信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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まぼろしの
吾道之宮


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カテゴリ:幻の吾道之宮( 6 )

霊宗道の神髄「日抱きの御魂鎮め」

今話題の「あじまりかん」は「吾道(思兼尊) の円鏡(まるかかみ)」のことであり、霊宗道の物実(ものざね) です。

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霊宗道の神髄「日抱きの御魂鎮め」
 霊宗道【鎮魂帰神法】の変遷

飛騨地方に30以上あったという日抱宮には、最近まで「日抱きの御魂鎮め」が伝わっていたという。「日抱きの御魂鎮め」は、先祖の亡骸を埋めた傍に池を造りその池を囲んで心を静めた。

一方、宮中には「祝(はふり) の神事」がある。いや、あったと云うべきか。 
明治維新に葬り去られてしまつたが、「祝(はふり) の神事」もまた、取次者が輪に成つて行たようだ。

古くは、天皇は「祝の神事」を修め「神拝の式」を執り行った。 
「神拝の式」は、神武の御代に天児屋命の孫の天種子命によつて確立され、用明 二年(587) まで継承されたが、蘇我馬子の陰謀により物部守屋とともに宮中から神事が途絶えた。

先代旧事本紀 巻第三 天神本紀 によると、
天照太神は・・・天児屋命と天太玉命に仰せられた。
「お前たち二神は、共に同じ建物の中に侍って、よくお守りの役をせよ」
「この鏡は、ひたすらに私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祀りしなさい。そして、思金神は私の祭りに関することをとり扱って、政事を行いなさい」
…とあることから「祝の神事」は、天児屋命-中臣-藤原・・白川伯王家へと伝えられたのだろう。

「日抱きの御魂鎮め」は途中、出雲神道を濃厚に受け継いだが、思金神の伝える霊宗道が、「祝の神事」であっただろうと推測される。

「日抱きの御魂鎮め」の池は、やがて鏡に代わり「祝の神事」となって受け継がれているのではあるまいか。

それゆえ、古来の御魂鎮めの修法とは…
池を囲んで、池に太陽の光、月の光を浮かべてその光をジ-ッとみつめながら心から感謝をして先祖を拝み、心を静めたという「日抱きの御魂鎮め」そのものである、と思う。

弘法大師空海は、月輪観(がちりんかん) ・日輪観(にちちりんかん) を「阿字観(あじかん)」と言った。

私の師匠は、「水に写した月を思い浮かべて、澄きった月が見えるようになるまで心を静めなさい」との瞑想法を教えた。

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【参考:霊宗道とは…】

三部神道と申すは、
一には宗源道、是は天物染命(アマツコヤネノミコト) を元祖とす。
二には斎元道、是は天太玉命を元祖とす。
三には霊宗道。是は正く此大神八意命是なり。
宗源は理極、斎元は事極、霊宗は合道、心法の極と申して、開天の間天神七代の旨を説を宗源とし、盛天の時、地神五代の道を説を斎元とし、喪天の世、人皇万代の理を教を霊宗とす。
次第を云えば、宗源、斎元、霊宗と云えども実は霊宗を以て本とす。此の霊宗の道を明め知らざれば、宗源、斎元共に我手に入らず。此霊宗は心学にして、天照太神の教え、神道修行の事を司り、凡夫を導て神仙に成らしむる道なり。是故に此「吾道の大神=思兼命」は八百万神の中には第一の智神、功神、仰ぎ崇むべきの社なり。

by hansaki460 | 2017-11-03 14:11 | 幻の吾道之宮 | Comments(0)

「吾道家」の役割とその由来 及び、「思兼尊之霊句四七言」の持つ意味。

「吾道家」の役割とその由来 及び、「思兼尊之霊句四七言」の持つ意味。
先代旧事記 巻三 天神本紀.

・思兼命之霊句四十七言
・忌部宿禰傳、齋部家極秘神名(カムナ)
・天児屋根命作、宗源道極秘神名(カムナ)
 出典:神字日文傳
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【 思兼命之霊句 四十七言 】
( フォント:阿比留草文字 史郎体 A )
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天地暮れば 兼(思兼命)の 思いの丈にまかせよ 
思兼命が降りて、さきざきのことを
その意味(しるべ)が分からずとも、この祝詞を唱えておれば、導いてくれるのだ
ひ ふ み よ い む な や こ と




先代旧事本紀 巻第三 天神本紀 によると、
天思兼命は天照大神から「御前(天照大神) のまつりごとを為せ」との神勅を受けた。

また、先代旧事本紀大成経四十 経教本紀によると、
「天太玉命」は「斎元道」を、
「天児屋命」は「宗源道」を、
「天思兼命」は「霊宗道」を、それぞれ開き 継いだ。
これを、【三部神道】と申す。

すなわち、
忌部(天太玉命)は 祭式を、中臣(天児屋命)は 祝詞と教義を、阿智(天思兼命)は 霊性開発(鎮魂帰神)を分担します。




by hansaki460 | 2017-06-25 05:52 | 幻の吾道之宮 | Comments(0)

まぼろしの吾道家 (2)

吾道家が伝えてきた【 霊宗道 】とは?

