信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:歴 史 秘 話( 97 )

船中八策と「天狗党」

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船中八策と「天狗党」


船中八策は、幕末維新期に坂本龍馬が起草した、新国家体制の基本方針です。
いま 橋下徹大阪市長は、船中八策ならぬ維新八策をかかげて官僚政治体制を改革しようと頑張っていますが、坂本龍馬に影響を与えた高杉晋作こそ、明治維新の功労者と言われます。
しかし、その高杉晋作が影響を受けた 天狗党こそ 維新の先駆けなのです。

     ◇

時は 154年前、安政五年(1858)七月、篤姫の夫・13代将軍家定が亡くなり、追うように薩摩藩藩主島津斉彬も死去した。
九月 江戸幕府・大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、幕府の諸策に反対する者たちを弾圧し、尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)ら 100人以上を捉え、吉田松陰らを刑死(安政の大獄)したが、文久二年(1862)1月、大老井伊直弼は坂下門外の変で暗殺された。

万延元年(1860)8月 海防参与として幕政に関わった水戸斉昭が亡くなった。

     ◇

明治維新の先駆けの「天狗党」は、水戸斉昭の死後も その意志を引き継ぎ 水戸を江戸に取って換え、世直しをしようとする「過激派」に付けられた名称だ。

当時有名人だった水戸藩士・藤田東湖の遺児・藤田小四郎をたて、武田耕雲斎らは挙兵、のち 斉昭の子の徳川慶喜の配慮を願って加賀まで行き、しかしそこで同行の妻や娘もろとも入獄を命ぜられ、やがて 一人残らず斬罪処分された、
しかし明治になると、そろって追贈位され 恩賞金も給わった。


元治元年(1864)11月1日(旧暦) 常陸大子を出発した一行は、11月15日 下仁田に入った。
翌16日、下仁田の戦いで天狗党は、4人の戦死者をだしたが、高崎藩は 36人もが戦死した。

11月19日に 和田宿に宿営した天狗党は、翌日古峠(和田峠)を越えたところで、高島・松本両藩連合軍と戦い、戦死者は 17人に及んだ。(和田嶺合戦)
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          〈和田峠の 浪人塚 (水戸藩士の墓)〉


その後、伊那谷を通過、11月23日に 上片桐・上大島分宿したおり、地元の 北原稲雄・今村豊三郎兄弟が耕雲斎本陣を訪ね、三千両献金と 間道案内を申し出、26日には清内路峠を越え、木曽路に入った。
このとき悲劇にも飯田藩は 天狗党の領内通過を見過ごしたとして、二千石を没収されてしまった。^^;

その後、徳川慶喜は朝廷に 天狗党討伐を願い出たため、天狗党はそれを避けて北上、越前へ向かったが、結局 加賀藩に降伏投降した。

ちょうどその頃、高杉晋作は、約 80名で挙兵し、下関を 再度襲撃して占拠したのだったが、その蔭で、武田耕雲斎、藤田小四郎ら天狗党の主要メンバー352人は、処刑斬首されたのだった。

明治22年、武田耕雲斎以下 411人は靖国神社に合祀され、武田耕雲斎には贈正四位、藤田小四郎には贈従四位が与えられ、中には水戸藩刀工の子もいたが、贈位されたのは水戸藩所属の者のみであった。

     ◇

しかし、表に出ない 蔭の主役があった。
医者の息子だが士分でない田中源蔵率いる三百もの少年隊だった。

彼らは、私学廃止に反抗した 当時の学徒隊だが 年少ゆえ髪を切り 童顔を隠すため紙の天狗面をかぶって、武田早雲斎らの 命で、栃木を襲い土浦城を攻めた。

この 紙の天狗面が、天狗党の名称の起こりなのである。

そして、今の日立市・昔の助川から 八溝山で一人残らず全滅した。
翌年、高杉晋作は 全国に鳴り響いたその隊名を 借用した。



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by hansaki460 | 2012-03-22 09:29 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

茶の湯は博奕(ばくち)だったという話

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茶の湯は博奕(ばくち)だったという話


茶の湯は、鎌倉時代 臨済宗の開祖 栄西(1141-1215)が 宋代の茶を使った抹茶法を伝え始まった。
『吾妻鏡』に、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が二日酔いの折に 一杯の茶を薦め、その折に『喫茶養生記』も献じられたとある。

