信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:地方史から見た覇権の姿( 18 )

銅戈・銅鐸の謎解き

古代文字で書かれた「ホツマツタヱ」から、銅戈・銅鐸の謎解きをします。


出雲圏内にあったと思われる銅鐸は、三世紀になると突然造られなくなり、近年には埋葬されたものが発掘されている。
その埋納時期は、紀元前後と二世紀頃に集中している。

銅鐸については諸説があり、例えば松本清張等は、平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られた、とする。

しかし、古史古伝から観ると、違った風景が見える。


     ◇


ホツマツタヱには、「ホツマツタヱを述ぶ」という前書きがあり、

初代天神国之常立は「トの教え【トホコ】」を説いた。
【ト】は「調の押手」といい、「経・法」の意味をさし、「調和/融和と秩序」の実現を象徴する。
【ホコ】は「逆矛」のことで「法と警察力」を指す。


…と云う。


さて、

『またも 宝の故は 調の道に 地 治むれど その中に 横転く者は 己が実に 合わねば道を に行く』23文

『オオヒコをして 越の治人 タケヌナガワを ホツマ治人 キビツヒコして 西南の治人 タニハチヌシを 丹波治人 教え 受けずば 綻ばせ  賜り 軍立ち』33文

矛の掟は 御恵みに 横曲(汚しま) 滅ぼす 端の抜き』ミ1文

『玉はタテ 貫は潤す 矛もタテ 横曲 滅ぼす 二柱 行き来 鳥居の 二神と 聞きて 各々 ヲシテ 染めけり』ミ3文



トとは「調の押手=爾・法」で、北九州にあった当時の中央政府は、銅戈をもってその象徴とした。

一方、「トのヲシテ」(爾・法)と共に伊弉諾,伊弉冉から天照大神が授けられた「ホコ=矛=逆矛」は、後にクシヒコ (大国主) に授けられた。
この「ホコ」はイサナミの『調の道に逆らう者を排除する「逆矛」』を表し、「隈の神」の意味でもある。

この「逆矛」こそが【 銅鐸 】が象徴する教え=神道なのだ。


例えば、ヤマトタケノ尊が東征した時の随伴者は、出雲の人間だ。

だから当時、北九州の中央政府と、出雲の警察力が力を合わせて列島の統一に力を合わせたことは想像できる。

ただし古史古伝では、本来 列島はまとまっていたが、やがて横曲(汚しま)がはびこる世とになったため、東征・西征を成した…と。

その後【銅戈】と【銅鐸】を収めた史実は、

『禊に民の調ひて イヤマト 徹る 葦引きの 千五百の生田の 瑞穂 成る マトの教えに かかんして のん アワ国は てん ヤマト』5文
『マトの教えは 昇る日の 本なる故に "日の本" や 然れど ヤマト な棄てそよ』23文


と、やがてヤマトと成るためのセレモニ-だったのだ。

そして清汚を鑑みる八咫鏡を加え三種の神器となし、ヤマト(大和)と成した。

だからヤマトとは、調和と秩序・大調和・円満・完成のことであり、日本の国なのだ。
もちろん「日の丸」もその象徴。


『やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 やまこもれる 倭しうるはし 』と、詠んだヤマトタケの時代の偉業は、史実からも裏付けされる。


また、柏手を四回打つ作法は、神道の流儀が別れたことにすぎないと思う。
宮中の神殿(三殿の内)には、出雲系も祀られていると云う。

銅戈が北九州~瀬戸内側に、銅鐸が出雲~近畿,東海にあるのは不思議なことではない。
学者らが、古代文字で書かれた記録を忌避しているかぎり、日本の歴史は外つ国からの賜物と、自虐史観が続くのではないだろうか?


