信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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『 白山神社 』 と 『 駒ヶ岳 』

『 白山神社 』 と 『 駒ヶ岳 』

弾左衞門 と 『白山神社』
中山英一氏は 著書で、長野県の被差別部落の人々と 白山神社の関わりを 詳しく描写しているが、東日本によく見られる 白山神社は、一体何を 祀っているのか。 氏は 「江戸の弾左衞門の 信仰に ならったものでは ないか」 と 推測する。 そして 「権力と財力を ほしいままにした 弾左衞門が、己の職業に与えられた 精神的 いやしさ からの 解放を 必死に願わずには いられなかったであろう」 としているが、なぜ 「賤民史観」 が突如 出現してくるのか? (弾左衛門は 江戸時代の 被差別民であった 穢多・非人身分の 頭領) 
弾左衞門は、本当に 白山神社に 祈り、解放を 求めたのか?
いいや、代々の 弾左衞門 は、己の 職業に 「精神的な いやしさ」 を 感じる どころか
「誇りと 自負心」 を 持っていた はずだ。

安産の神 と 『白山神社』
折口信夫は、加賀白山神社が 「ククリヒメ」 を祀っていることから 「ケガレ淨化 との関わり」 を 指摘した。
同じく民俗学者の 宮田登は 「これは 職能祖神というべきもので、その職能の安全を 保護する神霊」 とし、また 「穢れを 除去する」 神と 説明している。
しかし、白山神社は、古来から、出産の神、安産の神として 祀られてきたという 事実が もう一方にある。
出産の神、安産の神である 『白山神社』 の神が、なぜ穢多の神になっていったのか、歴史学者も 民俗学者も 明確な説明を することができないでる。 被差別部落の人々でさえ、そのことを 説明することが できない。

『駒ヶ岳』 と 『白山神社』
そこで、『駒ヶ岳』 の所在地と、『白山神社』 の所在地を みた時、帰化人の存在と オーバーラップするのだ。

徳川家康 と 『源氏名』
秀吉から 国替えを 命ぜられた 徳川家康は、八月一日(陰暦の八月一日は秋風のたつ九月) に白衣を羽織って 江戸入りした。  
以後、八月一日の 江戸開都祭 の 「八朔の祝い」 では、諸大名や旗本は 皆 白上下を着て、江戸城へ伺候し、江戸城では 将軍から茶坊主に至るまで 白衣を着て、又 その日の 吉原の女郎衆も 白一色になる 行事が あった。
(ちなみに、女郎衆は 源氏系の 限定職で、白拍子も 同じ。 今でも 花柳界や 接客業界で 女性は 職業上の名を 『源氏名』 と称する伝統が ある。)

足利氏 と 源氏
先立つ 室町時代、明国に臣従の形をとっていた 足利氏は、仏教をもっての 人心教化方策として、片っ端から、ナムアミダと やらせていたが、白旗党余類の中でも 『騎馬民族系』 は、それに対抗して 韓(から)神さまを 信仰し、白頭山でも偲ぶのか、加賀の 白山さまを 各地に 勧請したのだ。

◎ すなわち、大陸東北部からの 移住 渡来人の 末裔たち・源氏系氏族が、白山を 信仰したのである。( 白=まわし=北方系=源氏系 )

黒 対 白 の 社会構造
江戸時代になっても、唐・高句麗系の 大和朝廷の貴族や仏教徒は、契丹系の 源氏を差別して 「西方極楽浄土を説く仏教徒」 等は、墨染の衣、つまり黒を身につけて 威張っていたが、江戸の天下では、旗本で 反仏的な 水野十郎左衛門などは 「吾々は 白系だぞ」 とのし歩き 「白衣をもって 対抗していた」 という 歴史的事実 が あるのだ。 北面の武士 以来、武は 貴族から 差別されてきたが、力は 逆転していた。

赤 の 倭
ちなみに、それより古い 八はた系は、土俗八幡の祠 を 作り、その辺りに、男性のものに 似た 陽石を並べ、これを 「道祖神」 として奉っていた。
(北の 『白』 に対して、こちらは 赤=赤ふんどし=海人系=平家系でもある )

覇権者 の 姿
事程左様に、大陸・半島・列島の 人的移動の 歴史の考察 が 不可避だ。 
そして、差別・被差別の 構造も、新しくて 古い問題であり、古代に 遡る、部族間の 問題なのだ。 
学者も、評論家も 決して 正面から 見ようとしない。 
東大寺の 古文書には、寺男を 銭で売買した 記録が あるというのに である。

