信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:地方史から見た覇権の姿( 18 )

古代国家 の イメージ

古代国家 の イメージ

◎ 北朝鮮の経済は、二重構造を していると云います。

支配者(政府・金一族)の経済は、麻薬・偽札の製造、海外の 同胞からの送金、外国からの経済援助の流用などで賄われ、軍隊・役人の維持と、核・ミサイルの開発に向けられています。

一方国民経済は、統制経済の形を とっていますが、配給制も崩れているようで、専政国家の様相です。

◇ もし、何らかの事情で、金王朝のトップが亡命しなくてはならない状態になった時に、どんな事が想定できるでしょうか。

トップの亡命を受け入れて得な国は? と考えたとき、核とミサイルの技術が欲しい国は、多くあります。

そういった国々は、核とミサイルの技術を持った人材を一緒に受け入れるでしょう。

また、フィリピンのマルコス元大統領は、約1兆 2千億円もの財産を持っていたために、亡命できました。

◎ 古代は、このような亡命が繰り返されてきました。

・ 古代、百済には 大陸から進んだ技術が入り、技術者がおりました。 日本は半島の混乱で、百済の亡命者(支配層・技術者)を受け入れました。 (奈良時代の事です)
しかし、その時の事情は、百済の支配層の力が当時の日本のそれより強かったために、文化的には影響下に入りました。
政治的にも、百済の貴族は当時の役所へ入り重用されました。

・ 奈良の前は、伽耶諸国や新羅(倭の仲間)からの影響が強く、白鳳文化が花咲きました。 人材も多く入りました。 (飛鳥時代の事です)

・ そのほか、前高句麗や契丹等からの渡来者もいました。

古代国家のイメージが、出来たと思います。 国譲りの神話も、その他の神話も、言ってみれば同じような繰り返しです。

◎ ただ、日本の幕藩体制での、藩の経済は全く違い、運命共同体的な体制を作っており、近代国家への芽 が出来始めていました。 (江戸時代の事です)

◎ また 7世紀以降の律令体制は 亡命者の影響ではなく、白村江の戦いの勝者・唐の進駐軍が百済の軍隊を使って、日本を占領した結果です。 (藤原体制の事です。)
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by hansaki460 | 2009-09-21 10:18 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

『執念の女帝・持統』

『執念の女帝・持統』  人気ブログランキングへ にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 

伊那谷では、天武天皇の時代に、大きな変化が あったことを 感じ取ることが 出来ます。
私は 感覚的には、天武が もう少し若く 長く天皇でいたなら、かなり違った国造りが 出来ていたと 思われます。

なぜ そう言うか というと、続く 女帝・持統天皇の施政について、違った見方を するように なったからです。

はじめの頃、私は 持統天皇の能力を 高く評価する 一般的な見方 を 取っておりましたが、どうしても 地方史から見た場合、天武と持統では、180度違っていますので、疑問が ついて まわっていました。

最近 いくつかの本を 読んでいるうちに、
「持統は 操られていて、取り巻きに 後の 藤原体制 を 作られてしまった、と言うのが 本当のところでは ないか?」 
と 思うようになりました。

その考えを、決定的にしたのは、関裕二氏の 『 執念の女帝・持統 』 という本です。

その後の 伊那谷は、律令体制の下に 組み敷かれて いきました。
ただ 救いは、やはり最近の本の中で、「近代国家は、律令体制を経て 出来上がって いった」、という ところを 読んだことでした。


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by hansaki460 | 2009-04-29 11:31 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

古代の地名 『 駒ヶ岳 』 の 由来


伊那谷から、木曽駒ヶ岳と甲斐駒ヶ岳が見えます。
駒ヶ根市は駒ヶ岳サミットを提唱した市です。
全国には、正式名称では16ケ所ですが、通称では大小いくつの駒ヶ岳があるのでしょうか?

駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川 以北にのみありますが、それには 大きな理由があります。


紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による高句麗という 国がありました。 日本語での古名は「こま国」です。 

混同されやすいですが、後高句麗(899年~918年)とは、違う国です。 
当然、高麗(こうらい)とも違います。 
高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。

古代、「こま国」からは、『弊賂弁島』『渡島』を経て、列島に多数の帰化人が入植しました。(下図を参照して下さい)

彼らが附けた山の名が、『駒ヶ岳』なのです。 後に彼らは大和朝廷に支配される側となりますが・・・。


日本海を見ると、ほぼ中央に 大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に『粛慎人が「佐渡嶋北」に住み着いた』とある、今は無き 『弊賂弁島』『渡島』です。

大和朝廷の官僚・貴族たちは、「倭人」を『弥次さん』と、「こま人」を『喜多(北)さん』と、または、『八つぁん、熊さん』とか『野次・馬』などと揶揄し、差別・卑下と懐柔策で 日本の国を支配してきました。
 (現在、言葉狩りで、マスコミもこの重大な事実を隠し通していますが・・)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は 朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の維持を図りました。

知らぬは『庶民』ばかり なのですね。

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     【 大和碓 】
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by hansaki460 | 2009-03-24 09:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

戸隠神社をご存じですか?

戸隠神社をご存じですか?

