと、莫大なお金をかけて、たとえば富岡製糸場を自力でつくった。

しかし米国は、60年代の半ばになると、経済成長めざましい日本に投資したくなり、資本の自由化を要求してた。
日本は、しぶしぶすこしずつ自由化していきましたが、あの頃の社会を覆った不安を、うっすらと憶えている。

日本は自力で焼け跡から立ち直り、経済成長を遂げたのだ!
そう、声を大にして言いたいが、……戦後の復興は朝鮮戦争という犠牲なしにはありえなかったからだとしても、戦後復興から現今の安全保障まで、「すべては米国のおかげ」という洗脳状態、いいかげんに抜け出しませんか。

http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51315985.html


子供の頃、幼稚園で脱脂粉乳を飲んだ記憶は、子供心にも『米国の援助品』と言う言葉と同意語だった。

しかし、池田氏のブログで書かれていたことを、今日初めて知った。

復興支援金の額が、ドイツの1000分の1だったとは!
by hansaki460 | 2010-12-12 10:14 | Comments(0)

トワイス・ボーンの瞬間 「クリスマス・キャロル」

   トワイス・ボーンの瞬間 
       「クリスマス・キャロル」



主人公のエベネゼール・スクルージは、金持ちの商人だが、守銭奴でエゴイストで、心の暖かみや愛情などとは、無縁の人物である。

共同経営者のマーレーが亡くなってからは偏屈になり、クリスマスの慈善院や教会から寄付には一文たりとも出さない。

長年雇用している事務員のボブには、最低賃金しか払わず、事務所の燃料のさえケチるので、両手を擦り合わせて事務を執るのである。
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明日はクリスマスという夜、七年前に亡くなった共同経営者のマーレイの亡霊が、三人の精霊がこれから彼の前に出現すると伝える。


「過去のクリスマスの霊」は、貧しかったが幸せだった子供のころ、まだ素朴な心を持っていた青年時代のスクルージの姿を示した。

「現在のクリスマスの精霊」は、薄給であるにも拘わらず、文句を言わず心優しいボブ一家の貧しい食卓と、ティム坊やの足の病気の手術もしてやれず、長くは生きられないことを示す。

精霊と共に世界中を飛び回って疲れ切って眠り、目覚めると、真っ黒な布に身を包んだ不気味な
「未来のクリスマスの精霊」がスクルージを待っている。

評判の悪い男の無惨な死体や、その男の衣服まではぎとる女の姿や、クラチットの子ティムが、両親の希望も空しく世を去ったことを示した。

そして荒れた墓場の墓石の表に記さた自分の名を読み、激しい衝撃に襲われ、生まれて初めて自分の生き方を激しく後悔するのだ。

しかし、経験した悪夢のような未来が、まだ変えることができることを知り、目覚めた彼は・・・・

(最後の章のさわり・・・)

スクルージは、ボブの入るところが見られるように、戸を開け放したまま腰掛けていた。

「クリスマスおめでとう、ボブ君!」と、スクルージは相手の背中を軽く打ちながら、誠意をこめて言った。

「この何年もの間、俺が君に祝って上げたよりもめでたいクリスマスだよ、君。
俺は君の給料を上げて、君の家族の方々を助けて上げたいと思っているのだがね。
午後になったら、すぐにも葡萄酒の大盃を挙げて、それを飲みながら君の家のことも相談しようじゃないか、ええボブ君! 
火をそろえなさい。そして大急ぎでもう一つ炭取りを買って来るんだよ、ボブ・クラチット君!」

スクルージはすべてその約束を実行した。いや、それよりも無限に多くのものを実行した。
そして、実際は死んでいなかったちびのティムに取っては、第二の父となった。

彼は古い都のロンドンにも、未だかつて居なかったような、善い友達に、そして善い主人と、善い人間ともなった。ある人々は彼が一変したのを見て笑ったほどだった。
・・・・・・・・・
ちびのティムも言ったように、
神よ 我らを祝福し給え――我ら総てのひとびとを!