◎ そこには、白村江の 勝者・唐の郭務宗と、その軍団と、やがては 追い詰められて 列島たへ来た百済系の貴族たちが、倭の 天皇家を 担ぎだし、以後1000年以上 後ろで巧妙に操って来た、覇権者の 姿が見て取れる。
そして、やがては、白山社まで 権力に取り込み、比叡の 配下にして いったのだった。
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by hansaki460 | 2009-03-28 06:32 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

古代の地名 『 駒ヶ岳 』 の 由来


伊那谷から、木曽駒ヶ岳と甲斐駒ヶ岳が見えます。
駒ヶ根市は駒ヶ岳サミットを提唱した市です。
全国には、正式名称では16ケ所ですが、通称では大小いくつの駒ヶ岳があるのでしょうか?

駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川 以北にのみありますが、それには 大きな理由があります。


紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による高句麗という 国がありました。 日本語での古名は「こま国」です。 

混同されやすいですが、後高句麗(899年~918年)とは、違う国です。 
当然、高麗(こうらい)とも違います。 
高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。

古代、「こま国」からは、『弊賂弁島』『渡島』を経て、列島に多数の帰化人が入植しました。(下図を参照して下さい)

彼らが附けた山の名が、『駒ヶ岳』なのです。 後に彼らは大和朝廷に支配される側となりますが・・・。


日本海を見ると、ほぼ中央に 大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に『粛慎人が「佐渡嶋北」に住み着いた』とある、今は無き 『弊賂弁島』『渡島』です。

大和朝廷の官僚・貴族たちは、「倭人」を『弥次さん』と、「こま人」を『喜多(北)さん』と、または、『八つぁん、熊さん』とか『野次・馬』などと揶揄し、差別・卑下と懐柔策で 日本の国を支配してきました。
 (現在、言葉狩りで、マスコミもこの重大な事実を隠し通していますが・・)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は 朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の維持を図りました。

知らぬは『庶民』ばかり なのですね。

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     【 大和碓 】
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by hansaki460 | 2009-03-24 09:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

日本の怨念の源泉と足跡(消された古代文字)

日本と半島の怨念の源泉と足跡

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1)太平洋に今は無きム大陸(無大陸)があった。そこでは,比較的高度の文明が発達していた。この文明を育んだ人種を『洋族』とする。
ム大陸は、或る時、突然に沈没し始めた。
『洋族』は、これに驚き故地を離れ華北平原に四散し、さらにその周辺部に拡散した。

2)『洋族』はム大陸から列島にも到達し、南九州の高千穂国の成立に影響を及ぼした。
後の高千穂国は、天御中主之神,高皇産霊神,天照大御神等の偉人を生んだ。これを 『原倭族』とする。

3)中国大陸で『洋族』は殷国 を樹立したが、以後異なる民族との攻防が 繰り返された。
周辺部では北方系民族に遭遇し、一部は渤海湾を迂回して半島に至り、一部は西海を超えて列島に到達した。

◎『洋族』は、ム大陸の深層の記憶に留めたものと思われる。
半島を南下する『洋族』を『午族』とし、西海を渡って列島に至る『洋族』を『倭族』 とする。  中国大陸では『漢族』が主部を占めるに至った。

4)中国は,春秋戦国の時代を経て,前221年に統一された。
秦の始皇帝との覇権を賭けた戦争に破れた『倭族』の【 徐福集団 】は,東アジアに脱出し、『洋族』や古朝鮮系列の『旧午族』も住む列島,半島に分かれて定着した。 
前者が『倭本族』であり、後者が『倭支族』である。
『原倭族』は、同族ゆえに抵抗なく受け入れ『倭本族』と同化した。

◎ 各地に小国を建設した徐福集団の末裔は,分離を意味する『八族』(=倭本族+倭支族)と自称した。

5)半島南部に定着した『倭支族』は,北からの圧力に対抗するために,三韓国:弁韓,辰韓,馬韓を結成した。

6)九州島に定着した『倭本族』はこれに呼応して、『倭国』を結成した。これを『小倭国』 と称する。

7)時代は下り,半島南部では,三韓が任那,新羅,百済に移行した。

8)『小倭国』は,狗奴国が女王国を制圧し、東征して、政権を樹立した。 
これが 『中倭国』 である。

9)この頃、三韓の民が列島に大量に入植した。 これが,古墳時代の幕開けである。
半島では、後に新羅が膨張し、任那が滅亡して、高句麗,百済,新羅の 三国時代が到来した。

