信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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美しい 婢(女奴隷) の送り状

美しい 婢(女奴隷) の送り状

e0171497_820768.jpg東大寺の大仏は、信仰のためだけではなく、権力者の威光を示すためのものでもあった。

そもそも律令制度とは、専制制度にほかならない。
王土王民、すなわち「土地と人民は 王の支配に服属する」 という理念は、権力者のものなのである。


東大寺正倉院文書にある 『美濃の国司解』 の中の記録を見てみよう。

 婢 古都賣(こつめ) 年廿 右頬黒子  価  稲 捌伯束

 右 恵奈郡 絵下郷 戸主 県主人足 口 県主息守 之賤


とある。

すなわち、古都賣(こつめ) と呼ばれる、頬にほくろのある、婢(女奴隷)の 二十歳の娘を、美濃の国司が中央官庁へ送った送り状である。

「 稲 捌伯束 」 とは、稲八百束で売買されたということだ。
当時、馬一頭も 稲八〇〇 ~ 一〇〇〇束 だったという。

天平 十二年(741年) 聖武天皇が大仏の建立を計画し、天平勝宝元年(749年)に完成した。
当時の孝謙天皇は、この際に東大寺へ封四〇〇〇戸、奴一〇〇人、婢一〇〇人を施入することにした。

美濃国へは、年は三十歳以下十五歳以上で、顔かたちのよい奴三人と 婢三人を正税をもって買い求め差し出すことを命じた。

当時の美濃守、大伴兄麻呂はさっそく奴婢を手に入れ、翌年天平勝宝二年(750年)に六名の奴婢を解状とともに送り届けた。 そのうちの一人が、恵奈郡絵下郷の婢古都賣(こつめ)だったのである。

ホクロのある顔かたちの美しい娘であったのである。
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by hansaki460 | 2009-06-29 08:22 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

『 故 郷 』

『 故 郷 』

島崎藤村は、郷里の押坂小学校で 記念講演をしたことがある。
近郷から集まった人々で、小学校の講堂はあふれるほどだったという。

ところが、壇上にたった藤村は、深沈としてうなだれたまま一言も発しようとはしない。
集まった人々が、沈黙の時間の長いことにざわつき始めた。
その時、藤村は低音でなにか言った。
瞬間静まった聴衆が聴いた言葉は、たった三行だった。

    血に つながる ふるさと
    心に つながる ふるさと
    言葉に つながる ふるさと


 ・・・・・少し間を置いて

    私は 『春』 という言葉の意味がわかるようになるまでに
    十年間を費やしました。


と、つけくわえた。

ただ、それだけのことだったが、しばらくする、講堂のあちこちからすすり泣きの声が起こったという。

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数年前、テノール歌手の佐野成宏氏が、生まれ故郷の伊那谷で、記念演奏会を行った時のこと。

イタリアに住み、ヨーロッパ各地で多くのコンサートやオペラに出演をしており、もうその頃には、追っかけが いるほどの実力を認められた存在であったが、地元では初めての演奏会だった。

素晴らしい歌声が、故郷のホール満員の観客を酔わせた。

そしてプログラムも最後となり、あの 『故郷』 をうたった。

    兎 追いし かの山     小鮒 釣りし かの川
    夢は今も めぐりて     忘れがたき 故郷

    如何に 在ます 父母    恙 なしや 友がき
    雨に風に つけても     思い 出ずる 故郷

    志を はたして        いつの日にか 帰らん
    山は青き 故郷        水は清き 故郷


歌い終わった一瞬時間が止まったかのように拍手がない。
すると客席からすすり泣く声が聞こえた。 
その声に我に返った客席からは、あたたかなそして大きな拍手が ・・。

       ・・・・ それは、いつまでも いつまでもつづいた。

.
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by hansaki460 | 2009-06-24 17:38 | Comments(0)

代官を罷免した中世の百姓は、やはり特権階級だった。

代官を罷免した百姓は、やはり特権階級だった!


応仁の乱の頃、百姓が、東寺領太良庄の代官の罷免を、東寺の惣公文所にあてて、「御百姓等」 の名で出した 『 太良庄 惣百姓等 申状 』 があります。

乱の騒ぎが打ち続くなかで近隣の所領の代官たちは、所領の警護に当たっているのに、太良庄の代官は京からやってこなかった。


「 これ程の大儀に、・・・ せめて御中間を一人下されて、国の様子を見聞されることもない。 口惜しき次第です。」

「 たとい御百姓をば人とは思われずとも・・・・・・ このようなことなら、今後下向されることがあっても、一切御目には掛かりません。」


中世の百姓の論理がまかり通っているのです。
すなわち、よるべき 「公」 の主権者にとって百姓はやはり 「公」 としての存在なのです。

ですから、長禄三年(1459年)当時、「公」 の百姓に対する不当な支配には、抗議をする権利を堂々と行使しているのです。


やはり、古代~中世の百姓は 他の民衆と比べると、特権階級だったようです。

写真は、東寺に残る、申状です。 ↓
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by hansaki460 | 2009-06-14 09:34 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

最古の皇別ゆかりの 『 多神社 』 を ご存じですか?


多坐弥志理都比古神社を ご存じですか?
( おおにます やしりつひこ )

多坐弥志理都比古神社は多氏 ゆかりの神社で、『 多神社 』 と 呼ばれ、奈良県 磯城郡 田原本町 大字 多、「 笠縫 」に有ります。
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古事記、日本書紀によれば、垂仁天皇の皇女・倭姫命は 天照大御神を鎮座する地を求め旅をしたとされ、倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、尾張国、伊勢国 の順に移動し、伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮という名で鎮座したとされます。

笠縫邑(かさぬいむら)は、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を、一時的に祀られた 最初の場所という伝承を持つ場所ですが、多神社を笠縫邑の位置と比定するなら、大変に興味深いことがあります。

多氏は、太安万侶の一族です。信濃の祝もその系統です。

美濃国、尾張国、伊勢国 一円の東にある恵那山には、天照大神の胞衣(えな)を奉ったという伝説があります。
恵那山の東側には、それを守るかのように天照大神の妹の夫ある 天智彦が奉られた 阿智神社があります。

壬申の乱の時、多氏系は 大海人皇子(天武)に荷担しました。
その後天武天皇は、信濃に行宮を計画したり、伊勢神宮の祭祀を重視し 広瀬・竜田祭を国家事業として行い、その影響で信濃の神社(阿智神社・戸隠神社・水内神社・諏訪大社等)は大きな影響を受け、大規模な 移転等が行われました。(推測ですが・・)

その後大陸と半島の影響を受けた藤原の天下となり 情勢は変わりましたが、九州王朝の系統の足あとが、ここそここに たくさん有ります。 古代の伊那谷には欠かせないテーマなのです。

多神社は神武天皇の子で二代・綏靖天皇の兄・神八井耳命のゆかりの神社で、最古の皇別 という 由緒正しいのですが、何故かひっそりと佇んでいます

多氏は謎の多い一族なのですが それだけにまた興味深い一族でもあります。
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by hansaki460 | 2009-06-12 11:09 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)