信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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墨家集団は日本人のルーツのひとつ?


徐福集団と同様に、中国の歴史から姿を消した もう一つの集団 = 墨家集団 の話は、想像を 逞しくさせます。^^
始皇帝の秦の 建国においての 話です。


墨子は、本名を 墨擢[テヘン ナシ] 。
生涯には 不明なところが多く、生没年は わからないが、孔子と同世代とも、孔子没(前479年)後の人とも 言われます。

「 儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・従横家・雑家・農家・小説家 」 の 九流十家や、兵術・方術・医術を専門とする諸子が、争っていた時期で、その諸子百家のなかでは、墨家は 最も勢力をもっていた と言われます。
韓非子にも 「 世の顕学は儒墨なり 」 とあります。

しかしなぜか その後 2000年、中国の歴史では、清の時代になって評価されるまで、墨家は 忘れさられていました。 その後の歴史家たちは 墨家を扱わなかったのです。

司馬遷も、墨子については伝えず、たった 24字の注記にする程度でした。
そこには、墨家を 歴史から抹殺する意図 が あったとしか思えません。


墨家の 「墨」 とは入れ墨のことではなかったかという説があります。(倭人の特徴のひとつ)

墨子 その人が 賤民の出身だったという説 もあります。
きっと 工人の技術や、数学の技法に 長けていたのかもしれません。

集団自殺をした との説 があります。
始皇帝の 一大事業に役割を果たせなかったか、役割を果たしたが 評価されなかったからでた説 かもしれません。
秦の始皇帝の 建国を前にして 墨家が 跡かたもなく 姿を消してしまいます。


墨家の基本思想に、墨家十論 があります。
十大主張のことで、秩序の安定や労働・節約を通じて国家経済の強化をめざす主張です。

兼愛 全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教え。
非攻 他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。
尚賢 貴賎を問わず賢者を登用する。
尚同 賢者の考えに社会全体が従い、社会の秩序を守り繁栄させる。
節用 無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよ。
節葬 葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。
非命 宿命論を否定し、努力・勤労が運命を変えると説く。
非楽 悦楽・舞楽を否定すべきとした。
天志 上帝を絶対者とし、その意思は正義、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。
明鬼 善悪に応じて賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争いなど悪い行いを抑制する。

日本人の心の神髄に合致する と思うのは、私だけでしょうか?


ともあれ、始皇帝の時代の 墨家集団は、入れ墨をし、出自が賎民で、忽然と姿を消し、そのうえ歴史から消された。

徐福と同じように、また多くの史書が語るように、海を渡ってきた、我々の祖先のひとつ であるかもしれないと、思いを 巡らしてみました。
.
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by hansaki460 | 2010-07-20 19:45 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

成敗された ① 列島の 八の民と、② 半島の 古代朝鮮語。

成敗された
 ① 列島の八の民と、
 ② 半島の古代朝鮮語



① 信州と九州で 共通する、八族退治の 伝説

【 魏石鬼八面大王伝説 】

安曇野の里 に伝わる、魏石鬼八面大王の話です。
坂上田村麻呂の率いる軍と 一歩もひけをとることなく戦い敗れた 魏石鬼八面大王は、あまりにも強かったので、再び生き返ることのないように、遺体は方々 に分けて埋められた。

【 鬼八伝説 】

高千穂地方に伝わるこの話は、三毛入野命(神武天皇の兄)に滅ぼされた鬼八は、何度も蘇生しようとしたため、亡骸は 3つに切り分けられ 別々に埋葬された、というものです。

この 二つの伝説は、八の民が、後に来た 覇者たちに 成敗される話ですが、その後 いつ 誰によって どう脚色されたかは 別として、列島には 八の付く原住民らが居て、覇者らに 成敗された話であることには 間違いがありません。

・・・・・・・・・

② 半島から無くなった 古代朝鮮語

百済の国名は、我が国ではこれを 「 くだら 」 古くは 「 くたら 」 と 発音しましたが、何故 「 くだら 」 なのか よく 分かっていません。

現代朝鮮語の 百済 は 「 ペクチェ 」 です。
疑問は、古代朝鮮語は 扶余語を指しているのなら、なぜ 日本にてのみ、古い読み方が 通用しているのか?