参考サイトは、『ほつまつたゑ 解読ガイド』 です。


銅戈=爾、逆矛=銅鐸、という見解は、見かけません。
ただ、戦後の無神論の史観からは到底受け入れられないから、過去に主張した方もいたかもしれませんが、私が知る限り初めてだと思います。(^^
by hansaki460 | 2015-02-20 19:29 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

学術的?政治的? 1185年と1192年の鎌倉幕府(メモ)



鎌倉幕府は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権(幕府)で、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍に任官して始まったとされる。
…が近年、頼朝の権力・統治機構は、実質には1185年とする説が優勢だ。

その背景は、西国の朝廷に対して東国に事実上の国家を樹立したとする「東国国家論」にある。


一方、室町幕府の成立時期は、建武式目の建武3年(1336)と、尊氏が征夷大将軍に補任された暦応元年(1338)のいずれかだが、前者が有力である。…という。


江戸幕府は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である、とする。

いずれも、朝廷の令外官・征夷大将軍に任官されたものである。


では、明治新政府はどうであろうか。

◆明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)とするが、他に
・大政奉還上奏と勅許(慶応3年、1867年)
・廃藩置県の断行(明治 4年、1872年)等々、諸説ある。


その明治に生まれた日本国家は、大日本帝国憲法(明治憲法)「告文(こうもん)」にこうある。

「皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ
 惟神ノ宝祚ヲ承継シ
 旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ」

(私は、永遠に続く天地のような広大な計画に従い、
 神としての皇位を継承し、
 これまでの考えを守り、失うようなことはない。)

「惟フニ此レ皆皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ
 紹述スルニ外ナラス」

(考えてみれば、これは皆、皇祖・皇宗が子孫に残してくださった統治の模範を
 受け継いで行うことに他なりません。)

すなわち、神々の世から続く皇位を継承し、伝統を踏まえ、国家の基盤を強め、国民の幸せを守るために、憲法を制定することにした、と。


今の憲法はどうか。

◆ 日本国憲法は、(明治40年勅令第6号)の公式令によって『第三条 帝国憲法ノ改正ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス』と決められている事に基づき、天皇の名の下に公布された。


朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名 御璽
昭和二十一年十一月三日
内閣總理大臣兼 外務大臣  吉田茂
…以下略

だから、『神々の世から続く皇位』をもつ天皇が、日本国憲法を公布したという形式を備えている。


◆ では、『神々の世から続く皇位』とはなにか?

★国会における議論(第75 回国会・S50.3.18 衆議院・内閣委員会)

○上原康助君(社)
…旧憲法下における天皇制のあり方と日本国憲法になってからの天皇の地位の根本的な違いというのは……

○政府委員(角田礼次郎・内閣法制局第一部長) 
…旧憲法下における天皇は、さかのぼりますと、いわゆる神勅にさかのぼるわけでございますが、万世一系の天皇として初めからそういう地位を持っておられたということでございますけれども、……


◆主な学説は
…天皇の地位の根拠は「万世一系」(旧1 条)の皇統にあり、その根源は究極的には天孫降臨の神勅(日本書紀・古事記)にさかのぼるものである……とする。

また一時話題になった憲法学者・芦部信喜氏は、
…近代憲法を支えた古典的な立憲主義の思想は、社会国家・福祉国家の思想と両立し、民主主義とも密接に結合するとする。
その上で、日本国憲法制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いているが、「国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものである」とみるほかないとして、八月革命説を支持、その結果日本国憲法が制定されたとみる。
…という。


要は、日本国の正統性は、天皇の「万世一系」の皇統にあり、その根源は天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した天孫降臨の神勅(日本書紀・古事記)にさかのぼるものである。

……が、古史古伝によると、神話にしてしまった天照大神以前には、驚くべき歴史が語られている。

しかし、正統性には傷が付かないのだが・・・という話を、ほんとうはしたいのですが…。(日暮れて、道遠しです。)
.
by hansaki460 | 2015-01-24 10:43 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

継体天皇(ヲホド王)は 大臣(オトド)の君?