戸隠神社は、長野市にあり、祭神は 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)、その子・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)、同じく子・天表春命(あめのうわはるのみこと) ほかです。

「戸隠」の名が 歴史的な文献に 最初に登場するのは 平安時代です。
すなわち、南信州の 阿智神社から 移籍してから、というのが私の主張です。

しかし、地元や 学者の人たちは、戸隠神社は 神代の昔から戸隠にあった と、そう固く 信じているようです。

このことを 指摘する人は 他にいませんが、間違い ないと思います。


神社には、九州の 高千穂神楽も 残っておりますが、これも研究対象です。

私のテーマ・古代文字も 関係してきます。

ぜひ、どなたか反論を!  楽しみにしてます。

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by hansaki460 | 2009-03-11 08:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(1)

名字・苗字の多くが二字の理由

名字・苗字の多くが二字の理由

あるコミュニティ掲示板 に、

『 名字・苗字は、中国も朝鮮も 一文字が圧倒的に 多いが、日本では 圧倒的に 二文字です。 何故?』 

という 質問が あった。
実は、私のテーマの中の ヒントにも なっているので、早速 次のようにコメントした。



名字・苗字の多くが 二字の 理由。
『 和銅六年(713)に 諸国郡郷の 好字化の詔 があり、さらに神亀三年(726)に 国名の 嘉名二字化 の詔 があり、地名の 唐風嘉名化が 八世紀から九世紀にかけて 行われている。
叙位任官とは無縁な 一般民衆には 姓は不必要なものであり、後世の苗字化時代には 嘉名化した居住地名を 名乗ることになる。』
と あります。 この影響ではないでしょうか?

私は、地方史を調べてますが、古地名が これらの影響で、改名されており、記紀以前の地名と 合わないものが あります。

一説に、好字化は、大和朝廷のバックにいる 唐・高句麗系のGHQ・仏教勢力 の 占領政策だ という方もおります。




伊那と、諏訪の境 に ついても、美社神字録では、明確になって いますし、里(郡郷)も 明確です。
HPを 更新する際には、これらも わかりやすく 記載したいと 思っております。
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by hansaki460 | 2009-03-09 22:12 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

雑感

雑感

壬申の乱の頃、天武天皇の頃、やはり革命にも似た大きな変化が列島を襲ったに違いない。

ここ、信州・伊那谷も例外ではなかった。

阿智宮の移封、善光寺の移転。

諏訪大社の大きな変化もこの頃か?

天武・大海人は、阿海か? それとも大莫離支・蓋蘇文か?


ここのところで、いつもストップしてしまうが、昨日、
『 天武大王の皇位と 権威の確立の為に、天武大王直属の 修験 秘密警察が 誕生した事も 充分に考えられる。』
という、静岡の 未来狂冗談氏の見解が、面白かった。

しばらく 覇権の項は、読書と調べに 没頭か!
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by hansaki460 | 2009-02-23 18:01 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

伊那谷の覇権の推移[2] ”検討課題”

伊那谷の覇権の推移[2] ”検討課題”

大和朝廷の中で、伊那谷に大きな影響を及ぼした人物 といえば、天武天皇(大海人皇子)は その中の 筆頭では ないだろうか?

天武の時代に、阿智宮と善光寺が 伊那谷から 北信へ行ったが、当時 どんな要素が 生じたのであろうか?


天武天皇(大海人皇子)は 天皇号の創始者であり、天皇の 宗教的権威を 高めた人物で、伊勢神宮(天照大神)の祭祀を重視し、また広瀬・竜田祭を 国家事業として行った。
そして、斎宮を制度化したのも天武天皇である。

さて、それより 数百年前、崇神天皇は 宮疫病を鎮めるべく、従来 宮中に祀られていた その天照大神を、倭大国魂神と併せて 皇居の外に移し、豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(かさぬいむら)に 祀らせた。 これが斎王(斎宮)の始まりとされる。
笠縫邑とは、崇神天皇が 宮中に奉祀していた 天照大神を 移し、豊鍬入姫命に託して 祀らせた場所で、比定地については、檜原神社、多神社、笠山荒神社、多神社摂社の姫皇子神社、飛鳥坐神社、等々がある。

これらを見るに、天照大神を通して、神武天皇,崇神天皇,天武天皇に 伊那谷に共通する事柄が 浮かび上がる。

まず初めには、天照大神の義弟・吾道彦(天八意思兼命)が、信濃(阿智宮)に入っている。

次に、神武天皇の子・神八井耳命は 古事記編者・太安万侶の祖先であり、多氏一族の始祖であるが、多氏は 科野國造でもある。
そして崇神天皇が笠縫邑で 天照大神を祀ったという場所は また、多家所縁の地であり、現在 多神社がある。

天武天皇は、信濃に行宮を計画した。
そして、善光寺、戸隠神社、諏訪大社に大きな影響を与えたと思われる。

そして何より、三人の天皇は、天皇家草創の節目節目で、重要な地位を占めている。


天照大神と吾道彦(天八意思兼尊) : 神武天皇と神八井耳命 が、また 崇神天皇 : 天武天皇が オーバーラップするのは、私だけだろうか? 


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by hansaki460 | 2009-02-20 11:50 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

伊那谷の覇権の推移[1] ”はじめに:雑感”

伊那谷の覇権の推移[1] ”はじめに:雑感”

"古代の伊那谷の出来事”で、注目し分析すべきと思われる事柄

 天照大神・阿智彦の時代      紀元前 7~8世紀か?

 徐福列島に来る           紀元前 3世紀頃    倭の成立に影響?

 日本海~越~北信 高句麗人の渡来    2世紀      駒ヶ岳の命名?

 赤須彦の時代 ・・             3~4世紀か?  九州倭国の影響

 高句麗・新羅を征服した騎馬民族渡来   4世紀     東日本文化醸成される

 古墳の時代 鏡・馬具             5世紀~    壬申の乱への影響

 8つの伊那谷古墳群(前方後円墳)     6世紀~    地方豪族の体制化   

 阿智家・善光寺  →  戸隠・北信へ             天武の信濃行宮の影響

 藤原氏支配の時代                         比叡勢力を使った伊那谷の席捲


まだ、いろいろな要素があるかとは思うが、検討・分析していきたいと思います。

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by hansaki460 | 2009-02-18 10:44 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)