信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:大御食神社社伝記( 7 )

大御食神社「昔時年代記・社伝記」を読む


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by hansaki460 | 2017-06-21 05:55 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

大御食神社、創祀年度 考

大御食神社の創祀年度は、神社明細帳では 五十八年、社伝記では 四十八年とある。

明治十二年の 神社明細帳にある「大御食神社・由緒」には、神社の創祀年度が、景行天皇五十八年とある。

一方、その根拠となる 神代文字・阿比留草文字で書かれた「昔時年代記・社伝記」には、景行天皇四十八年とある。

【明治十二年 神社明細帳】
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【解読及び神社明細帳との比較】
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「よ」の字は、「や」とも読めるが、おそらく写し間違いであろう。

大御食神社の 正しい創祀年度は、景行天皇 四十八年・西暦118年である。


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by hansaki460 | 2017-06-18 12:33 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

阿比留草文字で書かれた「大御食神社社伝記」を読む【01】

大御食神社社伝記【01】

【 纏向の日代ノ宮に 天下 治ろしめし給ひし、大足彦忍代別ノ天皇の御代、日本武尊 東の蝦夷ら征平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。】

日本武尊がこの地に来た年は、大足彦忍代別ノ天皇の御代、とだけあり、年数は書いてない。明治十二年内務省達による神社明細帳には「景行天皇四十一年、日本武尊東夷を征和して、帰路を信濃に取りて、赤須の里に至り、云々」とある。

日本書紀では、「日本書紀 卷第七 四十年夏六月東夷多叛辺境騒動・日本武尊出動 冬十月壬子朔癸丑 日本武尊発路之(冬十月二日、日本武尊は出発された)」とあり、また東征の途中に冬の記述がないことなどから到着時期は「景行天皇四十一年」であろうと推定される。

纏向(まきむく) の日代(ひしろ) の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」,「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか? 同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。(播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。
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Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ) にあった筑紫の大宰 (つくしのだざいという役所) を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃) は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713) で、日本書紀の完成が養老4年(720) 。
倉野憲司や井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。
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by hansaki460 | 2016-08-28 21:03 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

『 古代の祭祀 』

応神天皇39年(308) の記録から、合祀の様子を読む。

神社祭祀規定によると、「合祀祭」は「大祭とする」とある。
いわゆる重要なお祭りと言うことだが、大御食神社の社伝記に、応神天皇39年(308)、宮簀姫をお迎えしたときの記録が遺されている。


 -略-
軽島の明宮に坐まし給ひし ホムダワケノミカド(応神天皇) の御代 三十八年(みそじあまりやとせ)
 -略-
秋 文月(ふつき) 二十二日(はつかまりふたひ) と云う日、尾張ノ国 熱田ノ宮より 草薙ノ御剱(みつるぎ) の御霊代(みたましろ)、またうつくしの杜に坐す 宮簀姫 またの御名は 厳郎姫(いついらつひめ) を迎え奉りて、所の名を「うつくしのもり」と み名 おはせ奉る。

熱田ノ宮より迎え奉る その装は、いかし縦鉾、日の御旗、月の御旗、覆衾、御榊にゆふ取り垂て 迎え奉れり。

また、先のためしの随に、御黒酒 御白酒 はた大御食 種々の物を、山成す如く供え奉りて、おちこちの里人 集ひ、七夜七日 宴のとのい 奉りき。
 -以下略-


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 少し分解してみよう。

熱田ノ宮より迎え奉る その装は、
いかし建て鉾、
日の御旗、月の御旗、
覆衾(おおいふすま)、
御榊に木綿(ゆふ) 取り垂て
迎え奉れり。

いかし建て鉾、とは何か?
・これは、今に残る剣鉾の原形で、トホコの教の「ト」の象徴であると推察する。

日の御旗、月の御旗、とは何か?
・明治維新の錦の御旗に象徴されるものの原形で、日月=日継のことで、「ト」の教と同じく正統性を象徴するものと推察する。

覆衾(おおいふすま)、とは何か?
・覆衾 が、「真床覆衾(まどこおふすま)」の事ならば、神座の名称であり、「大嘗宮神座の寝具・御衾」を指すと解釈する真床覆衾説ではなく、従来の天孫降臨神話由来説が正しいと思われる。

