信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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大御食神社 由緒 -1

大御食神社 由緒 -1

景行天皇40年(A.D.110年)10月に、天皇は、日本武尊に蝦夷征討を命じました。
命に従った倭武ノ尊は、その後 東の蝦夷等 言向け平和(やわし) 給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を 御還りし給ひし時に、この赤須ノ里に至りました。
時に赤須彦は、御蔭の杉の木の下に仮宮を設けて、八重管薦(やえすがこも) 八重を敷き並び、厳し(いか)楯矛 御旗立て並べて、いと厳かにしました。 待饗し給ひして、倭武尊を迎えたてまつりました。

その後、大足彦忍代別天皇(景行天皇)の御代、四十八年に、御食彦は 御蔭の杉の木の下に御安楽居(みやすらい)したその仮宮を 神の御殿に見立て、倭武尊を祝い祀りて 大御食ノ社と御名を附け 奉りました。

すなわち、大御食神社の建立は、A.D.118年に 御食彦(赤須彦)が、かつて日本武尊を待饗(まちあい)し給ひた時に設けた、御蔭の杉の木の下の仮宮に、日本武尊を祝い祀りて、『大御食ノ社』 と御名を附け奉ったのでした。

ですから今年は 創立から、1892年目にあたります。
卑弥呼(175年頃~248年頃)の時代より、一世紀(100年)ほど前のことで、まさに弥生時代の、稲作技術導入によって 日本での水稲耕作が開始された時代です。

社伝記によると、当時の赤須彦は、赤須ノ里の長で、小出の里、宮田の里、上穂の里、中沢の里、石曽根の里、片桐の里、与田切の里、大草の里、市田の里、飯沼の里、知久の里、育良の里、それに 阿志島の里、と あわせて十三の里の長たちと同盟関係にあったことが読み取れます。

ちなみに奈良時代の、信濃国の郡と郷(『倭名類聚鈔』931-938 編纂)の中では、
伊那郡の郷は、伴野、小村、麻績、福智、輔衆、となっています。
(飯田市座光寺に麻績神社がありますが、ここは旧伊那郡麻績(おみ)郷です。)

この分類時には、国家体制は既に律令制になっていますから、伊那谷には輔衆という様な、体制に係わる地名もありました。
推測するに、輔衆=俘囚であろうと思われます。
なぜなら、大和朝廷にとって伊那谷は、まつろわぬ民の地であり、後に藤原氏一族の荘園の地となり、また天台の寺をして伊那谷全体を支配した、政治的にはまさに虐げられた地でありました。

伊那谷は『まつろわぬ民の地』、と言うことは、大御食神社の存在と多いに関係があります。
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by hansaki460 | 2010-01-12 20:56 | 大御食神社社伝記 | Comments(4)

大御食神社

大御食神社 概論


1,由緒

古代文字で書かれた社伝記”美社神字録によると、

『 大帯日子淤斯呂和気ノ天皇(景行天皇)の御代、倭武ノ尊東の蝦夷等言向け平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。

 時に 赤須彦、御蔭の杉の 木の下に 仮宮を設け、八重管薦八重を敷き並び、厳し楯矛御旗立て並べ、いと厳かにす。
 待饗し給ひして、倭武尊を迎えたてまつりき。

 倭武尊 御蔭の杉の木清々しと告り給ひて、御安楽居給ふ。
 倭武尊問ひて 告り給はく、「汝は 誰ぞや」。
 応え給はく、「吾はこの国の魁師、阿智ノ宮に齊い祀る、思兼ノ尊の子 表春の命の裔、阿知の命の御子阿知山の裔の別裔、赤須彦なり。

 天皇の御子い出ますと聞き、迎えたてまつりき。
 故に真榊の一つ枝には、頭槌の劔を懸け、二つ枝には八華型の御鏡を懸け、三つ枝には和弊を懸け、大前に迎え立て並べ、群肝の真心表しまつりて、詔りのまにまに帰順まつる。 御誓ひたてまつれり。

 またこれよりすぐに中沢の熊鰐に山の麁物和物を菜らしめ、川戸幸をして川の魚捕らしめ、また野彦には野つ物を取らしめて、大御食大御酒種々物を御饗たてまつれり。
故に赤須彦の名を称えて御食津彦と倭武尊自ら名付け給ふ。』


と記されています。

これは古代文字で書かれた大御食神社の由緒の抜粋ですが、大御食神社はこの古代文字で書かれた社伝記”美社神字録の由緒によって、二千年の歴史を刻んできています。 

しかしその寄るべき社伝記を、まるで忌み嫌うかの如くに隠蔽し、祟りでもあるかの如き扱いをしているお宮の関係者の姿勢は、批判されなければなりません。

なぜなら、社伝記の真贋を無意味に問わず隠し、しかしその伝統に寄りかかる姿は、大御食神社の正統性をこそ踏みにじるものであるからです。

そしてお宮の役員及び関係者らは何も分からぬままに、お宮の伝統に対して真摯に対峙する姿勢を示す事が出来ないとしたら、また自らの立場を懐疑逡巡しているとしたら、お宮を潔く神官家に返上すべきでしょう。


2,赤須彦

社伝記では以下のように記しています。

「吾はこの国の魁師、阿智ノ宮に齊い祀る、思兼ノ尊の子 表春の命の裔、阿知の命の御子阿知山の裔の別裔、赤須彦なり。」

古事記によると、

『天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。』

「天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でた神の名は、天之御中主(アメノミナカヌシ)神。次に高御産巣日(タカミムスヒ)神。次に神産巣日(カムムスヒ)神。」