南北朝(1336-1392)のころには、茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である 闘茶が流行した。
「本」とは 栂尾産の茶、「非」とは その他の土地でとれた茶のことで、今なら コーヒーの、モカとかキリマンジャロとかいう、産地を当てるというものだった。
それを当てる闘茶は、蒸し風呂で汗をかきつつ行う 茶博奕のことで、見物人も多数あった。

興福寺 大乗院門跡の記した『 経覚私要抄 』に、
「今日 林間(淋汗)初之、召仕者共並古市一族若党相交可焼之由仰付了。 於風呂は茶湯在之、・・・云々。」
「今日有林間(淋汗)、又有茶湯、又披立花、風呂中荘観見物なる者也」
などとある。

つまり、風呂場に屏風をたて、絵や香炉・花瓶で飾り立て、茶席には掛け字を二幅掛け、花を飾り、客が風呂からあがると 闘茶がはじまり、見物するひとびとが 遠方から集まったのだった。

当時、勝負に敗れた者が全財産を失い、自暴自棄になって自殺をはかる事件が続発し、建武3年(1336)に出された建武式目には、闘茶(賭け茶)を禁止する条項があった。

茶は もともと お湯で入れるのに、わざわざ「茶の湯」と湯を使ったのは、風呂場で行った 名残なのである。
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上記の事だけでも 不可思議な茶道だが、本当のところは もう一つ面白い。

仏教で庶民を抑えた足利期には、公家に奉公するものは 古来の祠信仰を捨てて「阿弥」を付け、仏教に帰依しなければならなかった。

だから公家らから差別される悔しさから、庶民の彼らが持ち出してきた茶に緑靑を混ぜ、生死をかけて廻し飲みをした。
たとえ死ぬ者がでても それは免罪符と考え、「侘びの茶」としたのだ。
そこには、闘茶の要素もあった。

織田信長は味方を誓う武将に、起請文だけではなくその緑靑を混ぜた『青茶』を飲ませ、忠誠の踏み絵とした。 にじり口は、逃げ出すことが出来ぬように、小さく作られた。
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やがて元禄期、吉良上野介は 千宗易の血脈を引くと称する新しい千家を立てた。
そこでは、緑靑で急性胃炎にならぬよう、茶の前と後に甘味を口に入れ、胃壁にアルカリ膜をはらせ ゆっくり 三口半で、刺激しないように飲む茶道を創始した。^^;
これにより、新興の裏千家は、婦女にも安心して親しまれ、隆盛していった。

ちなみに 茶の栽培は、日本の 原住系の除地でのみ 限定で栽培され、「侘びの茶」の抹茶は、江戸期になっても公家(今の官僚)は口にしなかった。

追、緑青の主成分である、塩基性炭酸銅CuCO3・Cu(OH)2 自体単体の毒性は 低いことが確認されている。 しかし、銅に自然にできた青緑色のさびの「緑青」には、毒性の強い硫酸銅も含まれており、それ故に博奕だったのですね。 ^^
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by hansaki460 | 2012-03-18 11:57 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

縄文時代の製鉄術

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信濃の縄文時代の製鉄術


岐阜県不破郡 垂井町に、【南宮大社】があります。
古くは『仲山 金山彦神社』と云い、毎年11月には金山大祭例祭(ふいご祭り)があり、鉄(金属)の神様として崇敬をうけています。

ところで、平安時代末期の梁塵秘抄では
   『南宮の本山は 信濃国とぞ承る さぞ申す
と言います。
これは何を意味するかと言うと、鉄の神様は、南宮大社より諏訪大社の方が先だと言っているのです。


諏訪には古くから『さなぎ鈴』と呼ばれる「鉄鐸」があります。( ↓ 写真左)

鉄と銅の伝来は、ほぼ同時期であったというのが、最近の学界の共通見解ですが、信濃では縄文時代から製鉄が行われていたと言う説があります。

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信濃の国にかかる枕詞は「ミスズカル」です。

ミスズは「御鈴」で、鈴は「鈴石・鳴石」と呼ばれる,水辺の 禾本(カホン)植物の根に出来る褐鉄鉱団塊のことで、高師小僧とも言います。 ( ↑ 写真右上)
沼沢から 禾科植物を抜き取り 鈴石を採取することを、ミスズカルということばで 表されているのです。
この、褐鉄鉱団塊から実際に鉄を創る実験が行われ成功しました。 ( ↑ 写真右下)