    ◇

「人はいつでも変われる、すなわトワイス・ボーン(=二度目の誕生)は、遅すぎることはない」という教訓を思い起こさせます。 


クリスマス・カロル:ディッケンス:森田草平訳(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000914/files/4328_8144.html
by hansaki460 | 2010-12-08 20:27 | Comments(0)

伊那谷を北上した!? 失われた十部族

伊那谷を北上した!? 失われた十部族


昨日に続いて、イスラエルの失われた十部族の話です。

諏訪大社・上社とイスラエルのつながりを、多くの人が指摘しており、先年イスラエルから、その調査に来たほどです。


伊那谷の大鹿村に、諏訪本社大明神と呼ばれる葦原神社 があり、建御名方神は、大鹿村から諏訪へ行ったと伝えられています。

そして、諏訪大社の 『御頭祭』 での席順は、その大鹿村が最上位の席という過去の事実があり、いろいろ興味が湧きます。

その 『御頭祭』 とはどんな祭かというと、旧約聖書で、アブラハムがその息子イサクを、神に捧げようとした時に、神の許しが出てイサクの代わりに耳が裂けた羊を捧げたという話とそっくりだと言うです。


諏訪の御頭祭は、羊の代わりに 耳の裂けた鹿を捧げ、また御神童(こども)を 生け贄にするが、神前で解き放たれる と言う 祭なのです。 
(近年は、生け贄の話には 触れられませんが・・・)


菅江真澄の 『すわの海』 と言う、1784年に書かれた紀行文に詳しく書かれているので、 紹介します。

            ◇

前宮の十間の 直来殿に、鹿の頭七十五、マナ板の上に並ぶ。
その中に、耳裂けの鹿は、神矛にかかるといえり。 歌にいはく

「かねてしも 神の御供え 耳さけの 鹿こそ 今日の 贅となるらめ」
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神官達が祓詞を奏上すると、御神楽が聞こえてきた。
柏手が三つ聞こえると、神楽が止んだ。

御神童を、桑の木の皮を縄に撚りて縛め、「先ず、先ず」 と言った。

祭詞を読み終えると、礼服を着た頭主が御神童を背負って退出した。

・・略・・

その後より御贄柱を担ぎ、御神の童を背負た男が、「御宝」 と言いながら、サナギの鈴を五ツ、錦の袋に入れて木の枝にかけ、ゆっくり七回廻ると皆帰った。

神長官の屋敷に御社があり、その社前で御神童の縄を解いて放し給うたという。

・・・・以下略・・・

            ◇

次に、旧約聖書の創世記22章です。

神は仰せられた。
「 あなたの子、イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。
 山の上で、全焼のいけにえとしてイサクを私に捧げなさい。」

翌朝早く、アブラハムは二人の若者と息子イサクと出発した。
三日目に、その場所が はるか彼方に見えた。
アブラハムは 若者たちに、「ロバとここに残っていなさい。 私とイサクは礼拝をして、戻って来る。」 と言った。

アブラハムは 生け贄のための薪をイサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、進んで行った。

・・・略・・・

二人は 神が告げられた場所に着き、祭壇を築いた。
薪を並べ、イサクを縛り、祭壇の上の薪の上に置いた。

アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子を屠ろうとした。

そのとき主の使いが 「アブラハム。 アブラハム。」 と彼を呼ばれた。
「 あなたの手を、その子に下しては ならない。
 今、私はあなたが神を恐れることがよくわかった。
 あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

目を上げて見ると、角を藪に引っかけている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは その雄羊を取り、自分の子の代わりに、生け贄として捧げた。

そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。
今日でも、「主の山の上には備えがある。」 と言い伝えられている。

            ◇

『モリヤの地に行きなさい』と言った同じ音の『守屋山』は、諏訪大社から南西の方向にある。
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この 生け贄の話と、耳裂けの鹿の話は、諏訪氏の梶の葉紋が、イスラエルの国家紋章に似ているということ併せて、『失われたイスラエルの十部族』 と関連があるのではないか? と 語る人々は多い。
by hansaki460 | 2010-12-06 22:29 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

古代イスラエルから来た祇園祭(!?) 失われた十部族

古代イスラエルから来た祇園祭(!?)
          失 わ れ た 十 部 族




『新撰姓氏録』 の、諸蕃帰化人系の氏族 326氏の中に、

  八坂造 出自 狛国人 久留 川麻乃 意利佐也

  八坂造(やさかのみやっこ)は、久留(くる) 川麻乃(せんまえ)  
  意利佐(おりさ)の 狛(こま)国人(高句麗人) の出身。 

  ・・・とある。

久留(クル)は、中国・江南にあった呉。
意利佐(オリサ)は、インド東部の オリッサ州。
川麻乃(センマエ)は、呉とオリッサの中間にある タイのチェンマイ。

すなわち、祇園祭りを守ってきた 京都、八坂神社の社家・八坂一族は、インドのオリッサ州から、タイのチェンマイ、中国の呉を経て、朝鮮や日本にやってきた コマ国(高句麗=狛国)の人、と読める。