これらのことから、祭祀は、その神社や御祭神の出自由来を顕すものだと思われる。
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by hansaki460 | 2016-07-19 19:22 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

Wikipediaに「大御食(おおみけ)神社」を新規投稿 &【放射性物質拡散予想図】

Wikipediaに「大御食(おおみけ)神社」を新規投稿



私の 長らく懸案だった ことなのですが、Wikipediaに「大御食神社(おおみけじんじゃ)」を新規投稿しました。

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・大御食神社 Wikipedia


Wikipedia への投稿は、すべてが初めてのことなので 苦労をした。

原稿は、構想・資料集めで 1週間ほど費やしたが、投稿作業は一気に 昨夜 徹夜で行った。^^;


・・・これから散歩して、・・・温泉に行って、・・・一寝入りです。^^


   
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by hansaki460 | 2012-09-13 09:12 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)

大御食神社 由緒 -1

大御食神社 由緒 -1

景行天皇40年(A.D.110年)10月に、天皇は、日本武尊に蝦夷征討を命じました。
命に従った倭武ノ尊は、その後 東の蝦夷等 言向け平和(やわし) 給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を 御還りし給ひし時に、この赤須ノ里に至りました。
時に赤須彦は、御蔭の杉の木の下に仮宮を設けて、八重管薦(やえすがこも) 八重を敷き並び、厳し(いか)楯矛 御旗立て並べて、いと厳かにしました。 待饗し給ひして、倭武尊を迎えたてまつりました。

その後、大足彦忍代別天皇(景行天皇)の御代、四十八年に、御食彦は 御蔭の杉の木の下に御安楽居(みやすらい)したその仮宮を 神の御殿に見立て、倭武尊を祝い祀りて 大御食ノ社と御名を附け 奉りました。

すなわち、大御食神社の建立は、A.D.118年に 御食彦(赤須彦)が、かつて日本武尊を待饗(まちあい)し給ひた時に設けた、御蔭の杉の木の下の仮宮に、日本武尊を祝い祀りて、『大御食ノ社』 と御名を附け奉ったのでした。

ですから今年は 創立から、1892年目にあたります。
卑弥呼(175年頃~248年頃)の時代より、一世紀(100年)ほど前のことで、まさに弥生時代の、稲作技術導入によって 日本での水稲耕作が開始された時代です。

社伝記によると、当時の赤須彦は、赤須ノ里の長で、小出の里、宮田の里、上穂の里、中沢の里、石曽根の里、片桐の里、与田切の里、大草の里、市田の里、飯沼の里、知久の里、育良の里、それに 阿志島の里、と あわせて十三の里の長たちと同盟関係にあったことが読み取れます。

ちなみに奈良時代の、信濃国の郡と郷(『倭名類聚鈔』931-938 編纂)の中では、
伊那郡の郷は、伴野、小村、麻績、福智、輔衆、となっています。
(飯田市座光寺に麻績神社がありますが、ここは旧伊那郡麻績(おみ)郷です。)

この分類時には、国家体制は既に律令制になっていますから、伊那谷には輔衆という様な、体制に係わる地名もありました。
推測するに、輔衆=俘囚であろうと思われます。
なぜなら、大和朝廷にとって伊那谷は、まつろわぬ民の地であり、後に藤原氏一族の荘園の地となり、また天台の寺をして伊那谷全体を支配した、政治的にはまさに虐げられた地でありました。

伊那谷は『まつろわぬ民の地』、と言うことは、大御食神社の存在と多いに関係があります。
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by hansaki460 | 2010-01-12 20:56 | 大御食神社社伝記 | Comments(4)

大御食神社

大御食神社 概論


1,由緒

古代文字で書かれた社伝記”美社神字録によると、

『 大帯日子淤斯呂和気ノ天皇(景行天皇)の御代、倭武ノ尊東の蝦夷等言向け平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。

 時に 赤須彦、御蔭の杉の 木の下に 仮宮を設け、八重管薦八重を敷き並び、厳し楯矛御旗立て並べ、いと厳かにす。
 待饗し給ひして、倭武尊を迎えたてまつりき。

 倭武尊 御蔭の杉の木清々しと告り給ひて、御安楽居給ふ。
 倭武尊問ひて 告り給はく、「汝は 誰ぞや」。
 応え給はく、「吾はこの国の魁師、阿智ノ宮に齊い祀る、思兼ノ尊の子 表春の命の裔、阿知の命の御子阿知山の裔の別裔、赤須彦なり。