大御食神社の社伝記の記述の最後は村上天皇・天暦五年(951) 、阿智神社の社家が戸隠に移遷したのも同じ時期である。このことは、国の覇権が藤原氏のものとなっていったことに深く関わる。

■ 藤原氏の支配

伝教大師(最澄) が神坂峠を越えて信濃に入ったのは、弘仁8年(817)。そして広拯院(布施屋) を建てた。(叡山大師伝)  その後伊那谷には天台(比叡山) の寺が次々と建てられていった。

長岳寺が 弘仁年間(810~824) に、仲仙寺は 弘仁七年(816)に、光前寺が 貞観二年(860) に、そして瑠璃寺が 天永三年(1112) に、それぞれ創建され併せて荘園が設けられた。藤原氏は天台の仏教により伊那谷を支配していったのだ。

『今昔物語集』の「信濃守藤原陳忠落入御坂語」に、藤原氏一族の強欲ぶりが揶揄されている。
受領の信濃守藤原陳忠は、赴任の帰途の御坂峠で馬ごと谷に落ちたので 従者が谷を覗き込むと 篭を降ろせと声をかけてきた。言われるとおりに篭を降ろして引き上げると 本人ではなく平茸が篭に積まれていた。従者が呆れていると「受領は倒るるところに土をつかめというではないか」と言い放った。
・・・という。これは、当時の受領の有り様を物語る逸話だ。

■ 阿智神社神官の戸隠移遷

藤原氏が伊那谷を席巻し始めた頃の 文徳斉衡三年(856)、吾道之祝となった千幡彦のあとがなく、十世紀村上天皇の御代千幡彦の裔は 戸隠神社へ移ってしまう。

その後 十四世紀になり、別裔(大御食神社社家) の「常方」が阿智祝部を継ぎ、同時に大御食神社に於いて吾道家を継いだと思われるが、おそらくこれ以降、東嶺円慈和尚が探し当てるまでの間、阿智には吾道家の姿かたちはなかったであろうと思われる。それ故に吾道家は存続して来られたのかも知れない。

■ 吾道宮縁由
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それでは何故に吾道家は抹殺されたのか?

・『先代旧事本紀大成経』鷦鷯伝 巻十五 神皇本紀 上巻下 に こうある。
宗源(かんつもと) は正(まさごと) の至(きわま) り、斉元(かんついみ) は淳(きよき) の至(きわま) り、霊宗(かんつむね) は誠(まこと) の至(きわま) りにして三伝は総て敬(けだか) し。

・また『先代旧事本紀大成経』 七十四巻の天神本紀(九・十巻)には、
霊宗の天心、三神・三部の伝 (即ち是、天思兼命は 霊宗伝、天物梁命は 宗源伝、天太玉命は 斉元伝なり) 、天孫(亜肖気[ににぎの] 神を称す) 降臨し、日祚(あまつひつぎ) 璽(かんみしるし) を授け、元武神 (武霊雷神[たけみかづちのかみ] ・振威主神[ふつぬしのかみ]) は 祇(くにつかみ) を降し、祇は天(あまつかみ) に伏するの由を明かす。(『神代皇代大成経序』)

・霊宗道(かんつむねのみち) と云うは鎮魂の教えであり、これを伝えてきたのが吾道家だった。
阿智神社に所蔵される、伊豆竜沢寺東嶺和尚著の『吾道宮縁由』は、「本縁」「神書考」「引証」の三部からなり、霊宗道のことが記されている。

三部神道と申すは、
一には宗源道、是は 天物染命(アマツコヤネノミコト) を先祖とする。
二には斎元道、是は 天太玉命 を先祖とする。
三には霊宗道。是は正しく此大神 八意命 是である。
宗源は理りを極め、斎元は事を極め、霊宗は合道、心法ノ極と言って、開天ノ間天神七代ノ旨を説を宗源とし、盛天の時、地神五代の道を説の斎元とし、喪天の世、人皇万代の理を教 を霊宗とする。
次第を言えば、宗源、斎元、霊宗と言っても実は霊宗をもって真実とする。此の霊宗の道を明るめ、知らされれば、宗源、斎元、共に我手に入ら ない。此霊宗は心学にして、天照太神の教え、神道修行の事を司り、凡夫を導て神仙に成れる道である。そのため、此吾道の大神は八百万神の中には第一の智 神、功神、仰き崇むべきの神社である。

このように吾道宮縁由「本縁」では、思兼命を元祖とする 心学(鎮魂) すなわち「霊宗道」の教理を謳い挙げている。

■ 吾道家と伯家神道

Wikipedia によると 伯家神道は、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家によって受け継がれた神道の一流派で、神祇伯には 当初 大中臣氏が、後に藤原氏や源氏など 他の氏族も任じられるようになった。…とある。

古代の神祇伯は、大中臣氏、忌部氏、橘氏が主流であったが、花山天皇の子孫の顕広王が永万元年(1165) に神祇伯に任ぜられて以降、神祇伯を世襲してきた白川家は、吾道家の「霊宗道」の鎮魂の教義を簒奪したのではないのか?