京都の祇園祭りの原型ともいわれる『ラタヤットラ祭り』は、インド オリッサ州・プリーの、ヒンドゥ教・ジャンガナート寺院から、グンティチャ・マンディール寺院まで、大きな山車を曳く祭りとして続いている。
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それらの祭の原原型は、イスラエルの『シオン祭』にあるとする説がある。

シオンとは、イスラエル・エルサレム地方の歴史的地名で、今は『ジオン祭』と言うそうだが、ノアの箱舟がアララテ山に漂着した人類復活の日の7月17日に行われるという。

京都八坂神社の祇園祭は7月1日から始まり、7月17日に行われる山鉾巡行でクライマックスを迎える。
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なかでも、函谷鉾の懸装品(ゴブラン織 前掛)・「稀世の珍品」 の図柄は、 旧約聖書創世記第24章の一場面とされ、アブラハム家の老僕エリアザルが 処女リベカに水を求めている場面が大きく描かれている。
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ところで、イスラエルの聖書時代の歴史によると、族長アブラハム(紀元前17世紀)によりイスラエルの記録がはじまる。

そして孫のヤコブの時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。

モーゼが民をエジプトから連れ出し、その後ダビデ王、ソロモン王の時代を経て、10部族による北王国 イスラエルと、2部族による南王国ユダに分かれた。

そして北王国イスラエルは、紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10部族は虜囚としてアッシリアに連行された。

この10部族の行方が文書に残されていないため、2部族によって『失われた10部族』と呼ばれた。


イスラエルの族長 アブラハム  『シオン祭』
                      ↓
インド東部のオリッサ州      『ラタヤットラ祭』 
                      ↓
八坂一族               『祇園祭』
 
これらの繋がりが、その10部族の一部が日本に来た証しだと言うのである。
もちろん そのほかにも、その証しとなるものが沢山あると、研究者たちは 主張する。
by hansaki460 | 2010-12-05 22:05 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

農業改革は、早いほうが良い!

農業改革は、早いほうが良い!


今日は、誤解を恐れずに書く。 ^^


米は自然の恵みではない。 血で購った 宝 だ。
だから古代から為政者は米を支配したが、米を生産する者を けして差別はしなかった。

農民は搾取されたという見方は、金銭で納税する様になった、近年の作り話だ。 
農家ではない人たちが、被差別にあったのだ。

米は、1粒の種籾から 約600粒取ることができる。
単純に言えば 表面利回りは、60,000%だ。

だから古代の為政者は、籾を貸し与え、秋に回収した。
それは投資なのである。
「貸稲」(いらしのいね)や、「出挙」で、50%~100% の利子を払ったが、60,000% の中の
100% だから、けっして多くはなかった。

今は 都市部の農協が、組合員(農家)の数より多い職員を抱え、農作物ではなく不動産とそこから上がる お金を管理している。



秀吉の太閤検地は、それまでの荘園を一掃し、そのために家康は 全国を、石高という同じ物差しで支配することが出来た。

中世からの本百姓は別だが、江戸期に大きくなった豪農の多くは、小さな百姓に 田畑を質にして金を貸し、取り上げた農地を元の農民に貸し与え、小作とした。 
それを 「質地地主」 と呼ぶ。
地主小作制の 始まりであり、農家が 農民を支配下に置いたのだ。 それが 戦前まで続いた。 

60,000% の超超高利回りの投資商品である米は、江戸時代には世界に先駆けて 先物取引市場を 発展させた。
それを扱う商人達の中から、石門心学のような その後に発展した資本主義の精神が生まれた。

日本は世界の中でほとんどの分野で最先端を走っていたが、そこには米の存在があったのだ。



今でも米作りの側が、非農家 国民を差別している。 
農地は、農家認定されていない非農家の国民は絶対に持てない。

戦後、農地解放でもらった土地は、数十年たって米の利回り位に値上がりした。
だから 現代の都市部にある農協が、組合員の数より多い職員を抱えているが、それは農作物ではなく、元農地の利用から上がる、お金と不動産を管理しているからだ。