10)AD562年、列島の『倭本族』は、半島の『倭支族』を受け入れ、共同して政権を樹立した。 これが 『大倭国』 である。

11)時代は更に下り、半島では、新羅 が 膨張して、百済,高句麗が滅亡した。

12) AD669年,高句麗の中枢,即ち『 新午族 』は,『大倭国』を簒奪し,政権を樹立した。これが 『大和国』 である

◎古代列島は,半島から見た場合に、駆け込み得る 入植地 であった。
中国の 戦国時代にも流民が渡来していたが、その後、先ずは、三韓国の流民が 畿内他に入植した。
◎次に,任那国の流民が 出雲他に 入植した。三韓国,任那国の民は,『小倭国』,『中倭国 』 の民と同じ『倭族』であるので、この段階においては、『列島倭族』に強い抵抗は生じなかった。
◎更に,高句麗国の流民が 列島を簒奪した。
高句麗の民は,『北方系の午族』であるので、この場合には、『列島倭族』 に強い抵抗が生じた。


13)古代国家『大倭国』の創建時に、列島の勢力を代表する物部氏が任那勢力を代表する蘇我氏に 駆逐され、その残党が東北部に後退した。

14)次に、律令制国家が始った『大和国 』の創建時に、『大倭国 』の勢力を代表する蘇我氏が高句麗勢力を代表する藤原氏に制圧され、橘氏,大伴氏などの 旧勢力も徐々に圧迫され 屈服した。

◎ 宗教面では、『小倭国 』の祠庫信仰が,『大倭国 』の屋代信仰に発展したが,これも『大和国 』の社神信仰へと変質した。
◎ 来世信仰は、内面において『小倭国 』の神教から 『大倭国 』 の仏教に,外面において『小倭国 』 の古墳築造から『大倭国 』の寺院築造に転換した。
◎ 反面、『大倭国 』から『大和国 』への覇権交代時には,旧勢力に対する勝者の呪詛、新勢力に対する敗者の怨念が渦巻き、列島に対立,差別の 社会構造が生じた。
◎ 新午族は、徐福=倭族の 古代文字を徹底的に 焚書してしまった。

   【 これらの《 怨念 》が、1300年後の今でも 続いているのです。 】
(長田通倫氏の論文を参考にしました。)

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by hansaki460 | 2009-03-19 10:24 | 神代文字 | Comments(0)

古代文字に関する ご質問に答えて。

古代文字に関する ご質問に答えて。

ある方からの ご質問です。



従来から古代文字についての疑問に関する質問

①基本的に「いろは」48文字で母音も「あいうえお」になっていること。
②貴写真資料でも 山口県住吉神社の 「スミノエ」 の 「ノ」 及び奈良県大和神社の 「ヤチホコノ」 の 「ノ」 は何れも 万葉仮名の 「乃」 に思える。

この辺りがよく分かりません。



という ご質問に対して。

私は、古代の5母音と 8母音の議論は、まだ勉強不十分なのでわかりません。
そこで 橋本進吉博士の
『 現代とは 全く異なった 子音が 古代にはあった ということではなく、現代より 複雑な 母音の体系が かつて存在した ということらしい。』という前提で、丸山作楽氏の説の 一部を 紹介してみます。
丸山作楽氏が、海江田元老院技官と 明治20年渡欧した折に 碩学スタイン博士と交わした 会話記録です。

スタイン博士が、神代の文字について 説明を 求めた 問いに 答えて
『 ・・・古字に日文、秀眞(ホツマ)、穴市の三種あり、秀眞と穴市とも 伝来の久しきを 持ってすれば、漢籍前後に 於いて、一方に 適用したる者 ならむ。 支那字に 類似せるより。 世人の信を措き難し とするところなり。  -略-
而して 神字五十音は 宇於伊衣阿(ウオエイア)の母音と、宇千由牟布須久奴都流(ウチユムフスクヌツル)の 子音と配合して 声を発し、字を綴れるを 片假音図は 阿伊宇衣於を縦行とし 阿加佐多那波麻耶良和を横行として 悉曇章(梵字)に因りて 位置を変改し、又 習字にも 日文の順次 及び 難波津安積山(ナニハズアサカヤマ)を発して、平仮名色葉歌を用いるに 至れるは 仏式の盛んなる、一時文権を得たるより 馴致したる者なり。-略- 』