日本語の 「 上代日本語 」 は、その特徴と 「 魏志倭人伝 」 の地名・人名より復元される 「 倭国語 」 の特徴が 共通するので、「 上代日本語 」 と、「 魏志倭人伝 」 の 「 倭人語(倭国語)」 が、同一の言語と考えて良い とされています。


さて それを踏まえて、『 周書 』 百済伝では、王について、自らを 「 於羅瑕(オランケ)」 と言い、民衆は 「 [革+建] 吉支(コニキシ)」 と呼んだ、とあります。

『 日本書紀 』 の表記は 「 コニキシ 」 または 「 コキシ 」 です。

すなわち、当時の日本では、百済の 被支配者層の言葉が 通用していました。

『 書紀 』 編纂を主導したのが 扶余系の 藤原氏であるのに、記述は 被支配者層の言語 なのです。 ( 書いたのは 漢氏か?)


つまりは、古代、半島の 被支配者層の多くは、列島に避難・帰化して、古代朝鮮語は駆逐されてしまった。

列島では、古代朝鮮語を話す人たちとは、同族が多かったので、抵抗なく受け入れた。

しかしその後、半島を簒奪した後、列島へ来た 覇者は、異なる種族(高句麗系)であり、力で 覇権を 取りました。


・・・・・

① ② を裏付けるヒント

◎ 秦の時代に大量の難民が発生し、半島南部と列島に移住した話は、史書の随所に出てきます。

それと同時に、秦の始皇帝との 覇権を賭けた戦争に破れた 倭族の 『 徐福集団 』 は、東アジアに脱出し、古朝鮮系列の 旧午族が住む列島,半島に分かれて定着しました。

各地に小国を建設した 徐福集団 の末裔は、分離を意味する 八族(=倭本族+倭支族)と 自称しました。

半島南部に定着した 倭支族は、北からの圧力に対抗するために、 三韓国:弁韓,辰韓,馬韓を 結成しました。

九州島に定着した 倭本族は、これに呼応して、倭国を 結成しました。


しかし、やがて、① の伝説のように、また ② の古代朝鮮語が駆逐されたように、列島へも やがて半島から入った 高句麗系に 覇権が移り、今日に 至っています。


古代文字便覧
http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage1.html
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by hansaki460 | 2010-07-16 16:45 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

義理と人情を秤りにかけりゃ、どうして義理が重いのか?

義理と人情を秤りにかけりゃ、義理が重たい男の世界。 

高倉健だ。御存知『唐獅子牡丹』の歌い出しである。
ぼくは 高倉健には どんなばあいも 無条件に脱帽で、村田英雄や北島三郎にも 義理人情は出てくるといったところで、健さんとは較べてほしくない。


・・・松岡正剛の、千夜千冊・源了圓『義理と人情』の書き出しです。

健さんの任侠ものは『昭和残侠伝』をはじめ、十数本の映画をそれぞれ何度見たかわからないくらいだが、話の筋は 実はほとんど似ている。
まさにギリとニンジョーが みしみし絡んで、最後はギリのために自分を捨てるという筋書きなのだ。が、これがなんともたまらない。


・・・ といい、最後に松岡正剛は、こう結んでいる。

それには、本書にはふれられていない任侠や落語や俗曲の世界を掬う必要があろう。
とくに ヤクザをはずしてはいけない。 高倉健を研究するべきである。
また常磐津・清元・新内を放っておいてはいけない。

この、最初は当道に属する者たちによる創作的な音曲世界が、やがて下級武士や町人に滲んでいった 表現感覚を扱わないでは、義理人情は見えてはこない。
ということは、義理と人情とは、とりあえずは そのようによばれている「日本人にひそむ矛盾」のことなのだ。 しかもそれは「肯定したい矛盾」なのである。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0233.html



さて、史郎的に「日本人にひそむ 矛盾」を解説すれば、

『 義理 』は、金や労役の貸し借りの世界。
それらの 約束事を守らなければ、同族として生きていけない世界。

『 人情 』は、素直な親子や男女・友人・隣人の心情の世界。

だが、男の世界 = 世間は、なぜ 心情より、義理 = しきたりを上位に持ってくるのか?

