信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:地方史から見た覇権の姿( 19 )

『 百済 』 の 姿

『 百済 』 の 姿
◎ 半島南部、前三世紀~前二世紀に、辰国(しんこく) がありました。
元は、中国の東北地区(旧満州)北部の 松花江流域の扶余系の騎馬民族で、南下して一部が 前高句麗となり、一部は 「夫余」 の姓を名乗りながら 朝鮮半島南部に 「辰国」 を建てたとされ、鉄器時代国家で、細型銅剣文化を有する農耕社会だったと推測され、その一部は 『百済』 となりました。

◎ 歴史の記録上の百済は、346年・近肖古王即位から、660年の唐・新羅連合軍に百済が滅ぼされ、663年に倭国の百済救援軍が 白村江で唐軍に大敗するまでとされています。

『史記』 『漢書』 『資治通鑑』 『三国志』 『後漢書』 では、辰韓、馬韓、弁韓の三国の起源が 「辰国」 にあるとしています。               (図は5世紀末の半島)
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◎ 騎馬民族征服王朝説では、辰国の王は 扶余族の系統であり、その末裔の一部が日本の皇室の祖であるとしています。

◇ 私見ですが、崇神朝が それにあたるのでは? と思います。
その後景行天皇と、南系原住民の豪族の妃との子・倭武尊は大国主、出雲族等と日本の統一に奔走しました。
天照大神の弟・素戔男が半島へ行ったのは史実だと思うし、その時代は国という観念ではなく、部族 という 共同体であったと思います。

◇ その頃は、朝鮮半島南部にも 「前方後円墳」 が分布し、九州北部にも 「朝鮮式山城」 が 分布しました。
つまり 朝鮮半島南部と 九州北部で一体の 文化圏でした。
その中に百済があり 任那(伽耶)があり 耽羅があり 末羅があり 伊都があり 狗奴があり その他もろもろが あった。
主導権争いを 繰り返しつつ、唐の遠征による百済の滅亡で、文化圏の境界は半島の南岸 以南へ後退した。
・・・・という時代でした。

以前からこの地域へは、南方からも 多くの部族が 入っており、倭グループを構成していました。

◇ なお、天皇陛下のゆかり発言で有名になった 桓武天皇(781-806)の母親の高野朝臣新笠は、10代前に渡来した25代百済王(501-523)の子孫で、五世が日本に帰化した 百済系の 十世でした。
こう見たとき、七世紀以前の百済に 強く郷愁を感じる、今の韓国の人たちの心情が奈辺にあるか、知りたいところです。

◎ 百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む 数千の百済人が倭国に亡命し 一部が朝廷に仕えました。
豊璋(*)の弟・善光(または禅広)の子孫は 朝廷から 百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済王氏は 8世紀に敬福(きょうふく)が黄金を発見し 東大寺大仏造立に貢献するなど 日本の貴族として活躍しました。

(*)前に書いた 『多神社』は、豊璋と深い関係があり、宮中に奉祀していた天照大神を一時的に祀った最初の場所という伝承を持つ場所です。http://utukusinom.exblog.jp/10416361/
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by hansaki460 | 2009-09-22 05:18 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

古代国家 の イメージ

古代国家 の イメージ

◎ 北朝鮮の経済は、二重構造を していると云います。

支配者(政府・金一族)の経済は、麻薬・偽札の製造、海外の 同胞からの送金、外国からの経済援助の流用などで賄われ、軍隊・役人の維持と、核・ミサイルの開発に向けられています。

一方国民経済は、統制経済の形を とっていますが、配給制も崩れているようで、専政国家の様相です。

◇ もし、何らかの事情で、金王朝のトップが亡命しなくてはならない状態になった時に、どんな事が想定できるでしょうか。

トップの亡命を受け入れて得な国は? と考えたとき、核とミサイルの技術が欲しい国は、多くあります。

そういった国々は、核とミサイルの技術を持った人材を一緒に受け入れるでしょう。

また、フィリピンのマルコス元大統領は、約1兆 2千億円もの財産を持っていたために、亡命できました。

◎ 古代は、このような亡命が繰り返されてきました。

・ 古代、百済には 大陸から進んだ技術が入り、技術者がおりました。 日本は半島の混乱で、百済の亡命者(支配層・技術者)を受け入れました。 (奈良時代の事です)
しかし、その時の事情は、百済の支配層の力が当時の日本のそれより強かったために、文化的には影響下に入りました。
政治的にも、百済の貴族は当時の役所へ入り重用されました。

・ 奈良の前は、伽耶諸国や新羅(倭の仲間)からの影響が強く、白鳳文化が花咲きました。 人材も多く入りました。 (飛鳥時代の事です)