すなわち、仏教が入った段階で、古来の発音は 「あいうえお」 に統一されたと、述べてます。 (仏典の学習のためか?)
私見ですが、文字や発音に限らず、全てのものが、白村江の戦いで敗退した時以降、唐及び 高句麗のGHG・進駐軍の 藤原一族と その官僚 及び 仏教学者等によって、太平洋戦争 敗戦後、アメリカナイズした以上の変化があったのではないか、と思います。

ここでは、何故それ以前のもので研究されていないのか?ということになりますが、美社神字録では、3世紀から10世紀頃までのことが古代文字で記されており、10世紀ころの発音で書かれていても、(古代文字は表音文字ですから)何の不思議はないと思います。
倭武尊は 「 ヤマト タケ ノ ミコト 」 と書いてあります。 「 タケル ノ ミコト 」 ではありません。
又、天皇は 「 テムノウ 」 と記されています。

「 ノ 」 が 「 乃 」 になっている件は、私もそう思います。(笑)
古代文字には、あひる草文字に似た文字で、阿波文字というものもあります。 伝承の過程で、変遷したのではないか?
文字は変わっています。甲骨文字から金文・多くの書体を経て漢字へ。
古代文字は、甲骨文字・金文の頃の形が 読み取れますが、これがお手本だ、というものが 有ったのではないのだろうと 思います。
甲骨文字が漢字へと 変遷していく 過程と似ているところが有ったと思います。
中国で 漢字が 簡体字に変遷したのは ごく最近です。
ということで、よろしいでしょうか。

古事記は まだしも、日本書紀の 呪縛の 解けない 現在の史観の中では、なかなか議論が展開しません。
ちなみに、明治時代 ドイツのケムペルマンは、「神代文字」と題する 堂々たる論文をドイツ協会雑誌に 発表していますが、わが国の 誰ひとりも 批評をしていないとのことです。
近年では、吾郷清彦氏などが 著名です。
私も少しずつですが、前進していきたいと思っております。

今後のHPをご支援下さい。
HPで発表した以上、上記のような質問にも、わかりやすくお答えするのが責務かと思います。
その姿勢でおりますので、今回はこの程度でお願いします。



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by hansaki460 | 2009-03-16 19:01 | 神代文字 | Comments(1)

蟻通神社

蟻通神社

蟻通神社なる神社が、複数存在します。

枕草子に ありますが、
 孝行ものの 中将が、当時 老人を棄てる 定めがあった にもかかわらず、家に ひそかに かくまって 親孝行の 誠を 尽くしていた。 その時、唐土の皇帝が 日本を 掠め取ろうと、難題を 突きつけてきた。

一つは 「 本末同一の 太さの木の 棒の、根元と末を 見分けること 」、
二つは 「 二匹の 蛇の雌雄を 見分けること 」、
三つは 「 七曲に くねった 小さな 管玉に 糸を 通すこと 」。
時の帝は、知恵者を 呼ぶが 誰も 答えることが できず、困り 果てて いたところ、かの 中将が、匿っている 親に 教えられ 難問を 解決し、老人を 棄てる 法を 改めるようにして 貰った。
三問目の解決法は、大きな蟻に 糸をつけて 穴に入れ、もう一方の 口に 蜜を塗っておく。
蟻は 蜜の香をかいで 七曲の玉を 通り抜け、玉に 糸を通すことが できる。

 さて、その人の 神に なりたるにや あらん、その神の 御もとに 詣でたりける人に、夜 現われて 宣たまへりける
   七曲(ななわだ)に まがれる玉の 緒をぬきて 蟻通とは 知らずや あるらん
と 宣たまへり ける、と人の 語りし。
               ・・・・枕草子

思兼尊の話として 伝えられて おります。

いくつかある 蟻通神社のうち、かつらぎ町にある神社の祭神は、思兼尊です。
私は まだ伺ってませんが、吾道彦(思兼尊)が 紀伊にいた 天照大神の妹・和歌姫から 求婚された ところです。

   キシイ(紀州)こそ 妻を身際(みぎわ)に 琴の音(ね)の
       床(とこ)に我君(わぎみ)を 待つぞ恋(こい)しき
      ・・・・回文歌です・

「紀州にいらっしゃい。 私は貴方の 妻になって いつも御身(おんみ)の近くで 琴を奏(かな)でて さしあげましょう。 寝床では いつも我君(わぎみ)を 恋しい思いで お待ちしています」・・・と。

おおらかだったのですね。


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by hansaki460 | 2009-03-13 20:59 | Comments(0)

戸隠神社をご存じですか?