放射性物質拡散予報図はこちらです
http://taikiosen.blogspot.jp/
 


かなり話題になる天皇である。(^^

継体天皇(450-531?)は、日本の第26代天皇。諱は「ヲホド」という。

『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。

隅田八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある。


この諱、「ヲホド」を説明する説が今までにない。

まだ漢字が表意文字でしかなかった時代だから、やまと言葉を見ると、「オトド」という言葉が思いつく。

「男弟王」= オトド = 大臣の君 という。



『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。(Wikipedia)

この『群臣の要請に従って即位』とあることから、このことを持って大臣の君というのかもしれない。

すなわち、出自をいうのではなく、選出方法を形容したのかもしれない。



この仮説は、一部からバッシングを受けそうだが、やまと言葉から日本語になる経過の中で、十分検討に値するのではないだろうか?


          ◇


崇神天皇の時代、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

そこで疫病を鎮めるべく、それまで皇室の氏神として天皇以外の奉幣は禁止されていたが、天照大神と大和大国魂神を皇居の外に移した。

天照大御神は、それまで天皇と「同床共殿」であり、これが「古神道」であった。

天照大神と大和大国魂神を皇居の外に移したことは、新しい宗教の形に移行したということだった。

新しい宗教形態が名実共に完成するのが、天武天皇の時代である。
天武天皇の時代に斎宮が制度化され、天武の皇女である大伯皇女が初代とされる。

これが「神社神道」の完成だった。


          ◇


『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。

この特殊な即位事情を巡っては種々の議論や推測がある。
『記紀』の記述を尊重すれば、継体天皇を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。

しかし戦後に、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖」とする説などが提唱された。

このような事情から、継体天皇の出自が常に話題となる。


継体天皇から始まる系譜を「近江朝」と表現する。
崇神天皇からの時代を「崇神朝」という。

継体は「応神天皇5世の孫」であるとし、応神は崇神朝の天皇である。
だから、崇神-応神-継体は、「古神道」の改革を進めた後継者たちであり、神社神道を完成させたのが、近江朝最後の天皇、天武天皇だった。

そして、天武天皇は記紀を完成させ、何はともあれ万世一系の皇統を確立し、正史とした。


          ◇


「男弟王」= オトド = 大臣の君 という記述は、神代文字で書かれた古史古伝にあるが、記紀の完成後、各地に伝わる古史古伝は、勅(みことのり)によって、焚書されてしまった。


もしかしたら、焚書に会った古史古伝には、もっと意外なことが書かれていたのかもしれない。(^^



日本の言語学会は、漢字渡来以前に文字が存在しなかったとしているから、否定論に立つ学会の方針に逆らって研究する学者はいない。
また やまとことばの研究も進まない。

だから、上記の説はなかなか支持されない。(><;







by hansaki460 | 2014-04-16 20:49 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(1)

伊那谷の熊鰐氏

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伊那谷の熊鰐氏


卑弥呼の時代と思われる頃、熊鰐(わに) という 豪族が 北九州に居ました。

この事を先日、【伊那谷の 安曇族と 熊鰐と 塩竃神社】 と、このブログで書いたところ、ある方から貴重な情報を頂きました。

そこで再度、書かせていただきました。^^



ワニ氏とは 和邇 氏 とでも書くべきところ、熊鰐 の字を当てたということは、倭語で 本当は くまわに と呼んでいたのかもしれない。

熊鰐は、「日本書紀」 にみえる豪族で、筑紫の 岡県主の祖。

仲哀天皇 8年 天皇を周防の 沙麼にでむかえ、魚と塩をとる地域を献上、海路を案内した。
干潮のため 神功皇后の船が 洞海湾をすすめなくなったとき、おおくの 魚と鳥をあつめて 皇后の怒りをしずめた。

これについて、『神武天皇の兄達も 熊鰐一族で、岡田宮に居住していた。』 という説があります。
熊鰐と神武天皇 http://www.geocities.jp/oden1947/149-1.html


