信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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百姓は 昔から特権階級だった。

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お米の栽培は種籾を催芽させてから籾すりまで約7ヶ月だ。 だが、年1回の収穫だから、12ヶ月が投資期間とすると、米一粒からとれる数は約400粒だから、単純に言えば表面利回りは、40,000%だ。 (半分の生産性でも20,000%)

米は自然の恵みではない。 米は血で購った宝である。 だから古代から為政者は、米を支配した。
米を栽培したのは姓を持った階層の、数多い人達だから百姓という。
だから古代から米を生産する者を、支配者はけして差別しなかったのである。
農民は搾取されたという見方は、金銭で納税されるようになた、近年の作り話である。
農家になれない人たちが、被差別にあったのである。

古代、為政者は籾を貸し与え、秋に回収した。 投資である。
(「貸稲」(いらしのいね)や、「出挙」で、50%~100%の利子を払った。 しかし40,000%の中の100%なのだ。 けして多くない。)

秀吉の太閤検地で、その体制は変質したが、おかげで 家康は 始めから全国を、石高という同じ物差しで 支配することが出来た。
(荘園の一掃と、度量衡の統一)

都市部にある農協が、組合員(農家)の人数より職員の人数の方が多いのは、作物ではなく、元農地の利用から上がる、お金と不動産を管理しているからである。

話がそれたが、おおみたからは大切に保護された。 いわば特権階級だった。 (異論はみとめる。(^^))
今でも農家はことのほか優遇されている。

中世からの本百姓は別だが、江戸期に大きくなった豪農の多くは、小さな百姓に田畑を質にして金を貸し、取り上げた農地を元の農民に貸し与え、小作とした。 それを 「質地地主」 と呼ぶ。 
地主小作制の始まりである。 農家が農民を支配下に置いたのだ。 それが戦前まで続いた。 

40,000%の超超高利回りの投資商品である米は、江戸時代には世界に先駆けて先物取引市場を発展させた。

それを扱う 商人達の中から、石門心学のようなその後に発展した資本主義の精神が生まれてきた。

日本は世界の中で、ほとんどの分野で最先端を走っていたのである。 そこには米の存在があるのだ。


今でも米作りは、差別である。 (農家が悪いわけではない) 
農地は、農家認定されていない非農家の国民は絶対に持てない。

戦後、農地解放で、ただでもらった土地が数十年たって、米の利回り位に値上がりした。 (農地解放を否定しているのでは ない)

だから、農家・農地を支配している 隠れたる者達は、古代の支配者と何ら変わらない。  形が変わっただけなのである。

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by hansaki460 | 2009-05-24 20:16 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

稲荷 と 熊鷹大神 と 羽白熊鷲 と


九州の羽白熊鷲や、蝦夷のアテルイは、列島の先(原)住民であり、リーダーです。 そして熊鷹大神は、伏見稲荷大社や、多くの地で 奉られています。 今回 あるきっかけが あったので、見解を述べます。
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「羽白熊鷲」雄鹿原上組神楽団 

先ず、熊鷹大神とは 誰か?
ということですが、日本書紀にある 神功皇后に 征伐された 甘木朝倉の豪族 『羽白熊鷲』 だと思われます。
それは、 神功皇后が 羽白熊鷹を退治した所の 福岡県筑穂町の 老松神社の 宮司さんによると、鷲 ではなくて 羽白熊鷹 と 伝わっていると、仰ってますから、同一人物 だと 思われます。 世に憚って、鷲を鷹と言い換えたのかもしれません。

では、神功皇后に 征伐された 羽白熊鷹が なぜ神様か? 
ということですが、そこが 藤原氏の天下が 1000年以上、今でも 続いている構造で、夷は 夷の社会を 容認して、公家とは 違う社会 を ずっと造らせて きたのです。 (公家・藤原は 比叡に代表される 寺です。)
そして 羽白熊鷲や、アテルイを倒した後 神にして、順わない民を、あの手この手で 懐柔したのです。

ではなぜ 「稲荷」 にあるのか?
というと、「稲荷」 は 「夷也」 で、先住民というか 原住民というか、朝廷(藤原朝)から 見た場合、従順な 夷の民 (=祠庫信仰者達)の 神様 なのですね。
そして 羽白熊鷹 は、朝廷(藤原)から見た場合の 「夷」 なのですね。
ですから、羽白熊鷹を稲荷に奉ったのです。

関西に 被差別が 多く存在するのは、差別する階級が いるからで、実は 差別する階級は、白村江の勝者で その時 進駐してきた、唐・高句麗系の公家(藤原氏) なのです。
そして差別される 階級は 日本の 原住民 すなわち、『夷』 たちなのですね。 (実際は、職能別で 複雑ですが・・・)

それから、天照大神 も、広義の 『夷』 ですから、天皇家は 日本の 原住民の 祖 なのですが、公家(藤原氏)達が、この国の 官僚として 天皇家の 血 の管理をしながら、君臨して きました。

ただし、あくまでも 天皇家は、夷 の 祖 で あり続けますから、日本は 安泰 なのです。

少し 刺激が 強かったでしょうか? 
私のような 地方の自由人でしか、本当のこと(?)は 口にだしません。
ただ、梅原猛先生は 「藤原の、賢明な悪党は 1000年ばれない 悪を してきた」 と、著書の中で 述べておられます。
by hansaki460 | 2009-05-08 13:13 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

古代の大和では、百済語で会話?

古代の大和では、百済語で会話?

