信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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伊那谷に 筑紫神社 があった!

伊那谷に 筑紫神社 があった!

先日飯田へ行ったときに少し時間があったので、泰阜(やすおか) 村へ行った。

泰阜村は山村の地形でありながら、高齢者には優しい村です。
そこで、じっくり様子を見ようと遠回りをした。
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        天龍川東から見た泰阜村
 
そしてナビに導かれて役場へ行く途中、『筑紫神社』と言う文字が目に飛び込んできた。

古代史への血が騒ぎ出し、車を止めて境内に入っていった。
祭神が書いてない。由緒も書いてない。

そこで近くで、作業をしていた方にいろいろ聞いてみた。
しかし何も知らないという。

仕方なく、役場へと向かった。
出てきた職員に早速 『筑紫神社』 の事を聞いてみた。
中年の神社のある部落の方を紹介して貰ったが、やはり何も知らないという。

ますます興味が湧いて、また神社へ戻った。
参道で掃除をしていた別の人に御祭神を聞いてみた。

やはり解らないという。
『神主に聞いても解らないし、はっきり言わないのだよ』との事だった。

その帰りに図書館へ廻り、史料を探した。
解ったことは、

筑紫神社 下伊那郡 泰阜村 字宮ノ後 3199
祭神 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
 相殿 誉別尊(ほんだわけのみこと)(八幡さま)
由緒 不明

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             筑紫神社

なぜ伊那谷の山中に『筑紫神社』があるのか?

高良大社・高良玉垂宮があります。
筑紫の国魂のおわす宮で、福岡県久留米市御井町にあります。

左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
右殿 住吉大神

筑後国一の宮とありました。
よく似ています。


高良玉垂命とは?

・「高良」とは「高麗(こうらい・こま)」と同義で高麗からの渡来人のもたらした神、という説。

・筑後を物部氏(天孫族) 起源とするなら、高良玉垂命はその氏神、と言う説。
 そして、高良玉垂命に比定される「天明玉命(玉祖神)= 天目一箇命(鉄鍛冶神で、天津彦根命の子神)」こそ物部氏族の遠祖神、という説。

・甲良(こうら) の大明神説。
 石清水八幡宮の摂社で、旧八幡町の氏神社。昔は「河原社」と称されていた、とか…。
 方生会の行われていた川のそばにあったから・・とあります。「かわら」…「かうら」…「こうら」と変化して「高良」の字をあてたのだと。
 貞観3(869) 年の行教夢記に「川原神」とみえ、「男山考古録」には「瓦社」と記されてもいるとも。


久留米市の 高良山の中腹に、高良山神社と呼ばる 1600年ほどの歴史と由緒ある高良大社がある。

高良大社は昔、高良玉垂(たまだれ) 宮と呼ばれ、高良玉垂命 を祀っていたというが、高良玉垂命は 日本書紀にも古事記にも記録されてなく、11世紀の 「日本紀略」 の西暦795年の条に記されるまで不明であった。
大和朝廷にとって不都合な神様だったのだろう。

大和朝廷が西日本を統治始めたのは528年の磐井の乱の後からである。
西暦795年ごろから天皇家所縁の神社としたことが 「日本紀略」 に記されているから、豪族・磐井の 筑紫国の守護神社であったと思われる高良玉垂宮を、大和朝廷が認めた神社として九州一の宮に格上げしたことは十分に考えられる。

磐井もまた、以前から土地の守護神であった神社を勝手に代えることなく、統治者となったあとも邪馬台国時代から続いた神社を引き継いだであろうことは想像に難くない。

しかし、磐井が中国・呉国の流れを汲む狗奴国の人間としたら、大和朝廷は高良玉垂命の存在を認めることはできないだろう。
これが日本書紀や古事記から高良玉垂命が抹消された理由かも。

今後の研究課題です・・・。^^
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by hansaki460 | 2010-04-12 09:46 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》 

真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》 

御柱祭が始まりました。
伊那谷の多くの諏訪社でも、御柱祭が行われます。
諏訪社は建御名方命(たけみなかたのみこと)をお奉りします。

建御名方神の出自については、記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。
妻は八坂刀売神とされている。 (Wikipedia)

そして、諏訪へは北から入ったと云われます。

◎ しかし・・・古代文字で書かれた伊那谷の大御食(おおみけ)神社の社伝記には、こう書かれています。

『御渡りの神は建御名方神なり。 
 御国巡りの時 「奇(き)しび 杉なり」 と 詔らせ給いて愛で 給いし故に、
 国人の斎(い)き奉れるなり。 
 天津御許の神故に 斎き奉れるなり。』

すなわち、建御名方神は、「天津御許(あまつみもと)の神」である、と書かれています。


高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主の子を、伊那谷にいた高皇産霊神ファミリーは同族と見なしていています。現代では出雲系は国津神とされていますが、古代は天津神系という認識でした。

また、伊那谷の大鹿(おおしか)村鹿塩(かしお) には、もともと諏訪本社大明神と呼ばれた、葦原(あしはら)神社が在ります。
すなわち 建御名方神は、大鹿村の鹿塩から諏訪へ行ったと云うのです。

また、大鹿村 鹿塩の塩泉は、建御名方神が鹿狩りをしていて発見したという伝説や、諏訪大社の御頭祭での席順は、鹿塩が最上位の席という事実が あります。

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それに隣の豊丘村には、御手形神社(佐原諏訪神社)があり、社伝には こうあります。 

太古 御国譲りの際 建御名方命と武甕槌命(たけみかずちのみこと)と 力競(国譲りの争)の事があり、建御名方命は 遠く この地まで逃れ来り、これを追い来った武甕槌命に対し 国を譲り、その誓いの印として、傍らの石に 互いに手形を残されたと伝え、この石を 御手形石と称え、この付近の地名を 追の久保と言う。

もちろん御祭神は、建御名方神 と 武甕槌神 です。
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以上のことから、建御名方神は伊那谷を 北上しました。
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また、上社神職の「神長官」守矢家では、八華形の御鏡を用いて神事を行いましたが、八華形(やつはながた)の御鏡は、古代から天思兼尊系の神社に伝わっていました。

  ◇ これだから、古代史の探求は 止められません。(^^  ◇
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by hansaki460 | 2010-04-02 19:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)