私の親の兄弟は、皆農家だった。 私の姉たちも 農家の長男に嫁いだ。 
だから農家の実態は 知り尽くしている。

そのうえで言うが、農家利権だけを持っている「農民もどき」が日本には多過ぎる。 
(・・・自家用の家庭用菜園は別だが、しかしそれすら 農家利権なのだ。)

2009年 6月に成立した 改正農地法は、「耕作者主義」を転換する画期的な内容になるはずだったが、審議の途中で 民主党の要求によって骨抜きにされてしまった。

農業利権者たちが、日本の食を牛耳っているから、農業政策は 矛盾している。
家庭用菜園のために農地を持つ事すら禁じておきながら、大規模農業への政策も無い。


TPP 「環太平洋パートナーシップ協定」 への参加や、農業改革は、早いほうが良い。
by hansaki460 | 2010-12-04 23:18 | Comments(0)

真実!? アトランティス大陸

真実!? アトランティス大陸


『イデア』 と 『プシュケー』。
プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)の哲学は この二つの言葉に集約される。
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それを「知」と「魂」とも、「理念」と「精神」と言ってもよいけれど、『イデア』 というのは数そのもの、図そのもの、形そのものでもあった。

一方、『プシュケー』 には3段階があるだろうと プラトンは言った。
「理知な魂」、「気概な魂」、「欲望な魂」 の三タマだ。

だからプラトンにとっては、『プシュケー』 も純粋無雑なものなのではなくて、やはり抽象であって具体そのものなのだ。

・・・・松岡正剛氏に こう言わしめたプラトンは、紀元前427年、アテナイ最後の王コドロスの血を引く貴族の息子として、アテナイに生まれた。

プラトンは古代ギリシアの哲学者である。(紀元前427年 - 紀元前347年)
ソクラテスの弟子でアリストテレスの師。

プラトンの思想は西洋哲学の源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」といった。

その偉人を持って、著書 『ティマイオス』 及び 『クリティアス』 の中で述べたのが 『アトランティス』 である。

そして、1882年には、アメリカの政治家・イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリーが、『アトランティス―大洪水前の世界』 を発表し、一大ブームとなった。



アトランティスの伝説は、プラトンが執筆した作品とされている 『ティマイオス』 と 『クリティアス』 の中に、対談の形式で書かれ、クリティアスからアテナイとアトランティスの伝説が語られる。
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          アタナシウス・カーシャーのアトランティス大陸の地図 南が上になっている。


・・・アトランティス大陸は栄華を極めた王国であったという。

  エジプトの老神官が語るところによれば、アトランティスは、ギリシア神話の海神ポセイドンに
  分け与えられた土地であった。

  アトランティスの創始者ポセイドンはギリシャ神話に登場する海神だ。
  ポセイドン ー この神は、オリンボスの神々のなかでも、もっとも恐れられていた神だ。

  イルカにひかせた車で海上をかけめぐり、三叉のホコをふるって暴風雨をひきおこし、
  領地の所有権をめぐって他の神々と争った。
  またポセイドンはたいへん気まぐれで、愛情深いやさしい表情から、一瞬にして怒りに震える
  残酷な表情へと変貌するのである。
  それはくずれやすい海の天気そのものであった。

    ・・ 略 ・・

  アトラントの子孫は、莫大な財宝をたくわえて豪勢な生活をした。
  物資の多くは、外国から輸入されたが、生活必需品は島で生産された。
  いまは名前しか知られていないが、島のなかだけでしか採れないオリハルコンという鉱物が
  あったという。

  動物の種類も数多く、とりわけゾウがたくさんいた。
  植物も豊かで、果実、野菜などが豊富に生産されていた。

  すばらしい王宮

  首都建設の土木工事も目を見はるばかりだった。
  首都をかこむ環状の水路には橋がかけられ、王宮への出入道がつくられた。
  また港の入口は拡張され、大きな船も楽々と入港できた。

  ・・略・・

  神殿の表面には銀が張ってあり、ヘリには黄金の板がかぶせてあった。
  天井の主要部分は象牙で作られ、装飾には金、銀、オリハルコンが使われていた。
  また、壁、円柱、床は、すべてオリハルコンでおおわれていた。
  祭壇には、戦車に乗ったポセイドンの黄金の神像が立っていた。
  ポセイドンが乗る戦車を引くのは、6頭の羽のはえた馬であり、その周囲にはイルカに乗った
  100人の従者がつき従っていた。

  ・・以下略・・

すなわち、中央島のアクロポリスには、クレイトとポセイドン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。