古代の大和では、百済語で会話をしていたのでは? という根強い意見があります。

現代社会から 古代社会を 推測することは かなり難しい ですが、かろうじて想像すると すれば、グローバル企業が 英語で 会議をして 議事録も 基本的には 英語であったり、メールが 英語であったりするような 環境に 似ているのでは ないか? とは、想像できます。
聞くとこによると 日産が一時そうであったり、戦後GHQとの会話は当然英語であったように・・・。 

古代には 当然 国民国家というものは 存在せず、国といえば 貴族がいたに 過ぎないという 紛れもない事実があります。 当然 日本民族という アイデンティティーも まだなかった。
そして覇権者達は 今のヨーロッパの王族のように、王族同士の交流が あったのでしょう。 
民衆(国民?)は支配するもので、歴史の脇役ですら無かった。 
民衆が歴史に出演するときは、いつも まつろわぬ民・俘囚や、鬼として 征伐する 対象でしか なかった。

また一方、例えば 現代の日本でも 多様な方言が 存在しております。 明治のはじめには、地方から出てきた人々の間で、時には 通訳さえ必要だった という事実が あります。

私の住む 伊那谷は、東の文化と 西の文化の 交錯するところで、 現代にも 川ひとつ越えただけで、言葉も 習慣も 違うことがあり、多くの研究成果が 発表がされて おります。

上代特殊仮名遣の 研究でも、一元的に 見ようとする意見と、多元的に 見る意見の 違いの ところに 行き着いているのでは? と感じます。

このように、太古から現代まで 覇権(権力)も 多重・多様に 存在してきていることを 考えると、多様な文化、また言葉や文字が 存在することは、自然なことでは ないか と 思います。

記紀に代表される歴史は、ほんの一部の人たち すなわち覇権者の、支配者達の 権力構造の推移のこと、すなわち支配者の歴史です。

方や 国とはなにか? といった場合、文化・言語等やイデオロギーが 国家であり、そしてその多様性が 日本国を 形創って いるのではないか と思います。 
多様性を統合するアイデンティティーが、国柄を形創る 大切な意味だと思いますが、明治時代には、その多様性をどう統合するか?という時に、天皇制を大いに活用し 民族としてのアイデンティティーを 形成したのです。

私は、仏教・仏典を背景に 漢字を使った支配層・覇権者と、古代文字を使って続いてきた 祠庫信仰の被支配者達の 悲哀を感じます。
地方史から、そのところが 痛い程 よく見えてくるのです。
by hansaki460 | 2009-05-05 09:47 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

古代文字・神代文字は、存在した!

古代文字・神代文字は、存在した!
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古代文字 否定の 最大争点は、斎部広成が言う 『 上古の世は 文字が 無かった 』 というものですが、先ず その古語拾遺についてです。

O 斎部広成が言う、古語拾遺の 『 上古 』 とは、いつのことか?

e0171497_10265246.jpg斎部広成が 807年に 天皇に奉った本「古語拾遺」を 記します。
古語拾遺 一巻 加序   從五位下 齋部宿禰廣成 撰
蓋聞、「上古之世、未有文字、貴賤老少、口口相傳、前言往行、存而不忘。」書契以来、不好談古。浮華競興、還嗤舊老。遂使人歴世而彌新、事逐代而変改。顧問故実、靡識根源。國史・家牒、雖載其由、一二委曲、猶有所遺。愚臣不言、恐絶無傳。幸蒙召問、欲[手慮]・蓄憤。故、録舊説、敢以上聞、云爾。      以下・・略

[訳文]
聞くところによると、上古の世は 文字が無く、貴賎老少 問わず 口から口へ 伝えていたが、 その 言った事、行った事や 出来事を 忘れは しないかと 書き記して以来、古を語る事を好まなくなり、浮ついた 華やかさを 競い 興じて 還って 旧老をあざ笑い、遂に 世代を 重ねて 古代を忘れ、 代を重ねる後とに 古法を 失った。 顧みて 故実を問う時 その根源を 知らない。国史・家史に この理由を記録されている と 言っても、詳らかにすれば、なお 判らない所が 有る。 愚臣が 言わなければ、恐らく 絶えてしまって 伝える事が 出来なく成ります。 幸いに 召されて 問われましたので、長らく 思っていました事を 述べたいと 思います。 故に 旧事を敢えて申します。      以下・・略

それでは、斎部広成の言う『 上古 』 とは、いつのことだろうか?
広成は 古語拾遺で 言いたかったことは、イワレヒコ(神武天皇)の即位のときの 本来の職掌分掌を 今日(当時)の世にも 貫かせたかった のである。

すなわち、フルコトを記して、それは 忌部(斎部)の役割で あり、また 神武以来 三種の神器にかかわり 且つ、大殿祭・御門祭の 祝詞を司っていて、最も重要な 立場だったと、アピールしているのである。
忌部にとって 神武即位の儀式は、当家の 役割だったからして、当然 『 上古 』 では ないだろう。

2009年の 現在から上古と云えば、大化の改新までを 指すようだが、720年完成の 日本書紀では、「 山幸彦と海幸彦 」 以前を 神代としているからして、神武天皇の即位を 紀元前660年の 辛酉の年を起点としていると 解釈すれば、前七世紀には、既に 文字があったと 読める。

天之御中主・天照大神が治めた 南九州王朝の 高千穂国は、前十世頃と 推定できるから、おおよそは 想像できるが、ホツマツタエには、天照大神の回文や、妹の 和歌姫の歌や、文字を創ったという 思兼尊の事が 記されているので、前九世紀頃には、文字が あったかも しれない。

こういう乱暴な推測を、すべての学者は 極度に嫌う。
だから、記録にとどめたのは 最近なんだ、というかもしれない。
斎部広成の言う『上古』 とはホントはいつなんだろうか?
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by hansaki460 | 2009-05-04 10:29 | 神代文字 | Comments(0)