とありますが、二番目に成り出でた神・高御産巣日神(高皇産霊神)の息子が『八意思兼尊』で、その子が手力雄命、表春命です。

そして、赤須彦は自ら、思兼尊の子・表春命末裔であると言っています。
すなわち大御食神社は、神々の系譜に連なる、由緒あるお宮なのです。


3,倭武尊

大御食神社は、倭武(ヤマトタケ)尊の名付けたお宮です。 
それ故に、倭武尊についての考察も大切であると思われます。(以下日本武尊と記します。)

日本武尊の東征の足取りは、神社伝承からかなり明確に分っています。
後の坂上田村麻呂などの蝦夷征伐とは、根本的に違いがあります。

すなわち日本武尊はこのとき、出雲の神々や高皇産霊神ファミリーを従えて、文字通り「蝦夷等言向け平和(やわし)給ひ」て来たのですが、坂上田村麻呂らは大和朝廷の蝦夷征伐そのものでした。

古代史が今ひとつ分からないのは、大和政権誕生前の、倭国の姿を結佐っているところにありますが、日本武尊も、大御食神社も大和政権以前の歴史を物語っています。


4,古代文字

大御食神社の社伝記に書かれた古代文字は、「阿比留草文字」に分類(一部「阿波文字」が混在)されています。 
この「阿比留草文字」は、甲骨文字が発達する過程の金文の草書体であり、解読も出来ております。
甲骨文字の発見は、1899年(明治33年)ですから、社伝記が解読されたよりは後です。 

また古代文字の真贋論は、無意味な皇国史観論争に巻き込まれ、無駄な時間を費やしております。


5,伊那谷から見える古代史

古代文字で書かれた社伝記”美社神字録からは、多くの史実が読み取れます。
その史実を読み解くと、真実の古代史が見えてきます。

・ 地名(里名),
・ 日本武尊の 呼び方は 『ヤマトタケの尊』, 等々


以後、順次記します。
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by hansaki460 | 2010-01-12 12:57 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

『 坂の上の雲 』 の 人相学

『 坂の上の雲 』 の 人相学.

◎ 中国人は ある地位や年齢に行くと、本能的に 人相見になると 云います。 
才 の すぐれた人間でも、運が悪いとか、根性の悪いのが いるものです。 
地位・財産・名誉があっても、凶相だと 警戒し、深い付き合いは 避け、凶運に 巻き込まれまいとし、福相だと 近づいていくのが つねのようですね。

ではその、福人吉士 とは どんな人相だ と 云うのでしょうか?

伊藤肇氏は、著書の中で 次のように解説しています。
① 曲眉(きょくび) ・・・ 柳のような眉。
② 豊頬(ほうきょう)・・・ 豊かな頬。
③ 大耳(たいじ)  ・・・ 大きな耳。
④ 鞭体(べんたい)・・・ 鞭のような しなやかな体。
⑤ 清声(せいせい)・・・ 清らかで 響きのある声。

以上の、五つが 備わっている人物が、福人吉士 だと 言うのです。
そして、三つくらい 揃っていれば、福相の中へ 分類して いいだろう ・・・ と。


◎ さて、福運を持った人が トップにいる会社の社員は、ある種の 安心感が あるものです。 
『 この人についていけば 何とかなる 』、と思わせる 強運や人徳は、代え難い 千金の価がするものです。

軍隊でも 同じ事で、『 あの隊長の下におれば、けして 死ぬことはない 』 という事ならば、部下は ついてくる。

先日の 『 坂の上の雲 』 の中で、本木雅弘の秋山真之が、渡哲也の 東郷平八郎と 会う 場面がありました。
東郷平八郎には、強運や人徳が あったようです。

海軍大臣の 山本権兵衛が、東郷平八郎を 舞鶴鎮守府 司令長官 という 閑職から抜擢した理由を、明治帝から下問されたとき、
『 あの男は、若いころから 運のよかった男でございますので 』
と 答えたといいます。
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                    元帥 海軍大将 東郷平八郎

一方、乃木希典には、悲劇的な運が ついて回り、参謀たちが
『 乃木閣下が来られると、縁起が悪い 』
と ささやきあったという。

◎ 中国の古典、『 十八史略 』 の 中に、越王・勾践(こうせん)を助けた 范蠡(はんれい)が、越王・勾践の元を 去るときの 密書に、次のような 有名な文があります。

『 越王ハ 為人(ひととなり) 長頸烏喙(ちょうけいうかい)ナリ、与(とも)ニ 艱難(かんなん)ヲ 共ニスベキモ、与ニ 安楽ヲ 共ニスベカラズ。子、何ゾ去ラザル。』 
「 越王は人相がよくなく 猜疑心が強いので、苦しいときは共にできるが、安楽を 共に過ごすことは 難しい。文種よ、なぜ逃亡しないのか 」
と、忠告したのです。 

紀元前 五世紀の 話です。

◇ 事ほど左様に、古代の話や、明治の時代の話からは、一般人の 我々にも 人物像が明確に 分かります。 
しかし、現代の人物は あまりにも近くにいるので 、その人の大きさは、分からないものの ようです。 

私の師は よく言っていました。
  『 人間は 自分より 大きなものを 見る事ができないから、常に謙虚であれ! 』  ・・・ と。
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by hansaki460 | 2010-01-02 10:10 | Comments(1)