原料は、葦や芳の根に鈴状に付着したカッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まりますが、諏訪地方の縄文土器の焼成温度は 800度を 4時間以上 必要としましたから、製鉄に必要な条件は十分満たしていました。



縄文中期の円筒埴輪や朝顔型埴輪は、キューポラ(鋳物炉)に酷似していて、これで 製鉄が行われていたと、推測できます。
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また、諏訪大社に伝わる、薙鎌は(火を起こす)風の神で、製鉄には欠かせません。

列島の原住民である縄文人は、未開(文化がない)人とされていますが、事実に反します。

万葉集の、
みすずかる 信濃の真弓 わが引かば 貴人(ウマヒト) さびて いなと 言はむかも
は、弓-とりわけ鉄鏃(矢じり)を連想させ、後段の さびては、鉄音に懸るのかも知れません。

しかし カッ鉄鉱からの縄文鉄は不純物が多く、強度に難があり、その後の青銅器の弥生文化に破れたと思われます。



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by hansaki460 | 2012-03-16 20:28 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

伊那の七谷(田切)と、東京の「田切」地名/考

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伊那の七谷(田切)と、東京の「田切」地名/考


佐伯孝夫の昭和18年作の歌に「勘太郎月夜唄」がある。

   ♪ 影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り
       棄てて別れた 故郷の月に 偲ぶ今宵の ほととぎす ♪



伊那谷は、赤石山脈と木曽山脈に夾まれていて、天竜川が諏訪湖から太平洋に流れる。
そして、二つの山脈から流れ出て、天竜川に流れ込む多くの谷川(支流)がある。

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「伊那は七谷」と歌われる七谷を、こう定義付ける人もいる。

天竜川に合流する支流で、北の方から
  ① 三峰川 ・・・・・ 伊那市で 天竜川に合流  
  ② 太田切川 ・・・ 駒ヶ根市で 天竜川に合流
  ③ 与田切川 ・・・ 飯島町で 天竜川に合流 
  ④ 松川(伊那) ・ 松川町で 天竜川に合流
  ⑤ 小渋川 ・・・・・ 松川町・中川村境で 天竜川に合流
  ⑥ 松川(飯田) ・ 飯田市で 天竜川に合流 
  ⑦ 遠山川 ・・・・・ 天竜村で 天竜川に合流 

伊那谷には、「田切」と名付く川があるが他に、与田切川・太田切川・犬田切川・中田切川・小田切川・古田切川など、多くの田切川がある。


伊那谷の他にも、田切地形 と呼ばれる場所が、浅間山山麓の 軽井沢町から小諸市にかけて ある。

また、東京都 目黒区の祐天寺には、田切公園があり、となりの世田谷も、台地と坂と谷(渓谷)と川に富んでいる地形だ。
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「田切」地名の由来には、

① 扇状地・台地が、支流の 沢の流域で「たぎられた」ところから、「田切 」と言う地名が生まれたとする説と、

② 古語で「たぎる」という、傾斜地やがけなどで、水が早く走り流れ落ちるさまをいう、

との説がある。


信濃の國・伊那郡・赤須の里、大御食神社の 古代文字文字で書かれた社伝記には、律令以前(1~2世紀)の伊那谷の地名として、「たきれ」という地名が記されている。

ここから見ると、① の 扇状地・台地が、支流の沢の流域で「たぎられた」ところから、「田切」と言う地名が生まれたとする説が、その由来であると思われる。


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3月15日(木)
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3月16日(金)
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   以下、スイス未更新です。
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3月14日(水)

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by hansaki460 | 2012-03-15 12:09 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

伊那谷の 壇ノ浦村と、源平秘話

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伊那谷の壇ノ浦村と、源平秘話


伊那市 長谷(旧 長谷村)の「 浦 」という集落に、平清盛の嫡男、平重盛(たいら の しげもり)の墓がある。

六波羅 小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし 小松内大臣ともいわれた。
だから、「浦」の部落や近くの部落には小松姓が多い。

