信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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北上している北回帰線 《温暖化の ホントの原因は?》

北上している北回帰線 

地球温暖化現象を、冷静に考えてみようと思う。

先ず、南極の氷床コアから復元された2地点での 気温の変化を見てみよう。《グラフ1》
南極ボストークの氷床コアからは 42万年前までさかのぼった記録が得られている。
EPICAコアでは 最近では80万年前まで 掘削・解析が進んでいる。

実際の観測においての見解はおおむね
『信頼のおける南極大陸の気温観測は、1950年代に始められました。 この観測によれば、大陸の多くの部分では ほとんど気温に変化が 無いか、地域によっては寒冷化していることがわかっています。』
という ものである。
① 南極は気温に変化が無いか、地域によっては寒冷化している。
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一方 北極の変化の見解は、
『 過去100年間の 温暖化は、1917~1937年、1968~2000年の期間に 起こっている。 また、北極の気温上昇は 夏季に比べ冬季で顕著に起こり、過去50年では、アラスカや西カナダで、冬季の気温が 3~4℃上昇した。
過去100年を見ると、全球では 0.6℃程の温暖化であるが、北極では 2.5℃程と 約4倍もの急激な早さで 温暖化が進行した。
また、北極では、1915~1920年頃、気候のジャンプ とも言える大幅な温暖化が 起こっている。』
というものである。
② 北極は温暖化している。

ところで、北回帰線の北上を調べ、その移動予測を含めたグラフがある。《グラフ2》
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これは 実際に調べた結果です。
③ 北回帰線は北上している。

◎ 『 温暖化の主たる原因は、北回帰線の北上である。』

また、日本には、諏訪湖の結氷の記録が 566年前から残っている。 《グラフ3》
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平安期(1000年以上前)は温暖な期間であったことは、古今集や数々の文学の分析で分かっているし、江戸時代の寒冷期の記録も沢山残っている。
④ 日本には 1000年以上前から気候の記録がある。

⑤ 1776年 建国で、233年の歴史のアメリカ合衆国の、ゴア氏の地球温暖化の発言が、はたしていかほどの歴史的・時間的認識を持ち得た推敲であるか、はなはだ疑問である。 (CO2 の影響を否定しているのではない。)


◎ 要は 『我々日本人は、もっと賢くあろうではないか!』 と言うことで ある。
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by hansaki460 | 2009-09-26 14:15 | Comments(1)

『 百済 』 の 姿

『 百済 』 の 姿
◎ 半島南部、前三世紀~前二世紀に、辰国(しんこく) がありました。
元は、中国の東北地区(旧満州)北部の 松花江流域の扶余系の騎馬民族で、南下して一部が 前高句麗となり、一部は 「夫余」 の姓を名乗りながら 朝鮮半島南部に 「辰国」 を建てたとされ、鉄器時代国家で、細型銅剣文化を有する農耕社会だったと推測され、その一部は 『百済』 となりました。

◎ 歴史の記録上の百済は、346年・近肖古王即位から、660年の唐・新羅連合軍に百済が滅ぼされ、663年に倭国の百済救援軍が 白村江で唐軍に大敗するまでとされています。

『史記』 『漢書』 『資治通鑑』 『三国志』 『後漢書』 では、辰韓、馬韓、弁韓の三国の起源が 「辰国」 にあるとしています。               (図は5世紀末の半島)
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◎ 騎馬民族征服王朝説では、辰国の王は 扶余族の系統であり、その末裔の一部が日本の皇室の祖であるとしています。

◇ 私見ですが、崇神朝が それにあたるのでは? と思います。
その後景行天皇と、南系原住民の豪族の妃との子・倭武尊は大国主、出雲族等と日本の統一に奔走しました。
天照大神の弟・素戔男が半島へ行ったのは史実だと思うし、その時代は国という観念ではなく、部族 という 共同体であったと思います。

◇ その頃は、朝鮮半島南部にも 「前方後円墳」 が分布し、九州北部にも 「朝鮮式山城」 が 分布しました。
つまり 朝鮮半島南部と 九州北部で一体の 文化圏でした。
その中に百済があり 任那(伽耶)があり 耽羅があり 末羅があり 伊都があり 狗奴があり その他もろもろが あった。
主導権争いを 繰り返しつつ、唐の遠征による百済の滅亡で、文化圏の境界は半島の南岸 以南へ後退した。
・・・・という時代でした。

以前からこの地域へは、南方からも 多くの部族が 入っており、倭グループを構成していました。

◇ なお、天皇陛下のゆかり発言で有名になった 桓武天皇(781-806)の母親の高野朝臣新笠は、10代前に渡来した25代百済王(501-523)の子孫で、五世が日本に帰化した 百済系の 十世でした。
こう見たとき、七世紀以前の百済に 強く郷愁を感じる、今の韓国の人たちの心情が奈辺にあるか、知りたいところです。