そこには、古代からの差別の社会と関係がある。

常磐津・清元・新内では、いわゆる庶民を歌っています。
浪曲はその最たるものです。

その中では、被差別の民衆の姿が歌われています。

やくざ・やーさんは、八の民だと言うことは、以前書きました。
http://utukusinom.exblog.jp/12725076
いわゆる江戸文化を創った、野次馬・弥(八)次 喜多(北)道中の世界です。 

馬鹿 = 騎馬系民への 蔑称 
阿呆 = 海洋系民への 蔑称  

弥・野は、八の民 = 大陸南部、及び南方から来た、海洋系部族
馬・北は、四の民 = 大陸北部から来た、騎馬系部族

公家や、お寺の人別帳を使って支配した権力者等から、あらゆる差別を受けた彼らは、支配層から団結して、自らを守るために、同族が団結しなければ ならなかったのです。

すなわち、同族の結束・しきたり = 『 義理 』こそが、生きていく術だったのです。

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by hansaki460 | 2010-07-09 09:20 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

八坂神社の社家は、インドから タイ → 呉 → 高句麗をへて日本へ来た



『 新撰姓氏録 』の、諸蕃 帰化人系の氏族 326氏の中に、

  八坂造 出自 狛国人 久留 川麻乃 意利佐也

 とあります。   ・・・・・ (写真参照)

これを、

  八坂造(やさか の みやっこ) は      
  久留(くる) 川麻乃(せんまえ) 意利佐(おりさ)の 
  狛(こま)国人(高句麗人)の 出身。

と読みます。 この意味は、、

久留(クル)は、中国・江南(長江の南)にあった クル=呉 のこと。
意利佐(オリサ) は、インド東部の オリッサ州。
川麻乃(センマエ) は、呉 と オリッサ の 中間にある、タイの チェンマイ の こと。

祇園祭りの伝統を守ってきた 京都、八坂神社の社家・八坂一族は、インドのオリッサ州から、タイのチェンマイ、中国の 呉 を経て、朝鮮や日本にやってきた、コマ国(高句麗=狛国)の人である

・・・と読めるのです。


祇園祭の原型はインドオリッサ州のラタヤットラ祭り、という説があります。

八坂神社の祭りは、火を使います。
中央アジアの拝火教の名残があるという説があります。


同じように、火を使う 種族は、東海地方を始め、多く残っています。
秋葉様はやはり火の神様ですが、それらは中央アジアの拝火教の名残を伝えていると考えられます。
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まだまだ、多くの帰化人の出自を、読むことが出来ます。 
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by hansaki460 | 2010-07-06 09:54 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

帰化人の証明、『 新撰 姓氏録 』

帰化人の証明、『 新撰 姓氏録 』

桓武天皇の宣旨 によってはじまった 『 新撰 姓氏録 』 の編纂は、弘仁五年(815)神別・皇別・諸蕃の順に 作成されましたが、現存する写本は、桓武天皇の第五皇子 萬多親王等により 弘仁六年(816)撰上されたもので、皇別・神別・諸蕃と 順序を変えて 書かれています。

不比等 以来、権力の中枢に座った 藤原氏は 神別氏族であり、当初 神別が上にあったのは その為です。


編纂された 『 新撰姓氏録 』 は、当時、左右 両京や 畿内諸国に居住していた 氏族の系統、氏名の由来、賜氏姓の時期 などを記した書物であり、同書に収録された氏族は 1182氏にのぼり、古代氏族や 古代史の研究には 欠かせませんが、見方によっては、差別の書 です。^^