・ そのほか、前高句麗や契丹等からの渡来者もいました。

古代国家のイメージが、出来たと思います。 国譲りの神話も、その他の神話も、言ってみれば同じような繰り返しです。

◎ ただ、日本の幕藩体制での、藩の経済は全く違い、運命共同体的な体制を作っており、近代国家への芽 が出来始めていました。 (江戸時代の事です)

◎ また 7世紀以降の律令体制は 亡命者の影響ではなく、白村江の戦いの勝者・唐の進駐軍が百済の軍隊を使って、日本を占領した結果です。 (藤原体制の事です。)
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by hansaki460 | 2009-09-21 10:18 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

『執念の女帝・持統』

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伊那谷では、天武天皇の時代に、大きな変化が あったことを 感じ取ることが 出来ます。
私は 感覚的には、天武が もう少し若く 長く天皇でいたなら、かなり違った国造りが 出来ていたと 思われます。

なぜ そう言うか というと、続く 女帝・持統天皇の施政について、違った見方を するように なったからです。

はじめの頃、私は 持統天皇の能力を 高く評価する 一般的な見方 を 取っておりましたが、どうしても 地方史から見た場合、天武と持統では、180度違っていますので、疑問が ついて まわっていました。

最近 いくつかの本を 読んでいるうちに、
「持統は 操られていて、取り巻きに 後の 藤原体制 を 作られてしまった、と言うのが 本当のところでは ないか?」 
と 思うようになりました。

その考えを、決定的にしたのは、関裕二氏の 『 執念の女帝・持統 』 という本です。

その後の 伊那谷は、律令体制の下に 組み敷かれて いきました。
ただ 救いは、やはり最近の本の中で、「近代国家は、律令体制を経て 出来上がって いった」、という ところを 読んだことでした。


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by hansaki460 | 2009-04-29 11:31 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

古代の地名 『 駒ヶ岳 』 の 由来


伊那谷から、木曽駒ヶ岳と甲斐駒ヶ岳が見えます。
駒ヶ根市は駒ヶ岳サミットを提唱した市です。
全国には、正式名称では16ケ所ですが、通称では大小いくつの駒ヶ岳があるのでしょうか?

駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川 以北にのみありますが、それには 大きな理由があります。


紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による高句麗という 国がありました。 日本語での古名は「こま国」です。 

混同されやすいですが、後高句麗(899年~918年)とは、違う国です。 
当然、高麗(こうらい)とも違います。 
高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。

古代、「こま国」からは、『弊賂弁島』『渡島』を経て、列島に多数の帰化人が入植しました。(下図を参照して下さい)

彼らが附けた山の名が、『駒ヶ岳』なのです。 後に彼らは大和朝廷に支配される側となりますが・・・。


日本海を見ると、ほぼ中央に 大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に『粛慎人が「佐渡嶋北」に住み着いた』とある、今は無き 『弊賂弁島』『渡島』です。

大和朝廷の官僚・貴族たちは、「倭人」を『弥次さん』と、「こま人」を『喜多(北)さん』と、または、『八つぁん、熊さん』とか『野次・馬』などと揶揄し、差別・卑下と懐柔策で 日本の国を支配してきました。
 (現在、言葉狩りで、マスコミもこの重大な事実を隠し通していますが・・)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は 朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の維持を図りました。

知らぬは『庶民』ばかり なのですね。

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     【 大和碓 】
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by hansaki460 | 2009-03-24 09:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

戸隠神社をご存じですか?

戸隠神社をご存じですか?

戸隠神社は、長野市にあり、祭神は 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)、その子・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)、同じく子・天表春命(あめのうわはるのみこと) ほかです。

「戸隠」の名が 歴史的な文献に 最初に登場するのは 平安時代です。
すなわち、南信州の 阿智神社から 移籍してから、というのが私の主張です。

しかし、地元や 学者の人たちは、戸隠神社は 神代の昔から戸隠にあった と、そう固く 信じているようです。

このことを 指摘する人は 他にいませんが、間違い ないと思います。


神社には、九州の 高千穂神楽も 残っておりますが、これも研究対象です。

私のテーマ・古代文字も 関係してきます。

ぜひ、どなたか反論を!  楽しみにしてます。

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by hansaki460 | 2009-03-11 08:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(1)

名字・苗字の多くが二字の理由

名字・苗字の多くが二字の理由

あるコミュニティ掲示板 に、

『 名字・苗字は、中国も朝鮮も 一文字が圧倒的に 多いが、日本では 圧倒的に 二文字です。 何故?』 

という 質問が あった。
実は、私のテーマの中の ヒントにも なっているので、早速 次のようにコメントした。



名字・苗字の多くが 二字の 理由。
『 和銅六年(713)に 諸国郡郷の 好字化の詔 があり、さらに神亀三年(726)に 国名の 嘉名二字化 の詔 があり、地名の 唐風嘉名化が 八世紀から九世紀にかけて 行われている。
叙位任官とは無縁な 一般民衆には 姓は不必要なものであり、後世の苗字化時代には 嘉名化した居住地名を 名乗ることになる。』
と あります。 この影響ではないでしょうか?