戸隠神社をご存じですか?

戸隠神社は、長野市にあり、祭神は 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)、その子・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)、同じく子・天表春命(あめのうわはるのみこと) ほかです。

「戸隠」の名が 歴史的な文献に 最初に登場するのは 平安時代です。
すなわち、南信州の 阿智神社から 移籍してから、というのが私の主張です。

しかし、地元や 学者の人たちは、戸隠神社は 神代の昔から戸隠にあった と、そう固く 信じているようです。

このことを 指摘する人は 他にいませんが、間違い ないと思います。


神社には、九州の 高千穂神楽も 残っておりますが、これも研究対象です。

私のテーマ・古代文字も 関係してきます。

ぜひ、どなたか反論を!  楽しみにしてます。

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by hansaki460 | 2009-03-11 08:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(1)

名字・苗字の多くが二字の理由

名字・苗字の多くが二字の理由

あるコミュニティ掲示板 に、

『 名字・苗字は、中国も朝鮮も 一文字が圧倒的に 多いが、日本では 圧倒的に 二文字です。 何故?』 

という 質問が あった。
実は、私のテーマの中の ヒントにも なっているので、早速 次のようにコメントした。



名字・苗字の多くが 二字の 理由。
『 和銅六年(713)に 諸国郡郷の 好字化の詔 があり、さらに神亀三年(726)に 国名の 嘉名二字化 の詔 があり、地名の 唐風嘉名化が 八世紀から九世紀にかけて 行われている。
叙位任官とは無縁な 一般民衆には 姓は不必要なものであり、後世の苗字化時代には 嘉名化した居住地名を 名乗ることになる。』
と あります。 この影響ではないでしょうか?

私は、地方史を調べてますが、古地名が これらの影響で、改名されており、記紀以前の地名と 合わないものが あります。

一説に、好字化は、大和朝廷のバックにいる 唐・高句麗系のGHQ・仏教勢力 の 占領政策だ という方もおります。




伊那と、諏訪の境 に ついても、美社神字録では、明確になって いますし、里(郡郷)も 明確です。
HPを 更新する際には、これらも わかりやすく 記載したいと 思っております。
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by hansaki460 | 2009-03-09 22:12 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

青銅器

青銅器

はじめにご覧下さい。
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銅鐸・青銅器・新羅・倭
鉄器・頭槌剱・大和・
   ・装飾馬具・
いろいろ考えると・・・・眠れない。

いずれにしても、考古学を無視して 古代史は 語れないところまで きている。


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by hansaki460 | 2009-03-08 07:14 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

全国でも少ない 『 八華形鏡 』

全国でも少ない 『 八華形鏡 』

赤須彦が、倭武尊を迎えた時、八華形鏡と頭槌之剱を懸けて迎えたという。
八華形鏡は、数が少ない。


社伝記”美社神字録”にあるのを見てみよう。
記録を写したした人が違うので、二種類あります。

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次は、安布知神社に伝わるものです。
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神社の鏡は、踏み返しの鏡ですが、原型鏡を一緒に掲げます。
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最後に、似たものですが、集古十種にある、或蔵鏡です。
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ここから、判断をすると、美女ヶ森のものは安布知神社の物と同型だったと思われます。
八華形鏡は、唐式の鏡ですが、遺跡出土鏡には見られません。

分析は後日に。 資料のみ。

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by hansaki460 | 2009-03-06 16:18 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

神社に伝わる古代文字[2]

全国各地の神社に伝わる、古代文字です。

石上神宮の 『 守符 』 です。
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これは、美濃國一宮 南宮神社のものです。↓
祭神は、伊弉諾之尊の御子 金山彦尊です。
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文字の読み方は、こちらへどうぞ!←


鎌倉、鶴岡八幡宮のものです。
祭神は、応神天皇です。
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宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する天岩戸神社で発見されたとされる岩蓋
文政四年(1821年)に発見された


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by hansaki460 | 2009-03-03 19:05 | 神代文字 | Comments(0)