実は、伊那谷、大御食神社の 古代文字で書かれた社伝記にも、

『 ・・・中沢の 熊鰐(くまわに)に 山の 麁物和物(あらもの にぎもの)を菜らしめ・・・ 』

とあります。  史郎ホームページ



もし日本書紀の熊鰐社伝記の熊鰐 に 共通するものがあるとしたら 何だろうと、調べ始めました。

伊那谷には、他にも 九州の神様が多く祀られたり、壬申の乱での存在、また、馬肉を食べる習慣や、古墳から出る馬具が、九州の熊本と 酷似していることなど、興味深い事が多くあります。

つきましては、野鰐などについて、なにか情報ありましたら 教えていただけたら幸いです。
by hansaki460 | 2012-05-28 09:13 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

伊那谷の安曇族と熊鰐と塩竃神社

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伊那谷の安曇族と熊鰐と塩竃神社


伊那谷の、駒ヶ根市東伊那の塩田という集落に「塩竃神社」があります。
御祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、 底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神です。
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宮城県塩竈市にある鹽竈神社の御祭神は、塩土老翁神・武甕槌命・経津主神ですが、こちら伊那谷の塩竃神社の御祭神は、神話・伊弉諾から生まれた神々で、阿曇連(阿曇氏)の祖神の海神(わたのかみ)です。

・志賀海神社の御祭神は、「底津綿津見大神」「中津綿津見大神」「上津綿津見大神」(綿津見三神)代々阿曇氏が祭祀を司ります。
・また、住吉大神の御祭神は「底筒之男大神」「中筒之男大神」「上筒之男大神」(住吉三神)です。

すなわち、志賀神社と住吉大社の御祭神が祀られているのです。

なぜ伊那谷の山奥に、海にゆかりの塩竃神社があるのか?

実は、伊那谷の大御食神社の古代文字文字で書かれた社伝記に、こういうこういうことが書かれています。

『 またこれより すぐに中沢の【熊鰐(くまわに)】に山の麁物和物(あらもの にぎもの)を菜らしめ、川戸幸をして川の魚(まお)捕らしめ、また野彦には 野つ物を取らしめて、大御食 大御酒 種々(くさぐさ)物を御饗(みあえ)たてまつれり。』

ここから分かるように、伊那谷に【熊鰐氏】がいたのです。
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熊鰐氏は、「日本書紀」にみえる豪族で、筑紫の岡県主の祖。
仲哀天皇8年天皇を周防の沙麼にでむかえ、魚と塩をとる地域を献上、海路を案内しまた。
干潮のため神功皇后の船が洞海湾をすすめなくなったとき、おおくの魚と鳥をあつめて皇后の怒りをしずめた。

これについて、『神武天皇の兄達も熊鰐一族で、岡田宮に居住していた。』という説もあります。

穂高神社の主祭神・穂高見命は、「古事記」に、綿津見三神の化生を述べたあと、「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」とあります。

阿曇(安曇)氏の先達が、すでに1900年前、この地にいたという、有力な証明なのです。
by hansaki460 | 2012-03-21 07:36 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(1)

差別は、古代 渡来人が始めた政策

差別は、古代 渡来人が始めた政策

最近は かなり少なくなりましたが、部落差別が ありました。
いろいろ調べてみますと、部落解放同盟等、当事者の方たちは、かなり正確に、差別の歴史を 認識していることが 解ります。

しかし 以前、TV の 『 たかじんの そこまで言って委員会 』 で、この 部落問題を 取り上げたときの事です。

芦屋大学 客員教授・読売テレビ理事で、報道局解説委員長をしている あの 辛坊治郎氏が、出演していた ゲストに 「 差別は、江戸時代からでは ないんですか?」 と 真顔で聴きました。

ゲストは、当然のごとく 「 違います 」 と答えましたが、識者と分類される 辛坊治郎氏ですら、差別の歴史を 全く知らないのです。


日本へは、北・西・南から、多くの種族が 渡ってきています。
その中から 力の強い部族が、今の企業や、昔の武士たちのように 乗っ取り・吸収合併を 繰り返しながら、いわゆる 権力範囲を広げていきました。
それを 覇権と言いますが、覇権の移動が 日本の歴史なのです。