平重盛公の墓所は 部落のほぼ真ん中に位置しており、春の彼岸には、小松氏と側近であった西村氏と共に、先祖祭を行っている。

十数年前、パワースポットの分杭峠から浦の部落に入った時、墓の廻りに平家の赤旗が立ち並んでいる光景を見た。
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これが平家の落人の部落と言われる所かと、同行者としばし佇んで、昔を偲んだことを覚えている。

この墓所は、市の史跡に指定されているが それによると、

『 小松氏の先祖が、平重盛であるか、平維盛(たいら の これもり)であるか、重清であるかは定かでないとしているが、平家の流れであることには間違いない。 
     ー 略 ー
また、この地区は古来 浦村といわれ、古老は「壇ノ浦村」と自称したりした。
小松氏一統の者は平家と同じように 宇佐八幡宮を祭っている。』

・・・・・と記されている。


     ◇


ところで、平氏一族は マレーシア方面から紀伊半島に、鉄器を持って漂着した部族であったという『説』がある。

そして彼らより以前に、やはり南方から来た平氏もいた。
それが北条氏らだ。

だから あの源平の戦いは、比較的新しく南方から来た彼ら平家を、それ以前に土着していた 北条氏らの古い平家一族が、源氏(頼朝や義経)という馬を扱う部族を使って放逐したのが あの源平の戦いであると言うのだ。

だから源平の戦いとは、本質的に “新来の平家” と “旧来土着の平家” との内ゲバであった。

平氏は赤旗を持ち、船を得意とした。
源氏は白旗を持ち、馬を得意とした。

これが紅白合戦の由来であり、やがて大陸からの外敵を打つために、源氏と平氏の侍達が 力を合わせたて戦った時に、源氏の白旗に平家の赤で丸を書いて作った旗が、日の丸だ。
(以前の日記に書いた)
【美しい 日の丸の話】 http://utukusinom.exblog.jp/13467711/



源頼朝は壇ノ浦の戦い(1185)で平氏を滅ぼしたあと翌年には 鎌倉で、「 遊女は、源氏の者に限る 」旨を発令した。

また幕府を開いたあとの、建久4年(1193)には、遊女屋 および遊女を取り締まるために、里見義成と 里見義成という 高名な武者に「 遊女別当 」を命じ、関東 関西に分けて受け持たせた。

この取締は 源氏系の遊女だけをエスコートして、権利のない女性(平氏系)にモグリ営業をさせない為なのである。^^

大正 昭和までの公認の遊廓や、今でも そこここに「 源氏名 」を持つ女性がいるのは、ここに由来する。

平氏も源氏も、日本の庶民であり、弥次さんは赤ふんどし、喜多さんは白ふんどし、そして「 赤勝て 白勝て 」と、高いところから 庶民を操って来た公家(今の官僚)らがいる。

・・・・が、歴代の皇太子が、遠泳をする時につける ふんどしの色は、赤である。
(天皇家=天孫は、元来海洋系原住民系統であり、公家貴族は渡来系であったという意味・・・。 異論反論歓迎します。^^)

 
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by hansaki460 | 2012-03-14 08:35 | 歴 史 秘 話 | Comments(3)

実在した「日本武尊」の足取り

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実在した「日本武尊」の足取り



4世紀頃、日本武尊という偉人がいた。同時代に大国主命と呼ばれる方もいた。
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日本武尊を、正しくは『ヤマトタケ』と読む。
記紀以前の伝承の、大御食神社の社伝記 ”美社神字録”で『ヤマトタケ』と記されているからだ。

