信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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『庶民』 という意味

『庶民』 という意味

『庶子(しょし)』 という言葉を知っていますか?
庶子とは正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供。 非嫡出子ともいう。 特に近代以前、歴史上の表現として使われる。
日本で最初に嫡子と庶子の身分的差異を明らかにしたのは律令制・・・・。(古代)
Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B6%E5%AD%90

庶民 という意味は、さすがのウィキペディアでも、明らかには していません。^^; なぜなら、庶民 = 庶子の民たちのことだからです。

良賎法(りょうせんほう)が あります。 古代 日本において良民と賤(賎民身分)との婚姻や生まれた子の帰属、戸籍上の扱いなどを定めた法制のことです。
良賎法の元となった法令は 大化元年(645年)に定められた 「男女の法」 とされていて、これによれば良人と奴婢の間の子は奴婢とし、主人が異なる奴婢の間の子は母(婢)の主人に属するとされた。
Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E8%B3%8E%E6..

古代は貴族(王族)の専政国家の時代でした。 王族たちは、大陸・半島・列島を行き来して、覇権争いを しておりました。(住民とは関係ありませんでした。)
ですから、紀元前から権力者(強い者)たちは、縦横無尽に行き来していたのです。
そして当時、人を良と賎に分けました。(差別を法で定めたのです。)
部落差別 等は、江戸時代から 始まったと云いますが、とんでもない間違いで、古代からです。 学者や マスコミ等は、知っていて言わないのです。(本当に知らないのなら、不勉強です。^^;)

良=唐(大陸)等の渡来系をいいます。
賤=それ以外の日本の原住民をいいます。
その比率は、1:10.000 以上だった という 説があります。
足利時代でも 1:1,000 で、1:1(半分) になったのは、江戸時代 なのです。(織田信長は、楽市楽座で 賤民を 解放し、江戸は 彼らを吸収して大都市になりました。)

日本書紀669年の条に
「是年 大唐 郭務宗等 二千人を送る」
とありますが、すでに多くの渡来者がいました。
当然彼らは 男・単身、ですから原住民の女に子を作ります。
父親は分かりません。 子供らは 『庶子』 です。その民たちが、『庶民』なのです。

ちなみに、主計局・主税局という名も、古代専政国家当時からの名称です。
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by hansaki460 | 2009-08-29 07:06 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

日本中にある 徐福伝説

日本中にある徐福伝説

◎ 紀元前3世紀(BC.219 頃)徐福が日本へ不老不死の薬を求め出航しました。(司馬遷『史記』)
男女3000人を伴い大船団で旅立ち、何日もの航海の末に 「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」 と書かれています。

◎ 徐福は長い間 中国でも伝説上の人物でした。
ところが、江蘇省に 「徐阜(じょふ)村」 と云う村があり、1982年の地名調査で、元の名が 「徐福村」 であったことが明らかになりました。(写真 ①)
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そのうえ徐福の屋敷跡と思われる遺跡の発掘等でその存在が裏付けられたのです。
その子孫は現在も徐福村に生活していて 徐福祠を守り、その徐家の家譜によれば 「自分は七十代目にあたる」 と言います。
◎ さて、徐福の 祖先は、殷から周の時代には、山東半島 南部一帯にいた 「莱夷・徐夷・淮夷」 と呼ばれた 先住民との説もあり、漢民族ではなく、ルーツは呉の泰伯の子孫だという筑紫島の倭人達と、同じだったのかも知れません。
ですから、徐福が東方の蓬莱に憧れ、倭人に溶け込んだのも、その 「祖先の血」 が要因だったのかも知れません。

徐福には、四人の男の子がいたらしく、長男の徐市(じょふつ)、次男の徐明、三男の徐林 そして四男の徐福(同名だが 史書の通り 記す)という。
中国では古来、家族(一族)を中心だから徐福の子供らも、一団と共に筑紫に同行しました。
徐福と徐市は蓬莱山に不老不死の薬を探し回り、次男の除明は熊本地方に移住。
三男の除林は 佐賀に移住して 「国」 を築きその地方を支配しました。
秦国の滅亡後、彼らはそれぞれ 除市、張明、王林と名を変え、中国と倭国を往来していたらしい。(別の史書には、王、魏、劉に改性したとある。)