万世一系の天皇家は、その正統性を必要とした 渡来人によって作られ、守られてきたと、私は思っています。

そして、大陸系の覇者が、原住民系を 差別しました。
差別は、民の売買・職の限定・婚姻の制限・移動の制限 ・・・等々。
今まで 数多く 日記に書いてきました。
私は、主に ~7,8世紀までの 古代史を 調べています。 
すなわち、被差別以前の、純・原日本人の姿を 浮かび 上がらせ、再発見したいと・・・・。^^

文武天皇の701年、刑部親王や藤原不比等らによって、大宝律令が完成し 律令政治の仕組みが ほぼ整い、神祇官と太政官の 二官、その下に 八省が置かれ、かつ 民を、良と賎に 区別したことをもって、古代が終わった とする立場です。

8世紀以降は、大宝律令の 良賎制からの 解放の歴史が、もう一つの 日本の歴史 なのです。

なぜ今 このことを 取り上げるか というと、
7世紀の混乱が、今度は 合法的に 起こる可能性が 出てきています。

米韓連合軍の、アメリカの指揮権を、2015年末まで 延長した というニュースが あります。
大きな理由は、今後5年以内に 北朝鮮が 崩壊する可能性に 備えるため、のようです。
http://www.youtube.com/watch?v=hrJX7vwRn1Q&playnext_from=TL&videos=7Ybx0yD5OHU

7世紀、こんな事がありました。

663年 白村江で唐&新羅に敗れる
664年 唐使・郭務宗の到着

このとき、唐使の郭務宗は、日本へ、最初は兵2000人・軍夫4000人をつれて進駐してきました。
その後、記録によると667年に、吾にまた2000人の兵を送る、となっています。

百済の将校たちも 来たわけですから、おそらく 2万数千人の軍人・軍属たちが、日本の主権を 簒奪しました。
1945年の、マッカーサーのようですね。

来た 2万数千人は、すべてチョンガーですから、日本の女性に 子供を産ませました。 庶子が生じました。  そして、庶子は、男親の認知だけで、良賎体制に 組み入れられました。

日本の中に、今までと全く違う社会が形成され、それが外国の力を背景に、覇権を手中の納めて いきました。
(藤原の天下が、以後、千数百年続いたのです。)

今回、半島で、移民・難民が生じて、日本で受け入れた場合、そして、大量の帰化しない外国人(数十万人という 推定がある) が日本に来た場合、地方で 合法的に 覇権が移動する恐れが あります。

7世紀の混乱が、今度は 合法的に起こる可能性が 出てきます。

日本列島は、日本人のものだけではない??? ><

その意味で、私は 地方参政権の付与には、反対です。
帰化をして、国籍を取るべきです。
by hansaki460 | 2010-08-05 03:07 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(2)

伊那谷に 筑紫神社 があった!

伊那谷に 筑紫神社 があった!

先日飯田へ行ったときに少し時間があったので、泰阜(やすおか) 村へ行った。

泰阜村は山村の地形でありながら、高齢者には優しい村です。
そこで、じっくり様子を見ようと遠回りをした。
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        天龍川東から見た泰阜村
 
そしてナビに導かれて役場へ行く途中、『筑紫神社』と言う文字が目に飛び込んできた。

古代史への血が騒ぎ出し、車を止めて境内に入っていった。
祭神が書いてない。由緒も書いてない。

そこで近くで、作業をしていた方にいろいろ聞いてみた。
しかし何も知らないという。

仕方なく、役場へと向かった。
出てきた職員に早速 『筑紫神社』 の事を聞いてみた。
中年の神社のある部落の方を紹介して貰ったが、やはり何も知らないという。

ますます興味が湧いて、また神社へ戻った。
参道で掃除をしていた別の人に御祭神を聞いてみた。

やはり解らないという。
『神主に聞いても解らないし、はっきり言わないのだよ』との事だった。

その帰りに図書館へ廻り、史料を探した。
解ったことは、

筑紫神社 下伊那郡 泰阜村 字宮ノ後 3199
祭神 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
 相殿 誉別尊(ほんだわけのみこと)(八幡さま)
由緒 不明

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             筑紫神社

なぜ伊那谷の山中に『筑紫神社』があるのか?