『ヤマトタケル』と読みはじめたのは、江戸時代後期の国学者、伴信友からのようだ。

              ◇

伊那谷・赤須の里の 大御食神社社伝記に、日本武尊は、赤須彦の娘『押姫』と三日過ごされたと書かれており、別れ際には、

「 二夜三夜、二人寝しかも、飽かずかも。 美し乙女 愛(あ)しけやし。 居立ち 廻(もとほ)り、愛(は)しけやし乙女。」

押姫 答(いらえ)歌 奉りて、

「 愛しけやし、我が大君の御手に捲く、珠 持つ日根子 忘られず、珠 持つ日根子 忘れられず、吾夫(あせ)を 占(し)め 延(は)む、吾夫を 占め延む。」

と、あります。

この、赤須彦・押姫の家系は 今でも続いていて、采女屋敷と呼ばれており、また湯を使った 近くの沢には、湯奉の沢という地名が残っている。

日本武尊が、実在か架空かと言う議論がある、間違いなく実在の人物だ。


日本武尊を祀っている神社。

 岩手県   2社  配志和神社・吾勝神社
 山形県   2社  天満神社・総宮神社
 宮城県  11社  多賀神社・熱日高彦神社、他
 福島県   4社  都都古別神社・桙衝神社、他
 茨城県   7社  鹿島香取神社・加波山三枝祇神社、他
 栃木県   4社  大原神社・赤城神社・建武山神社、他
 群馬県   4社  子持神社・熊野神社、他 
 埼玉県  10社  ・・・以下略
 千葉県  18社
 東京都   8社
 神奈川県  9社
 富山県   1社
 石川県   2社
 福井県   1社
 山梨県  12社
 長野県   5社  大御食神社、他
 岐阜県   8社
 静岡県   9社
 愛知県  16社
 三重県   3社
 滋賀県   1社

137社のうち、44社は 日本武尊の 創祀(勧請)した神社。
これは、日本武尊が、歩いた証しだ。
これらの地元には、多くの伝説が 残っており、それらの話は 実に人間味溢れているが、記紀では あまりにも 神がかり的な英雄物語になっているために、架空の存在だと云う議論が出てしまう。


日本武尊が、日本人の多くの人々に好かれている理由は、母親が播磨稲日大郎姫ではなくて、八坂入媛命なのかも知れない。

八坂入姫命は、名が示す通り、日本の原住民系で、母方の祖父は尾張氏で、伯母の倭姫命も 尾張にいた。

父の景行は騎馬系の 崇神系統ではあるが、日本原住民の系統が入ったために、人気があるのでは? と思われる。

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3月13日(火)
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3月14日(水)
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3月15日(木)
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by hansaki460 | 2012-03-13 10:23 | 歴 史 秘 話 | Comments(3)

NHK の 義清(西行)の評価に異議あり!(^^)

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NHKの義清(西行)の評価に異議あり!(^^)



先週のNHKドラマ「平清盛」は、大変面白くなってきたと思ったが、昨日はガッカリだった。^^;

義清(西行)には、出家の際に 衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。
これは、仏教説話としてオーバーに表現されている面があると Wikipediaなどに記されている。

その場面を、NHKは思いっきり非情に描いた。^^;


偉大な業績を残し、2500年後の今なお大きな影響力を示している釈迦は、修行の過程で妻子を捨てた。

修行の仲間が 釈尊へ、「友よ」と語りかけたところ、釈尊は「友よと呼ぶのは やめなさい 」といったという。
彼らは、語られる 釈尊の悟りの内容に打たれ、釈尊へ帰依し、結果 家族も帰依した。


大相撲でも、貴乃花の親子関係も、弟子入りした以上は親子ではなく 子弟の関係としたと、報道されている。


脱線するが・・・・、
イエスは、ヨルダン川において 洗礼者バプテスマのヨハネから洗礼を受けた。
そのとき ヨハネは、イエスが偉大な方だと分かり、イエスに対する洗礼を躊躇した。
しかしイエスは、「 今は許せ・・・ 」 と言い、そのまま ヨハネから洗礼を受けたという。


NHKの場面は、我が子を縁から蹴落とした面を かなり非情に強調してあったが、その逸話の背景には、仏教説話として 出家の姿を示す一面があることをも語らないと、それは人権侵害だ!
(^^;)

西行の逸話には、事欠かない。
それほど、歌人としても、人間 西行 としても、愛された人だ。

     ◇

ところで、江戸時代 後期の 菅江眞澄(すがえますみ、1754-1829) の随筆に 『 西行法師が、大御食神社(おおみけじんじゃ)の神主さんの所に立ち寄って、書いたものを 残している 』 という話しが紹介されてる。


     伊那谷・赤須の里の大御食神社に伝わる、西行法師の書

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    神祇道ハ
       我国ノ大租ナレバ
    糸竹ノ直ナランコトム
           ネニタエナカラン
  

    駒ガ嶽
       スソ野ノ森ニ来テ見レバ
     小町ガ家ニ
          ハヤス七草










「 美しの森物語 」 に 詳しく書いた。^^
http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage2-2.html


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3月12日(月)
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3月13日(火)
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3月14日(水)
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by hansaki460 | 2012-03-12 12:22 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

日本のコメ先物の市場は 280年の歴史、72年ぶりに復活か?