それは、出自により 「 皇別 」、「 神別 」、「 諸蕃 」 に 分類されているからです。



承和7年(840年)に完成した 勅撰史書で、続日本紀に続く 六国史の第三にあたる 『 日本後紀(にほんこうき)』 は、編纂目的を 次のように述べています。

 「 桓武天皇 の前後には、半島・大陸が 重んじられたため、百済の王族の子孫 であると いった
偽系図が たくさん作られた。 その弊害を除くために 編纂された。」


つまり、桓武の生母 の血統を飾るために 部下等が 粉飾したため、偽系図を 除こうとした事が 記されています。

勝手に 先祖を創作する 偽系図は 奈良時代から あったようですが、桓武の 百済重視で さらに ひどくなった ということでしょう。



さて本題ですが、

姓氏は、出自により 「 皇別 」、「 神別 」、「 諸蕃 」 に 分類されています。


皇 別 
   335氏 天皇家から分かれた氏族のこと。 清原、橘、源など。

     分類 皇親   「真人」の姓(かばね)をもつ氏族。
         その他   それ以外の姓をもつ氏族。


神 別
   404氏 神武天皇以前の神代に別れた氏族。
       404氏が挙げられている。

     分類 天神 246氏 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った
                  神々の子孫。
         天孫 128氏 瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫。
         地祇  30氏 天孫降臨以前から土着していた神々の子孫。


諸 蕃 
   326氏 帰化人系の氏族。

     分類 漢      163氏
         百済    104氏
         高麗     41氏
         新羅      9氏
         任那      9氏
         その他   117氏


すなわち、桓武の時代には、326氏の 帰化人系の 氏族がいたのです。


『 新撰姓氏録 』 氏族 一覧
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji03..

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by hansaki460 | 2010-07-05 19:10 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

古代 東北人は、なぜ虐げられたのか? アイヌは 契丹系の 先住民

古代 東北人は、なぜ虐げられたのか? 

アイヌは 契丹系の 先住民
『 粛 慎 』 と 『 契 丹 』


◎ アイヌの伝承に登場する 小人に、コロポックルがいます。
この小人伝説は、北海道・南千島・樺太に流布しており、トィチセウンクル(竪穴に住む人)などとも呼ばれました。

縄文時代に活躍していたアイヌは、一時期、先住民のコロポックスを圧迫しました。 つまり、アイヌはコロポックルのあとから入植したのかもしれない。


◎ 契丹 (きったん・キタイ 英語: Khitan / Khitai ) は、満州から 中央アジアにかけた遊牧民族で、『 魏書 』 によると 契丹、高句麗、室韋、庫莫奚、豆莫婁(扶余の後継国家) の言語が同じとされます。 (日本古代の、上代特殊仮名遣に通ずるという説がある)

定説では モンゴル系、あるいは ツングース・テュルク(バイカル湖~中央ユーラシアに分布し、支那、アラビア、小アジア、バルカン半島を 支配したテュルク系諸民族) に近い種族という見方があります。

アイヌ語の 「首領・首長」 を意味する 「キタイ」 は、ここから来ており、アイヌは、契丹系と見て間違いないだろう。


◎ 粛慎 (しゅくしん・みしはせ) は、満州に住んでいたツングース系民族で、後に漢民族として統合されていった東アジア人に対する、春秋戦国時代の呼び名です。

中国の周代の文献や、日本書紀にも粛慎の記述が見られ、後代の 挹婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)と同系の民族 と考えられている。

この 「シュクシン」 という言葉は、アイヌ語で 「トリカブト(毒草)の棚」 を意味する 「スルク・サン」 が訛った言葉で、3000年ほど前の 満州で、「トリカブトの毒」 を塗った 矢を用いて、動物を捕っていた コロポックル系の狩猟民族と同じです。


◎ すなわち、列島北部の先住民には、ツングース系民族の 『コロポックル』 と、契丹系の 『アイヌ』 がいたのです。

大きな意味では同族の彼らは、やがて朝廷を支配した、唐系の藤原一族に征伐され、従属させられていきました。
そして、後に同系の末裔たちが列島に来て、白系の文化を伝えてきたのです。