高良大社・高良玉垂宮があります。
筑紫の国魂のおわす宮で、福岡県久留米市御井町にあります。

左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
右殿 住吉大神

筑後国一の宮とありました。
よく似ています。


高良玉垂命とは?

・「高良」とは「高麗(こうらい・こま)」と同義で高麗からの渡来人のもたらした神、という説。

・筑後を物部氏(天孫族) 起源とするなら、高良玉垂命はその氏神、と言う説。
 そして、高良玉垂命に比定される「天明玉命(玉祖神)= 天目一箇命(鉄鍛冶神で、天津彦根命の子神)」こそ物部氏族の遠祖神、という説。

・甲良(こうら) の大明神説。
 石清水八幡宮の摂社で、旧八幡町の氏神社。昔は「河原社」と称されていた、とか…。
 方生会の行われていた川のそばにあったから・・とあります。「かわら」…「かうら」…「こうら」と変化して「高良」の字をあてたのだと。
 貞観3(869) 年の行教夢記に「川原神」とみえ、「男山考古録」には「瓦社」と記されてもいるとも。


久留米市の 高良山の中腹に、高良山神社と呼ばる 1600年ほどの歴史と由緒ある高良大社がある。

高良大社は昔、高良玉垂(たまだれ) 宮と呼ばれ、高良玉垂命 を祀っていたというが、高良玉垂命は 日本書紀にも古事記にも記録されてなく、11世紀の 「日本紀略」 の西暦795年の条に記されるまで不明であった。
大和朝廷にとって不都合な神様だったのだろう。

大和朝廷が西日本を統治始めたのは528年の磐井の乱の後からである。
西暦795年ごろから天皇家所縁の神社としたことが 「日本紀略」 に記されているから、豪族・磐井の 筑紫国の守護神社であったと思われる高良玉垂宮を、大和朝廷が認めた神社として九州一の宮に格上げしたことは十分に考えられる。

磐井もまた、以前から土地の守護神であった神社を勝手に代えることなく、統治者となったあとも邪馬台国時代から続いた神社を引き継いだであろうことは想像に難くない。

しかし、磐井が中国・呉国の流れを汲む狗奴国の人間としたら、大和朝廷は高良玉垂命の存在を認めることはできないだろう。
これが日本書紀や古事記から高良玉垂命が抹消された理由かも。

今後の研究課題です・・・。^^
by hansaki460 | 2010-04-12 09:46 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》 

真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》 

御柱祭が始まりました。
伊那谷の多くの諏訪社でも、御柱祭が行われます。
諏訪社は建御名方命(たけみなかたのみこと)をお奉りします。

建御名方神の出自については、記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。
妻は八坂刀売神とされている。 (Wikipedia)

そして、諏訪へは北から入ったと云われます。

◎ しかし・・・古代文字で書かれた伊那谷の大御食(おおみけ)神社の社伝記には、こう書かれています。

『御渡りの神は建御名方神なり。 
 御国巡りの時 「奇(き)しび 杉なり」 と 詔らせ給いて愛で 給いし故に、
 国人の斎(い)き奉れるなり。 
 天津御許の神故に 斎き奉れるなり。』

すなわち、建御名方神は、「天津御許(あまつみもと)の神」である、と書かれています。


高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主の子を、伊那谷にいた高皇産霊神ファミリーは同族と見なしていています。現代では出雲系は国津神とされていますが、古代は天津神系という認識でした。

また、伊那谷の大鹿(おおしか)村鹿塩(かしお) には、もともと諏訪本社大明神と呼ばれた、葦原(あしはら)神社が在ります。
すなわち 建御名方神は、大鹿村の鹿塩から諏訪へ行ったと云うのです。

また、大鹿村 鹿塩の塩泉は、建御名方神が鹿狩りをしていて発見したという伝説や、諏訪大社の御頭祭での席順は、鹿塩が最上位の席という事実が あります。

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それに隣の豊丘村には、御手形神社(佐原諏訪神社)があり、社伝には こうあります。 