◎ 百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む 数千の百済人が倭国に亡命し 一部が朝廷に仕えました。
豊璋(*)の弟・善光(または禅広)の子孫は 朝廷から 百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済王氏は 8世紀に敬福(きょうふく)が黄金を発見し 東大寺大仏造立に貢献するなど 日本の貴族として活躍しました。

(*)前に書いた 『多神社』は、豊璋と深い関係があり、宮中に奉祀していた天照大神を一時的に祀った最初の場所という伝承を持つ場所です。http://utukusinom.exblog.jp/10416361/
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by hansaki460 | 2009-09-22 05:18 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

古代国家 の イメージ

古代国家 の イメージ

◎ 北朝鮮の経済は、二重構造を していると云います。

支配者(政府・金一族)の経済は、麻薬・偽札の製造、海外の 同胞からの送金、外国からの経済援助の流用などで賄われ、軍隊・役人の維持と、核・ミサイルの開発に向けられています。

一方国民経済は、統制経済の形を とっていますが、配給制も崩れているようで、専政国家の様相です。

◇ もし、何らかの事情で、金王朝のトップが亡命しなくてはならない状態になった時に、どんな事が想定できるでしょうか。

トップの亡命を受け入れて得な国は? と考えたとき、核とミサイルの技術が欲しい国は、多くあります。

そういった国々は、核とミサイルの技術を持った人材を一緒に受け入れるでしょう。

また、フィリピンのマルコス元大統領は、約1兆 2千億円もの財産を持っていたために、亡命できました。

◎ 古代は、このような亡命が繰り返されてきました。

・ 古代、百済には 大陸から進んだ技術が入り、技術者がおりました。 日本は半島の混乱で、百済の亡命者(支配層・技術者)を受け入れました。 (奈良時代の事です)
しかし、その時の事情は、百済の支配層の力が当時の日本のそれより強かったために、文化的には影響下に入りました。
政治的にも、百済の貴族は当時の役所へ入り重用されました。

・ 奈良の前は、伽耶諸国や新羅(倭の仲間)からの影響が強く、白鳳文化が花咲きました。 人材も多く入りました。 (飛鳥時代の事です)

・ そのほか、前高句麗や契丹等からの渡来者もいました。

古代国家のイメージが、出来たと思います。 国譲りの神話も、その他の神話も、言ってみれば同じような繰り返しです。

◎ ただ、日本の幕藩体制での、藩の経済は全く違い、運命共同体的な体制を作っており、近代国家への芽 が出来始めていました。 (江戸時代の事です)

◎ また 7世紀以降の律令体制は 亡命者の影響ではなく、白村江の戦いの勝者・唐の進駐軍が百済の軍隊を使って、日本を占領した結果です。 (藤原体制の事です。)
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by hansaki460 | 2009-09-21 10:18 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

『東日本』 の成り立ち 【 騎馬系 】

『東日本』 の成り立ち 【騎馬系】

◎ 「日本中央」 と書かれた が青森県東北町にあります。
http://kenbun55.hp.infoseek.co.jp/isibumi.htm
多くの歌人等が その碑のことを、「壷のいしぶみ」 と詠みました。
『 むつのくの 奥床しくぞ 思ほゆる 壼のいしぶみ そとの浜風 』  西行 

日本書紀には、当時淡路島が日本の中心としてありますが、なぜ東北町が日本の中央なのでしょうか。
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◎ 旧石器時代、列島には 細石器刃文化 がありました。
 そして、縄文時代を迎えました。 【 写真 ①,② 参照 】
 この頃既に、明確に東日本と西日本は違っていました。
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◎ その後、北方のツングース族が東日本に建国をしました。
『 粛慎(しゅくしん)・靺鞨(まっかつ)・狄(てき)』 と言われる騎馬系の国や族で、やがて列島へ来て、日本の先住民と交わりました。
☆ しかし『 日本人は単一民族』 としている歴史教科書には書かれていません。 

◎ 古代の日本海岸には 『越(こし)国』 がありました。
 古代の 「古志族」 は、中国の東北から黒龍江流域 沿海州 に住んでいた 「ツングース族」 です。
 彼らは海を渡り、北海道から日本一帯に入りました。
 古志国は、飛鳥時代(7世紀初め)の国名で、越国又は高志といい、大化の改新時には、名を 『越国』 に 統一しました。「日本書紀」 の国造り神話の中には、越州の地名があります。
 当時の本州は 「大日本豊秋津洲」 と言いましたから、日本海沿岸の 『越国』 は、大和国の外の独立した国でした。