『東日本』 の成り立ち 【騎馬系】
http://utukusinom.exblog.jp/i10/3/

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by hansaki460 | 2010-07-04 05:54 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

大和朝廷に征伐された クモ(土蜘蛛)とエビ(蝦夷)②

大和朝廷に 征伐された
     クモ(土蜘蛛) と エビ(蝦夷)②


糠部郡(ぬかのぶ ぐん) に 追われた 民たち

◎ 『 近衛府 』(このえふ)を 「 ちかき まもりの つかさ 」 と言います。
すなわち 君主を警衛する 直属の軍人 または 軍団をいいます。 (九重の守りの門)


◎ 『 関所 』 は 古代には制度化され、東海道の 「鈴鹿関」、東山道の 「不破関」、北陸道の 「愛発関」(後に 「逢坂関」 に替る) が、畿内を防御するための 三関 といいました。 三関 から東は 関東(関の東の国)です。

その後、常陸・陸奥国境に 『 勿来関 』、下野・陸奥国境に 『 白河関 』 (白河の初出は 718年(養老2))、越後国・出羽国国境には 『 念珠関 』 が設置され、これを 「 奥羽三関 」 といいます。


◎ 『 戸 』 は、柵戸(さくこ) で、弘仁年間(810~824)に 文室綿麻呂が 東北に遠征し、駐屯地として 設置しました。

朝   廷     近衛  九重(ここのへ)の守り (九重の門)
近   畿     関所  戸が二つで門と書く   (戸が二つの門) 
まつろわぬ民  戸    戸扉             (戸が一つの柵)

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◎ ここからが本題です。

教科書の歴史では、

源頼朝は 奥州藤原氏を 滅ぼしたのち、1189年以降 糠部郡を置き、1219年には 南部光行を 地頭に 任命した。

甲斐出身の 南部光行は、牧場経営に手腕を発揮し、糠部郡を 九つの戸に分け、牧場を置き、東西南北の 四つの門に 分属させた。
(九戸四門の制)  ・・・・・写真 

つまり、一戸~九戸の 地名の 由来には、
(1) 平安時代の 東北制圧の 前線基地に 起源を求める 考え方
(2) 鎌倉時代の 牧場制に 関連させる 考え方が あるようです。

以上が、教科書の歴史です。


しかし、古代の東北の動きを見ると

712(和銅3)年  平城京遷都
724(神亀1)年  朝廷が、東北制圧の拠点・多賀城造営
767(神護景雲1)年 伊治城(宮城県築館町)造営
774(宝亀5)年  蝦夷の抵抗始まる
786(延暦5)年  朝廷軍が胆沢攻撃へ
789(延暦8)年  続日本紀に阿弖流為(アテルイ)の名が登場。
           朝廷軍52,800人が 第1回 胆沢攻撃。
           アテルイ率いる蝦夷が 北上川東岸の巣伏村で対戦。
           ゲリラ戦で朝廷軍に 歴史的勝利
793(延暦12)年 坂上田村麻呂が 約10万人の兵を率いて、第2回 胆沢攻撃。
           アテルイ軍、大打撃を受ける
801(延暦20)年 朝廷軍が 第3回 胆沢 攻撃。
           アテルイ軍、力尽く。 朝廷軍が 胆沢制圧。
802(延暦21)年 田村麻呂が 蝦夷支配の拠点・胆沢城(水沢市)を造営。
           アテルイ、モレと 蝦夷 約500人が 田村麻呂に降伏。
           アテルイとモレ、河内国(大阪府枚方市付近)で 斬首される。
803(延暦22)年 志波城(盛岡市)造営
811(弘仁 2)年 徳丹城(矢巾町)造営


すなわち、大陸系の 『 藤原朝 』 が、列島の原住民(北方系、南洋系)を 土蜘蛛(クモ)・蝦夷(エビ)と称して、多民族国家の 支配を 進めました。


クモ と エビ = 原住民 の歴史です。^^

( 言葉が 少なくて、誤解を 生むかも ・・・。 ^^; )
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by hansaki460 | 2010-07-02 10:52 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)