太古 御国譲りの際 建御名方命と武甕槌命(たけみかずちのみこと)と 力競(国譲りの争)の事があり、建御名方命は 遠く この地まで逃れ来り、これを追い来った武甕槌命に対し 国を譲り、その誓いの印として、傍らの石に 互いに手形を残されたと伝え、この石を 御手形石と称え、この付近の地名を 追の久保と言う。

もちろん御祭神は、建御名方神 と 武甕槌神 です。
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以上のことから、建御名方神は伊那谷を 北上しました。
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また、上社神職の「神長官」守矢家では、八華形の御鏡を用いて神事を行いましたが、八華形(やつはながた)の御鏡は、古代から天思兼尊系の神社に伝わっていました。

  ◇ これだから、古代史の探求は 止められません。(^^  ◇
by hansaki460 | 2010-04-02 19:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

身近にある『古代史の真実』 (「ほつまつたゑ」の伝える史実)

身近にある 『 古代史の真実 』 
        「ほつまつたゑ」 の伝える 史実

秀真伝(ホツマツタエ) 』 と言う 古史古伝書 が あります。
「 ホツマ文字 」 とか 「 ヲシテ 」 と呼ばれる 古代文字で書かれています。
学会における 定説は、神代文字の一種により 記述されている文書 ということで、偽書である と されています。
しかし、郷土に伝承する史跡 の 多くは、こうした 偽書とされる 『 古伝書 』 に その由来が 書かれているのです。

◎ 私の ライフワークの、
天八意思兼命 (あめの やごころ おもいかねの みこと)」
は、記紀によると、天照大神が岩戸隠れの際、集まった八百万の神に アマテラスを岩戸の外に出すための知恵を授け、また葦原中国平定では、葦原中国に派遣する神の選定を行いました。
その後、天孫降臨では、尊は瓊々杵尊(ににぎのみこと)に随伴しました。

◎ 前述の 『ほつまつたゑ』 は、思兼命の生涯を詳しく記しています。
例えば、滋賀県の 『伊勢遺跡 』 は、弥生時代後期中頃から急激に発達した大規模集落 ですが、『 ほつまつたゑ 』には、
「 和歌姫・思兼尊夫妻が結婚後に、野洲川べりに移り住んで宮を構えて、日嗣(ひつぎ)の皇子 忍穂耳尊(シホミミ)の御子守をした 」
と伝承されています。
そして 「尊の死後、信濃の伊那洞 に埋葬された 」と、書かれています。

◇ ほつまつたえ 天の巻10 ・http://gejirin.com/hotuma10.html
【 ・・・・・   サキニミコモリ ( ・・・・   先に御子守 ) 】
【 オモイカネ シナノイナホラ  ( 思兼  シナの伊那洞 ) 】
【 アチノカミ  ・・・・・・・   ( アチの神   ・・・・   ) 】

《 訳 》 ・http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya10.html
 思兼命は、妻シタテル姫(アマテル神の姉)と共に、ヤスカワ宮(野洲川、滋賀県)で 東宮(皇太子)であるオシホミミの御皇子守(ミコモリ)役をしていましたが、死後 アチノ神(阿智神社、阿智村)の神名を送られて、信濃のイナホラ(伊那洞)に葬られ神上がりました。
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                                 《 伊那洞の位置 》

◇ では、その現地・伊那洞では、どう伝わっているのでしょうか?