日本のコメ先物市場は 280年前から・・・

                       72年ぶりに復活か?



先物新報は、15日の《速報》で、こう報じた。

『コメ先物、再申請は3月2日か・コメWG設置、月内に上場準備を』
東京穀物商品取引所は15日、取締役会後の記者会見で コメ先物商品設計ワーキンググループの設置を 発表した。

来月2日にも開かれる予定の臨時取締役会に諮るものとみられる。

東穀取の渡辺好明社長は 「TPP騒動に巻き込まれたくない」 との考えを述べており、さらに今年の作付けまでに上場を間に合わせたいとしていることから、準備が整い次第すぐにもコメ先物の再申請を行うとの見方が 有力だ。

・先物新報
http://sakimonoshimpo.blog49.fc2.com/blog-date-20110215.html

これは 昨年7月に東京穀物商品取引所が、コメ先物上場に向けた研究会を立ち上げ、先物の上場を農林水産省に申請する準備を始めた経過の報道です。


日本のコメ先物の歴史は江戸時代まで 遡ります。
米の取引所である 『堂島米会所』 は、享保15年(1730)大坂堂島に開設されました。

当時大坂は全国の年貢米が集まるところで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買され、帳合米取引が行われていました。

これは敷銀という証拠金を積み、差金決済による世界初の 整備された先物取引でした。

これ以前開設された取引所には、ロンドン(1568)やベルギーのアントウェルペン(1531)にありましたが、あくまで現物取引の先渡取引でした。

その後、明治期以降も東京米穀商品取引所など各地の取引所でコメ先物の売買は行われてきましたが、昭和に入り 戦時色が強まってくると経済統制が厳しくなり、昭和14年(1939)の米穀配給統制法の施行に伴ってコメ先物取引は廃止されました。

戦後は 政府によるコメの生産管理が行われてきましたが、1995年の食糧法施行、2004年の改正食糧法施行によりコメの流通はほぼ自由化されました。

これに伴って、東京穀物商品取引所は 2005年12月にコメ先物の上場を申請しましたが、その際は不認可となりました。

今回 東京穀物商品取引所は、コメの需給や価格が今後、民主党政権の農業政策転換で変動しやすくなるとみており、価格変動リスクを抑えたい生産者や流通業者を市場に呼び込み、低迷する売買の底上げを狙うものです。

認可されれば 72年ぶりの上場となります。


上場されると、今後コメは市場原理によって価格調整がなされ、農水省主導の価格調整の必要性が薄れ、マーケットで価格が調整される方向になるだろうと思われます。

農家は、半年後に収穫予定の コメの価格を「今」決定できれば、豊作などによる値下がりを心配する必要はなく、また販売業者は、将来 コメを仕入れるにあたって、その価格を「今」決定できれば、不作などによる 値上がりを心配する必要は ありません。

しかし、投機などを目的とする「非当業者」の割合が増えると、価格が乱高下しやすくなり、生産の場に 混乱をきたす可能性が考えられます。

なにはともあれ、日本で280年前から実績のある コメ先物取引の再開は、農業を強くするのではないか? と思われます。
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by hansaki460 | 2011-02-18 08:29 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

三遊亭圓朝:中国の近代化に貢献した落語家

三遊亭圓朝:中国の近代化に貢献した落語家



「日清戦争」の敗北以降、中国の有識者たちは「変法」(改革)のモデルを日本に求めた。

そして「日本を学ぼう」というスローガンを掲げ、西太后が企んだ宮廷クーデターによって日本への亡命を余儀なくされた知識人らは、日本文を学んだ。

しかし当時の日本語には、漢文体、和漢混交文、明治普通文、言文一致体といったさまざまな文体があった。

はじめ彼らは、日本「語」と日本「文」を分けて学び、『和文漢読法』すなわち、漢文としての日本語を学んだ。

しかしやがて、日本語は漢字が多いから、中国の漢語の一種の延長だと思っていたが、実は西洋語に近いアルファベット言語だということを発見し、明治普通文・言文一致体を学ぶようになった。