◎ この 「倭国とのつながり」 が史書に残り、百余国の時代から 後の 耶馬台国まで 続いて 以後、九州西部の 耶馬台国群は 大陸と同盟関係にあったのです。(写真②)
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四男の 徐福は 名を変えるのを嫌い、故郷を捨て 中国各地を転々とした後、再び 故郷へ移り住んだといい、その子孫が現在も徐福村に生活していて 徐福祠を守り、その徐家の家譜によれば 「自分は 七十代目にあたる」 と言います。

改めて伝承のすごさを感じさせます。

◎ 写真 ③ 日本全国に残る徐福伝説の在る地域。
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◎ この徐福の 影響は、甲骨文字から派生した後の 日本の古代文字を もたらしたり、祠信仰をもたらしたと思われます。

【ポイント】
伝説上の人物と思われた徐福が、実在の人物と云う裏付けがされ、その後九州西部の耶馬台国群が、大陸と同盟関係を持ち続けた要因となった。
日本全国に徐福伝説は伝えられ、古代文字等、多くの影響を及ぼしたと思われる。
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by hansaki460 | 2009-08-23 04:11 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

童話 『桃太郎』 異聞

童話 『桃太郎』 異聞

日本書紀 雄略帝七年に 『上桃原、下桃原』 云々という漢字の地名が出てきます。

『‥天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定案郡錦・譯語卯案那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。‥』

これを 「かみつ ももはら」「しもつ ももはら と読むと、何にも なりませんが‥

『桃』 は、(唐)・・桃源郷→桃原→藤原 という変遷を読み取る説があります。

『キビ』 は、「中ツ国」 と呼ばれる今の中国地方の吉備のこと。 紀元前から独特の特殊器台・特殊壺があり、中国系の吉備王朝がありました。

また、『古代中国 高句麗歴史叢論』 では、中国が百済と新羅を、武力を使わず従順な国王や統治者を選んで懐柔する 「羈縻(きび)政策」 と呼ばれる方法で治めた、とも記述しています。

また、この時期の倭朝は、新羅系孝徳王の大和国と、百済系白雉朝の併立王朝であり、百済君・豊璋が 百済系の斉明(皇極・宝)女王の復活を図った政変があったという説もあります。

さて、
『犬』 は、狛犬とよばれる程で高麗。
『猿』 は、サルリと新羅語
『雉』 は、キージで百済の古語。
『鬼』 は、日本列島に前から住んでいた原住民の事。(四天王にも踏みつけられている)

『桃太郎』 の話しは、すなわち、

『桃原、つまり同訓の藤原氏が、朝鮮半島の人々に吉備の食糧を与えで、帰順帰化させて、その軍を率いて、仏教に転向せぬ鬼ごとき列島原住民を退治し、土地を宝物として分捕った 』

と云う内容で、しかも庶民は1000年以上の昔から、童話でもって洗脳されてきたというお話しでした。
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by hansaki460 | 2009-08-06 03:33 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

西日本 と 東日本

西日本 と 東日本

中学生の時、行政区を分ける比較的大きな川を越えた隣の中学校との交流がありました。
その時、女子中学生が自分のことを 『おれ』 と呼んだことの驚きを、今でも忘れません。
川ひとつ越えた集落の言葉の違いに、違和感を覚えたのでした。

その後、その川は 『東の文化と、西の京文化とを分ける境目』 だと言う話しを聞いて納得しました。

「日本語地図」 という本のコピーをいただいたので見ると、『翌日』 という言葉の違いが、明白に分かります。( 写真参考 )
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それによると、西と東の違いは明白です。
また、南信州と、三河・駿河(遠州)が、「東海方言」の範囲であることが よく分かります。


さて、先日の日記で 『日の丸の歴史』 を書いた時、平家と源氏について触れました。 そう、赤と白です。

言葉だけでなく、『ふんどし』 の色にも、赤と白が別れています。
明治天皇が、南朝を認じた皇室の、皇太子は赤ふんどしでした。

神社の色にも、白木と紅殻色があります。(平家納経で有名な厳島神社は、赤です。)

今では交流が盛んなので、よく分からなくなってますが、もちろん理由があります。
誤解を恐れずに少しだけ言うと、南の海の方面からの住人と、大陸の東北部からの住人が、列島に渡ってきた事実と重なります。

そして、7世紀に覇権が列島を飲み込んだのです。
ここが、日本の歴史を難しく、いや庶民の目から隠している根源なのです。

土器の分布の図も 載せておきます。 古代 日本列島には、ロマンがいっぱいです。
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by hansaki460 | 2009-08-06 03:02 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)