 天皇の御子い出ますと聞き、迎えたてまつりき。
 故に真榊の一つ枝には、頭槌の劔を懸け、二つ枝には八華型の御鏡を懸け、三つ枝には和弊を懸け、大前に迎え立て並べ、群肝の真心表しまつりて、詔りのまにまに帰順まつる。 御誓ひたてまつれり。

 またこれよりすぐに中沢の熊鰐に山の麁物和物を菜らしめ、川戸幸をして川の魚捕らしめ、また野彦には野つ物を取らしめて、大御食大御酒種々物を御饗たてまつれり。
故に赤須彦の名を称えて御食津彦と倭武尊自ら名付け給ふ。』


と記されています。

これは古代文字で書かれた大御食神社の由緒の抜粋ですが、大御食神社はこの古代文字で書かれた社伝記”美社神字録の由緒によって、二千年の歴史を刻んできています。 

しかしその寄るべき社伝記を、まるで忌み嫌うかの如くに隠蔽し、祟りでもあるかの如き扱いをしているお宮の関係者の姿勢は、批判されなければなりません。

なぜなら、社伝記の真贋を無意味に問わず隠し、しかしその伝統に寄りかかる姿は、大御食神社の正統性をこそ踏みにじるものであるからです。

そしてお宮の役員及び関係者らは何も分からぬままに、お宮の伝統に対して真摯に対峙する姿勢を示す事が出来ないとしたら、また自らの立場を懐疑逡巡しているとしたら、お宮を潔く神官家に返上すべきでしょう。


2,赤須彦

社伝記では以下のように記しています。

「吾はこの国の魁師、阿智ノ宮に齊い祀る、思兼ノ尊の子 表春の命の裔、阿知の命の御子阿知山の裔の別裔、赤須彦なり。」

古事記によると、

『天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。』

「天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でた神の名は、天之御中主(アメノミナカヌシ)神。次に高御産巣日(タカミムスヒ)神。次に神産巣日(カムムスヒ)神。」


とありますが、二番目に成り出でた神・高御産巣日神(高皇産霊神)の息子が『八意思兼尊』で、その子が手力雄命、表春命です。

そして、赤須彦は自ら、思兼尊の子・表春命末裔であると言っています。
すなわち大御食神社は、神々の系譜に連なる、由緒あるお宮なのです。


3,倭武尊

大御食神社は、倭武(ヤマトタケ)尊の名付けたお宮です。 
それ故に、倭武尊についての考察も大切であると思われます。(以下日本武尊と記します。)

日本武尊の東征の足取りは、神社伝承からかなり明確に分っています。
後の坂上田村麻呂などの蝦夷征伐とは、根本的に違いがあります。

すなわち日本武尊はこのとき、出雲の神々や高皇産霊神ファミリーを従えて、文字通り「蝦夷等言向け平和(やわし)給ひ」て来たのですが、坂上田村麻呂らは大和朝廷の蝦夷征伐そのものでした。

古代史が今ひとつ分からないのは、大和政権誕生前の、倭国の姿を結佐っているところにありますが、日本武尊も、大御食神社も大和政権以前の歴史を物語っています。


4,古代文字

大御食神社の社伝記に書かれた古代文字は、「阿比留草文字」に分類(一部「阿波文字」が混在)されています。 
この「阿比留草文字」は、甲骨文字が発達する過程の金文の草書体であり、解読も出来ております。
甲骨文字の発見は、1899年(明治33年)ですから、社伝記が解読されたよりは後です。 

また古代文字の真贋論は、無意味な皇国史観論争に巻き込まれ、無駄な時間を費やしております。


5,伊那谷から見える古代史

古代文字で書かれた社伝記”美社神字録からは、多くの史実が読み取れます。
その史実を読み解くと、真実の古代史が見えてきます。

・ 地名(里名),
・ 日本武尊の 呼び方は 『ヤマトタケの尊』, 等々


以後、順次記します。
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by hansaki460 | 2010-01-12 12:57 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)