その時彼らは、カルチャーショックがあったに違いない。^^

なぜなら、当時中国人は、表意文字の中国語は未開段階で、西洋のアルファベッドは、はるかに進化した言語だという言語進化論を認識しており、常識になっていたからだ。

だから日本語は、中国語より「進化」した言語だという結論にたどり着き、かつての「東夷小国」の日本が、日清戦争でなぜ中華帝国を倒したかという事実にも納得がいったのだった。

つまり「仮名」という易しい文字が日本国民の素質を向上させ、強大な近代国民国家を作ることができたと中国人は考えているのだ。


だから、「日清戦争」直後、中国の有識者は早速日本の仮名を模倣して中国語の易しい文字の創出を試みたのである。

その中でももっとも広まったのが日本の仮名を真似した王照の「簡字」であった。

近代中国では、日清戦争以降、中華民国が成立する1911年 まで、文字、ピンイン、表音符号など数多く試みられたが、その中で最も多かったのは日本の仮名から発想された符合系統であった。

そこからも日本の仮名が近代中国にあたえたインパクの大きさが窺えるだろう。



しかし、今日の話はそれだけでは無いのです・・・。^^

初代三遊亭 圓朝[天保10年(1839)- 明治33年(1900)]は、幕末から明治時代に活躍した落語家で、実は彼圓朝こそが、近代日本語の祖なのです。

当時、漢文体、和漢混交文、明治普通文、言文一致体といったさまざまな文体があったなか、近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させた人物なのです。

速記法が日本に導入された時、圓朝は 自作の落語演目を速記にて記録し 公開することを許した。

記録された文章は 新聞で連載され人気を博した。

これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたのである。

のみならず現代中国語の文体も決定づけたのです。

魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。

すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのでした。

落語家・三遊亭 圓朝は、偉大な人物なのです。^^

     ◇

白話運動

近代に至るまで、白話は、民衆語として低俗なものとされていたが、1917年頃から、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱した。

この運動は文学革命とも呼ばれ、理論面で胡適が、実践面は魯迅などによって推進され現代中国語の形成に大きく貢献した。

しかし、現在でも文章語では文言に近い文体が使われることが多い。
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by hansaki460 | 2011-02-16 18:46 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

日本武尊(九州朝)は、当時大国主命(出雲)と共に東国の開拓を積極的に行った。

 日本武尊(九州朝)は、
 大国主命(出雲)と共に
  東国の開拓を積極的に行った。




諏訪大社は、諏訪湖の南側に上社、本宮・前宮、北側に下社、春宮・秋宮の、計四つの宮から成る。

祭神は、

上社 建御名方命 八坂刀売命

下社 建御名方命 八坂刀売命
   八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)

本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。

平安時代 - 江戸時代を通じて上社では諏訪氏が、下社では金刺氏が大祝を務め、末社は2万5000社に及ぶ。

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                                          (諏訪大社 下社 春宮)
 
◎ 下社の神主家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。

上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。
出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神神社の社家大三輪家と同系。


◎ 下社の御舟祭は、神体を舟(柴舟)に乗せて春宮から秋宮へ遷座する祭。
南北朝時代に書かれた『諏訪大明神絵詞』には「鉾山」と書いてある。
舟には翁、媼とみられる人形が乗せられる。



◎ 福島県東白川郡棚倉町の都都古別(つつこわけ) 神社がある。
奥州一宮で、祭神は、味耜高彦根命(大国主命の子)と、配祀には日本武尊。

ここの日本武尊が東征の折、都々古山(建鉾山)に鉾を建てたのが創始で、古代祭祀場の磐境である事が立証されている。



◎ 以前に私は、日本武尊の東征の足跡を追った折に、日本武尊と一緒に祀られている方々が、関東に入る頃から出雲神が多くなった事に気がついた。
調べようと思ってそのままになっているが、興味深い事象だ。



言葉が足りないことを承知で、上記を勘案して仮説を立てますが・・・・・

日本武尊(九州朝)は、当時 大国主命(出雲)と共に 東国の開拓を積極的に行った と見ると、日本武尊の東征で創建された神社に 出雲神が共に祀られている事が 納得できるが、いかがだろうか?

日本武尊は、当時まだ九州朝だった頃の人物、と言う前提ですが・・・。^^
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by hansaki460 | 2011-01-05 21:00 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)