だから18世紀に白川家八神殿の再興以降、吉田家の八神殿代が勅使発遣の祭場として用いられたのに対して、白川家の八神殿代は宮内省代として鎮魂祭の祭場とされたのである。
つまるところ、霊宗道(かんつむねのみち) =鎮魂、禊ぎの教を正統に伝えてきた吾道家の存在は、不都合だったのではないだろか?

伯家神道は、幕末から明治時代にかけて勃興した教派神道(神道系新宗教) 各派にも絶大な影響を及ぼした。幕末には、後の禊教の教祖である井上正鐡 や金光教 の教祖となった川手文治郎らが入門し、また伯家神道の影響を色濃く受けていた本田親徳の説く行法が、大本教の教祖として絶大なカリスマ性を発揮した出口王仁三郎の霊性の覚醒に一役買ったこともよく知られている。

ことほど左様に、伯家神道には絶大な影響力(実力) があったことは、霊宗道の霊宗道たる由縁だからではないかと推察する。
しかし現在、吾道家が存在した赤須の里にはその影もなく、まぼろしと化してしまった。

加えて、日本で一番古い家系である小町谷家は、今になって大御食神社の総代らによってこの地を追われたことは、歴史を知るものにとって痛恨の極みである。

つづく

by hansaki460 | 2017-05-28 09:27 | 幻の吾道之宮 | Comments(0)

まぼろしの吾道家

吾道家(小町谷神官家) 炎上

「赤須上穂舊記録鈔」によると、天明二年(1782) 八月 赤須村美女ヶ森小町谷神官の屋敷火災にて焼失し、11棟あった家屋が焼失し、全ての文書宝物が失われた。辛うじて神代文字で書かれた年代記(社伝記)の写しが難を逃れ、今に伝わる。

実はこの火災の起きた前年の 天明元年(1781) に、白隠慧鶴の高弟で 伊豆三島の龍沢寺創建をなした 東嶺円慈和尚は、30年間探し求めた阿智神社を見つけて「神供霊祭」を執り行っていたのだ。

この「神供霊祭」を執り行ったことにより、今まで歴史に翻弄され 隠れるように過ごしてきた吾道家が 権力側に知られるところとなり、吾道家の存在が不都合な勢力に消されてしまったのだった。

じつは東嶺円慈和尚が阿智神社を探していた経緯には、次のような大きな理由があった。

先代旧事本紀大成経事件

延宝7年(1679)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本) と呼ばれる書物が発見された。
その中身は「伊雑宮が日神を祀る社であり、内宮・外宮は星神・月神を祀るものである」というものであり、内宮・外宮の神職は幕府に詮議を求めた。

幕府は、天和元年(1681) に大成経を偽書と断定。版元「戸嶋惣兵衛」、出版を持ちかけた神道家・永野采女と僧・潮音道海、それに偽作をしたとし伊雑宮の神職らを処罰した。

伊雑宮事件

この事件に先立つ 20年前『伊雑宮事件』が起きていた。
伊雑宮の神職たちは「内宮、外宮は 伊雑宮の分家である」と「伊勢三宮説」をと主張した。

万治元年(1658) 内宮は、伊雑宮の主張を偽作と訴え、結局 朝廷は「伊雑宮は内宮の別宮で、祭神は 伊射波登美命」と裁定した。その結果、幕府は伊雑宮を内宮別宮の一つとして再建した。

しかし、納得できない 伊雑宮の神職たちは、四代将軍・家綱に直訴したが、寛文三年(1663)、神官四十七人が追放された。

東嶺和尚の執念

大成経事件をうけたあと、潮音道海(1628-1695) の伝承者として、白隠慧鶴(1686-1769) の高弟で、伊豆三島の 龍沢寺創建をなした「東嶺円慈和尚」(1721-1792) は、『先代旧事本紀大成経』に記されている 古代六家筆頭の「吾道家」を探した。そして天明元年(1781) 、30年間探し求めた信濃国阿智の地を発見し、そこで「神供霊祭」を行ったのだった。