私は、地方史を調べてますが、古地名が これらの影響で、改名されており、記紀以前の地名と 合わないものが あります。

一説に、好字化は、大和朝廷のバックにいる 唐・高句麗系のGHQ・仏教勢力 の 占領政策だ という方もおります。




伊那と、諏訪の境 に ついても、美社神字録では、明確になって いますし、里(郡郷)も 明確です。
HPを 更新する際には、これらも わかりやすく 記載したいと 思っております。
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by hansaki460 | 2009-03-09 22:12 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

雑感

雑感

壬申の乱の頃、天武天皇の頃、やはり革命にも似た大きな変化が列島を襲ったに違いない。

ここ、信州・伊那谷も例外ではなかった。

阿智宮の移封、善光寺の移転。

諏訪大社の大きな変化もこの頃か?

天武・大海人は、阿海か? それとも大莫離支・蓋蘇文か?


ここのところで、いつもストップしてしまうが、昨日、
『 天武大王の皇位と 権威の確立の為に、天武大王直属の 修験 秘密警察が 誕生した事も 充分に考えられる。』
という、静岡の 未来狂冗談氏の見解が、面白かった。

しばらく 覇権の項は、読書と調べに 没頭か!
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by hansaki460 | 2009-02-23 18:01 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

伊那谷の覇権の推移[2] ”検討課題”

伊那谷の覇権の推移[2] ”検討課題”

大和朝廷の中で、伊那谷に大きな影響を及ぼした人物 といえば、天武天皇(大海人皇子)は その中の 筆頭では ないだろうか?

天武の時代に、阿智宮と善光寺が 伊那谷から 北信へ行ったが、当時 どんな要素が 生じたのであろうか?


天武天皇(大海人皇子)は 天皇号の創始者であり、天皇の 宗教的権威を 高めた人物で、伊勢神宮(天照大神)の祭祀を重視し、また広瀬・竜田祭を 国家事業として行った。
そして、斎宮を制度化したのも天武天皇である。

さて、それより 数百年前、崇神天皇は 宮疫病を鎮めるべく、従来 宮中に祀られていた その天照大神を、倭大国魂神と併せて 皇居の外に移し、豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(かさぬいむら)に 祀らせた。 これが斎王(斎宮)の始まりとされる。
笠縫邑とは、崇神天皇が 宮中に奉祀していた 天照大神を 移し、豊鍬入姫命に託して 祀らせた場所で、比定地については、檜原神社、多神社、笠山荒神社、多神社摂社の姫皇子神社、飛鳥坐神社、等々がある。

これらを見るに、天照大神を通して、神武天皇,崇神天皇,天武天皇に 伊那谷に共通する事柄が 浮かび上がる。

まず初めには、天照大神の義弟・吾道彦(天八意思兼命)が、信濃(阿智宮)に入っている。

次に、神武天皇の子・神八井耳命は 古事記編者・太安万侶の祖先であり、多氏一族の始祖であるが、多氏は 科野國造でもある。
そして崇神天皇が笠縫邑で 天照大神を祀ったという場所は また、多家所縁の地であり、現在 多神社がある。

天武天皇は、信濃に行宮を計画した。
そして、善光寺、戸隠神社、諏訪大社に大きな影響を与えたと思われる。

そして何より、三人の天皇は、天皇家草創の節目節目で、重要な地位を占めている。


天照大神と吾道彦(天八意思兼尊) : 神武天皇と神八井耳命 が、また 崇神天皇 : 天武天皇が オーバーラップするのは、私だけだろうか? 


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by hansaki460 | 2009-02-20 11:50 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

伊那谷の覇権の推移[1] ”はじめに:雑感”

伊那谷の覇権の推移[1] ”はじめに:雑感”

"古代の伊那谷の出来事”で、注目し分析すべきと思われる事柄

 天照大神・阿智彦の時代      紀元前 7~8世紀か?

 徐福列島に来る           紀元前 3世紀頃    倭の成立に影響?

 日本海~越~北信 高句麗人の渡来    2世紀      駒ヶ岳の命名?

 赤須彦の時代 ・・             3~4世紀か?  九州倭国の影響

 高句麗・新羅を征服した騎馬民族渡来   4世紀     東日本文化醸成される

 古墳の時代 鏡・馬具             5世紀~    壬申の乱への影響

 8つの伊那谷古墳群(前方後円墳)     6世紀~    地方豪族の体制化   

 阿智家・善光寺  →  戸隠・北信へ             天武の信濃行宮の影響

 藤原氏支配の時代                         比叡勢力を使った伊那谷の席捲


まだ、いろいろな要素があるかとは思うが、検討・分析していきたいと思います。

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by hansaki460 | 2009-02-18 10:44 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)