◎ 7世紀には、粛慎の子孫の 『靺鞨』 族が、朝鮮半島の高句麗に進入しました。
 しかし、663年白村江の戦いで、新羅が半島を統一したので、高句麗にいた靺鞨人は、中国東北に逃げ、『渤海国』(698~926)を建国しました。
 その後渤海国は727年、日本と通商条約を締結し、以後約二百年間外交関係を維持し、多くの靺鞨人が 日本に帰化しました。
 その数は746年の一年だけで、1,100人以上が帰化しました。 東北日本海沿岸は、ツングース族の同胞であったので、彼らに親近感を覚えたと言われます。

◎ 高句麗が 新羅により滅亡させられた時、越に来た靺鞨族の支族に 『狄族』 がいます。 後に津軽藩では 帰化した彼らの住む村を 狄村といい差別しました。
また 「続日本紀」 には709年、狄が朝廷に反乱したとして、山形県に 『征狄所』 を設ました。

◎ 『契丹(きったん)』 は満州から中央アジアにかけて存在した遊牧民族で、916年、現在の中国の北部に 帝国を建国し、国号を 『遼』 と号しました。
 しかし12世紀に入り 女真が宋と結び南下し、1125年に滅ぼされました。 彼らもまた日本へ来ました。 (橘で道真はこの系統です)

☆ 彼ら(ツングース族)と同族の 『元』 は、1271年から1368年まで 中国と モンゴル高原を中心に支配し、その後は北へ逃れ、最終的に1635年まで存続しました。 (元寇の元) 

◎ すなわち、彼らは同じ騎馬系で=粛慎・靺鞨・狄=元=源氏=白系 なのです。

★ それゆえ、やがて日本の原住民となった、彼らの国 『東日本』 の真ん中の東北町に、『日本の中央』 と言う碑があるのです。^^

(私は、7世紀より前の帰化人たちを日本の原住民とし、元からいた縄文人・アイヌを先住民としています。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※ 『ツングース語』 は アルタイ諸言語に分類され、モンゴル語系、チュルク語系、ツングース語系に大別されます。
 チュルクとは トルコ のことで、古代蒙古語系、古代トルコ語系、ツングース語系がこれに入ります。
 古代中国の異民族として 中国の史籍に登場する 「丁零、鉄勒、突厥」 などは、すべて チュルク(トルコ)の音訳とされます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(参考) 扶余語族(朝鮮語:中国語)は、朝鮮半島北部と南満州での古代言語・高句麗語や百済の支配層で 話されていた言語で、日本とは別です。 ツングース族のモンゴル人力士は、日本語を 自然に話しますが、扶余語族の中国・韓国・朝鮮人の日本語の発音は、不自然です。
(古代史では扶余も広義のツングース語系諸族に入ります。)
また、前 高句麗(前37年頃-668年)は 扶余系民族による国家ですが、この国からの帰化人も多くいました。(白山王朝)
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by hansaki460 | 2009-09-07 18:38 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

「 生類 憐みの令 」 の 真実

「 生類 憐みの令 」 の 真実

古代から 独占企業が ありました。(皮肉です。^^)
7世紀以来、牛馬を殺すことを 禁じた公家等は、死んだ家畜の処分・製革を、猟をしていた騎馬系(白)の原住民にさせました。(被差別の限定職)

時代が下り、経済が大きく発達した 江戸時代には、製革業も発展し、現在のトヨタや日産以上の影響力があり、かなりの財力がありましたが、騎馬系住民の 『 被差別の 限定職 』 であることには、違いありませんでした。 (もはや既得権化?)

皮肉にも、被差別限定職ゆえの巨大独占企業でした。
総元締めは 『弾左右衛門』 で、彼らからの上がりを幕府に上納していました。 (一万石の大名並み)

彼らは、なめしに使うアンモニアの原料・小水を 集めたため、便所のことを 『かわや』(革屋)といいました。
また、同族の「播太」らに野犬を棒で捕らせることもしまた。( 『犬も歩けば棒に当たる』 とはこの事を言います。)
また同宗旨の、反仏派で祠信仰の騎馬系の武士の御家人・旗本たちは、革屋がスポンサーの 「旗本白柄組」 「神祇組」 を組織して、彼らを護衛していました。

7世紀以来の 藤原朝の仏教派は、反仏派の勢力が 増大するのを恐れ幕府に働きかけ、結局徳川綱吉は、貞享4年(1687)「生類憐みの令」 を制定しました。
「生類憐みの令」 は、製革業の勢力を制限し、その資金が反仏派へ流れるのを禁止したもの なのです。

すなわち、これは 反仏派退治の施策で、それより前の寛永十六年(1639)に発布された 『宗門人別制度 = 寺請制度』 を徹底するための、仏教派による反仏派の締め付けなのです。
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by hansaki460 | 2009-09-07 18:14 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)