大成経研究 潮音道海の伝承者であった 東嶺円慈和尚は、その時の気持ちを漢詩に詠んでいる。

人道変遷神道常 (人道は変遷すれども神道は常なり)
霊珠真鏡豈無光 (霊珠真鏡豈に光無しや)
我雖下世一丁禿 (我れ外世(げしょう) の一丁禿(ていとく)なりと雖も)
曽憶上天八意王 (曽て上天(しょうてん) の八意王(やごころのきみ) を憶う)

従嗣神孫已十年 (神孫を嗣ぎしより已に十年)
今晨且喜拝宮前 (今晨(こんしん) 且喜(しゃっき) すらくは宮前に拝することを)
無私天鑑避無処 (無私の天鑑避くるに処なし)
水緑山青吾道顔 (水緑にして山青し吾道の顔(かんばせ))

しかしその時、東嶺円慈和尚が 30年もの年月をかけようやく探し当てたとする吾道家は阿智の地では無く、遠い大御食神社の社家としてひっそりと存続していたが、知るよしもなかった。
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この「神供霊祭」を執り行った翌年の天明二年(1782) 八月、赤須村 美女ヶ森 小町谷神官の屋敷は 火災にて焼失し、11棟あった家屋が全て焼失してしまい、全ての文書宝物が失われてしまった。

この時 古代六家筆頭の「吾道家」は、まぼろしと化してしまったのだった。

これは、三部神道のひとつ、「霊宗道」を伝えてきた吾道家 抹殺の事件であったのだろうと思われる。

つづく

by hansaki460 | 2017-05-27 17:43 | 幻の吾道之宮 | Comments(0)

三部五鎮の霊宗道の「降霊際」

信濃国阿智村の阿智神社奥宮で、先日「降霊際」が行われました。

阿智神社は、思兼尊が神上がった「辞な洞」で、磐座があるところです。

さて、先代旧事本紀大成経には「五鎮三部」の神道なるものが説かれています。

三部の神道とは、宗源(カンツモト)・斉元(カンツイミ)・霊宗(カンツムネ)の三部五鎮の神道のことをいい、
宗源=神道神学と祝詞を意味し、(天児屋根命)
斎元=祭事の要領(ヌサなどの祓い具による祓い)を、(天太玉命)  
霊宗=霊覚を開き、神々と感応する方法を教える、(天思兼命=吾道家)  
とします。

このうち、霊宗(カンツムネ) は、天思兼命(吾道家) が伝えてきたと思われますが、吾道家のある伊那の地は、やがて藤原(中臣) が 天台の寺を隅々まで布陣し、その勢力と権力で吾道宮は消滅し、霊宗は簒奪されてしまったと思われます。
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ところで先日行われた「降霊際」は、本来誰もいない神殿で神職だけがする行法・祭祀ですが、近年の諸事情で「祀り」を「祭り」としたようです。

阿知女作法という神楽を舞う神事があります、
このアチメの神事は、原初(ア) の霊(チ) が芽吹いてくる(メ) さまを再現する神事であり、サルメが 神がかり状態になって踊り、神託を伝える行事です。

その中では、アチメが桶の上で 榊の杖を突くごとに、神官がヒフミを唱え、五色のひもを結ぶという所作が、宮中の神事にはあるとのことです。

これらの、いわば「秘伝三部の神道」の霊宗(カンツムネ) を伝えてきた吾道家は、「阿智神社」を三〇年間探し求めた東嶺和尚らが、天明元年(1781) に神供霊祭を行ったが故にその存在が世に知られるところなり、間もなく大御食神社に十一棟あった「吾道宮(神官の邸宅)」が焼失し、ついに吾道宮は滅亡しました。

しかしここに形だけではありますが復活したことは、今後の励みになります。
by hansaki460 | 2016-07-20 18:56 | 幻の吾道之宮 | Comments(0)

幻の『吾道之宮』


古代六家「吾道(あち)・物部・忌部・占部・出雲・三輪」の筆頭『吾道家』は、「八意思兼尊(やこころおもいかねのみこと:阿智彦)」を祖とし、天照大神の時代から続いていた。


六世紀、推古天皇の命を受けた聖徳太子と蘇我馬子が著した『先代旧事本紀』の編纂時には、吾道家家蔵の記録を提出した。


文徳斉衡三年(856)、吾道之祝となった千幡彦のあとがなく、十世紀村上天皇の御代千幡彦の裔は 戸隠神社へ移ってしまう。


十四世紀、別裔(大御食神社社家) の「常方」が 阿智祝部に就き、吾道家を継いだ。


天明元年(1781)幕府から偽書とされた『旧事大成経』に基づく神供霊祭を東嶺円慈和尚の縁により修めた。


しかし翌天明二年(1782) 十一棟あった大御食神社神官の邸宅が焼失してしまった。


歴史から吾道家が消された瞬間でした。
by hansaki460 | 2016-01-07 07:46 | 幻の吾道之宮 | Comments(1)