ポセイドンの神殿は金、銀、オリハルコン、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。

アトランティス島は、生活に必要なほとんどを産する豊かな島で、ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

栄華を極めたアトランティスの支配者は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり堕落し、神ゼウスの怒りに触れて海中に沈められた、とされている。


最近では、Google earthで、「アトランティス大陸発見か?」というニュースで騒然となったのは記憶に新しい。
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見るからに人口的なグリッド線、そしてアトランティス大陸があったと有力視されている場所に不自然にある遺跡のようなものがより信憑性を増したが、Googleはこれを否定している。



アタナシウス・カーシャーのアトランティス大陸の地図で す。
ただこれは、彼が、逆さにつまり、南が上になって描いていますので、これを逆にするとヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸に挟まれた所に、大陸が描かれています。
by hansaki460 | 2010-12-03 13:56 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

本当にあった!? 『ムー大陸』

本当にあった!?  『ムー大陸』


今から約30万年~約1万3000年前、太平洋 中央一帯に大陸があった。
広さは 東西8000km、 南北5000km に及んだ。

大陸は、「ラ・ムー」という 国王が統治する国家があり、首都は ヒラニプラで、人口は 6400万人にも及んだという。

大陸は超古代文明が栄え その技術を活かし、次々と 他国を制圧し 支配地を拡大する軍事国家でもあった。

しかし、栄華を極めた大陸は、大地震と津波により 一夜にして海の底へ沈んでしまった という・・・。

その時 船で逃れた人々は、ベトナムや 日本、中国人の源流となり、一部の人々は、南米アンデス および大西洋のアトランティス大陸に逃れ、ムーの科学文明を アトランティス文明に伝えた。

その大陸こそ、伝説とされている 『ムー大陸』 である。
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それは、メキシコに上陸した スペインの兵士たちに征服された後、キリスト教の宣教師たちによって 破壊し尽くされた史料の中で かろうじて残った三部の文献のうちの、 『トロアノ古写本』 にこう書かれているという。

  カンの 6年、11 ムルク、サクの月に 恐ろしい地震が始まり、
  13チュエンまで やむことなく続いた。

  地の丘の国 - ムー大陸は 犠牲の運命にあった。
  地下の火の作用により、大地は絶え間なくうち震え、
  各地で盛り上がり、また 沈んだ。

  ・・・・

  10 の国々(民族)は 四散した。
  かくして 6400万の 住民は その国と共に 没した。
  この書を編むに 先立つこと 8060 年前 のことである。


この 「トロアノ古写本」 を フランスの神父が 解読したのを、イギリスの 元陸軍大佐 の ジェームズ・チャーチワードが 「ムー大陸」 と 名付けたのが 事の始まりであった。


ジェームズ・チャーチワードは、著書『失われたムー大陸』の序文で、

  この書に書かれている事柄は、すべて 二種類の古代の碑文板に基づいている。

  そのひとつは インドで見た 『ナアカルの粘土板』 であり、
  もう一つは メキシコで発見した 2500点余の 石版である。 (トロアノ古写本)

  この 二種類の 碑文板は、どちらも ムー大陸の聖典『聖なる 霊感の書』 を 元にして
  記されたものである。 

  ・・以下略

と述べている。
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また、チベットに残る ラサ と呼ばれる古書には、選ばれた王 あるいは神官を、ラ・ムーと呼んでいたと言う記録が残されている。 

チャーチワート人が 粘土板を発見した地が チベットだった事を考えても、ムー大陸から逃げてきた ムーの住人が チベットに上陸、定住したという可能性は 高そうである。


では なぜ滅んだのか?
広大な大陸が 一夜にして滅んだ理由に 様々な説が 浮上している。

神々の怒りを買い、大洪水により 滅んだ。
ムー大陸の火山が噴火した際に、地下に充満していた火山ガスに引火して爆発し、元々ガスがあった空洞が 崩れて滅んだ。
小惑星が 地球に衝突して大地震と津波により滅んだ。

どれも 科学的に証明できず、そもそも ムー大陸など存在しなかった という説が 一番有力視されている。

また、モアイ像で有名なイースター島は、ムー大陸の最南端の島で生き残った人々が モアイ像を造った という説もある。

そして チャーチワード曰く、旧約聖書の 創世記に書かれている ノアの箱舟に纏わる 大洪水で滅んだ大陸こそ ムー大陸 である と言っている。      ・・・しかし根拠は無い。
by hansaki460 | 2010-12-02 06:59 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)