 現地の案内板には、
 『 式内 阿智神社 元宮の磐座(いわくら) 
  磐座のあるこの小山は、昔から『 河合の陵 (みささぎ) 』と呼ばれる。
  ・・・ この巨石が、社殿の発達する以前、阿智族の守護神であり、祖先神である
  八意思兼神、その御児 天表春神の二神の神霊を迎えて祭りが営まれた
  式内 阿智神社の元宮である。  ・・・・ 以下略  』
 とあります。

事実は 『ほつまつたゑ』 に記されている通りの史跡となっているのです。
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                  《 伊那洞にある、思兼尊の墓 》

◎ また例えば、神代文字で書かれた社伝記が伝わる、美女ヶ森の『大御食神社
  でも、神代文字を『偽物』扱いをしているのに、唯一残る、古代文字で書かれたこの
  社伝記の内容を拠り所に、神社を奉っています。
  全国の多くの史跡や神社は、こうした矛盾と偏見の中で伝承されています。

◇ この 原因は、
 ① 記紀の成立以後、大和朝廷の史観に合わせさせられた。
 ② 江戸から明治に、国学によって歴史の内容が、かなり矮小化されてしまった。
 ③ 戦後、皇国史観という名の元に、古代史が抹殺されてしまった。
 等々によると思われます。

ですから、偽書とされている古史古伝の中に、真実は隠されています。
by hansaki460 | 2010-03-16 12:15 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)

『 百済 』 の 姿

『 百済 』 の 姿
◎ 半島南部、前三世紀~前二世紀に、辰国(しんこく) がありました。
元は、中国の東北地区(旧満州)北部の 松花江流域の扶余系の騎馬民族で、南下して一部が 前高句麗となり、一部は 「夫余」 の姓を名乗りながら 朝鮮半島南部に 「辰国」 を建てたとされ、鉄器時代国家で、細型銅剣文化を有する農耕社会だったと推測され、その一部は 『百済』 となりました。

◎ 歴史の記録上の百済は、346年・近肖古王即位から、660年の唐・新羅連合軍に百済が滅ぼされ、663年に倭国の百済救援軍が 白村江で唐軍に大敗するまでとされています。

『史記』 『漢書』 『資治通鑑』 『三国志』 『後漢書』 では、辰韓、馬韓、弁韓の三国の起源が 「辰国」 にあるとしています。               (図は5世紀末の半島)
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◎ 騎馬民族征服王朝説では、辰国の王は 扶余族の系統であり、その末裔の一部が日本の皇室の祖であるとしています。

◇ 私見ですが、崇神朝が それにあたるのでは? と思います。
その後景行天皇と、南系原住民の豪族の妃との子・倭武尊は大国主、出雲族等と日本の統一に奔走しました。
天照大神の弟・素戔男が半島へ行ったのは史実だと思うし、その時代は国という観念ではなく、部族 という 共同体であったと思います。

◇ その頃は、朝鮮半島南部にも 「前方後円墳」 が分布し、九州北部にも 「朝鮮式山城」 が 分布しました。
つまり 朝鮮半島南部と 九州北部で一体の 文化圏でした。
その中に百済があり 任那(伽耶)があり 耽羅があり 末羅があり 伊都があり 狗奴があり その他もろもろが あった。
主導権争いを 繰り返しつつ、唐の遠征による百済の滅亡で、文化圏の境界は半島の南岸 以南へ後退した。
・・・・という時代でした。

以前からこの地域へは、南方からも 多くの部族が 入っており、倭グループを構成していました。

◇ なお、天皇陛下のゆかり発言で有名になった 桓武天皇(781-806)の母親の高野朝臣新笠は、10代前に渡来した25代百済王(501-523)の子孫で、五世が日本に帰化した 百済系の 十世でした。
こう見たとき、七世紀以前の百済に 強く郷愁を感じる、今の韓国の人たちの心情が奈辺にあるか、知りたいところです。

◎ 百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む 数千の百済人が倭国に亡命し 一部が朝廷に仕えました。
豊璋(*)の弟・善光(または禅広)の子孫は 朝廷から 百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済王氏は 8世紀に敬福(きょうふく)が黄金を発見し 東大寺大仏造立に貢献するなど 日本の貴族として活躍しました。

(*)前に書いた 『多神社』は、豊璋と深い関係があり、宮中に奉祀していた天照大神を一時的に祀った最初の場所という伝承を持つ場所です。http://utukusinom.exblog.jp/10416361/
by hansaki460 | 2009-09-22 05:18 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)