信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
e0171497_18581696.jpg


HP
まぼろしの
吾道之宮


e0171497_1725895.jpg

   発売中



 今日も 応援クリック
 ありがとうございます

   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村 







google36ed5a3dddf221d0.html
ブログパーツ
以前の記事
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
more...
カテゴリ
全体
やまと言葉
幻の吾道之宮
和歌姫 吾道彦
大御食神社社伝記
神代文字
古代文字便覧 
竹内文献 ホツマツタヱ 古史古伝
歴 史 秘 話
地方史から見た覇権の姿
一般
未分類
最新のコメント
唐・新羅進駐軍の唐側代表..
by 旅人 at 04:53
これが高学年の問題であれ..
by 通りすがり at 02:55
当方のブログに関しまして..
by hansaki460 at 07:23
三毛猫さんが書いているこ..
by moon33magic at 16:05
高良大社とは、朝鮮神社、..
by moon33magic at 11:25
その他のジャンル
外部リンク
記事ランキング
ブログジャンル


カテゴリ:歴 史 秘 話( 97 )

高句麗・新羅・百済は 今でも 違う国

.
半島を方言で見る 古代と現代
(高句麗・新羅・百済は 今でも 違う国)


【朝鮮半島は新・三国時代へ】 という新聞記事が出た。
(産経 2012.4.14 ソウル・黒田勝弘)

朝鮮半島は 1945年、米ソによる南北分割で 南の韓国には李承晩政権ができた。
李承晩は 北の 黄海道出身で 親米・反共主義者として 知られた。

朝鮮戦争では 北からの多くの避難民が韓国に逃れてきた。
こんな経緯もあって 李政権下では北出身者が羽振りを利かした。

韓国政治が南出身者中心になるのは 1960年代の慶尚道出身の 朴正煕政権からだ。

ところが この朴政権に対し 金大中氏に象徴される全羅道出身者が反政府派の中心となり、韓国政治に東西対立がはじまった。

今回の総選挙でも、東(慶尚道)は与党、西(全羅道)は野党と 支持分布がくっきり分かれている。

もし 南北が統一したあかつきには 「 統一韓国の政治は 東西に 北出身者を加えた “三つどもえ” になる 」 という話もある。

歴史的にいえば、古代史の 新羅(東)、百済(西)、高句麗(北)による 三国時代の 再現である。

e0171497_7215790.jpg

そこで、方言の分布図と、三韓時代の地図を併せてみた。

平安道(へいあんどう、ピョンアンド)は、朝鮮八道の一つ。
高麗時代から李氏朝鮮初期には西北面と呼ばれており、太宗13年(1413)に平安道と改名された。
道の中心は平壌にあり、平壌府が置かれた。

咸鏡道 (かんきょうどう、ハムギョンド)
朝鮮三国時代の一国である 高句麗が領有しており、後に 渤海が領有した。
渤海が滅びると 北部は 女真族の地となった。
歴史的には 高句麗や 渤海が支配、高麗時代は 南部を除くとほとんどが 女真族の土地であったが、李氏朝鮮 世宗の時代に侵略して 併合したが、重要防衛拠点でもあった。
世宗の時代に 北境が確定した。

京畿道 (けいきどう、キョンギド)(含 黄海道)
紀元前 18年、三国時代以来、政治的に 大変重要な場所だった。
百済が 河南の 慰礼城を 首都に定めて以来、5世紀半ば 高句麗に併合されたり、553年 新羅の領土となった。
次の王朝である 高麗の 太祖 王健が 開城を首都に定めてからは、京畿地域は 歴史の 中心舞台として浮上し、1018年から 当地域を 正式に 「京畿」 と呼ぶようになった。

全羅道 (ぜんらどう、チョルラド)
全羅 北道と、全羅 南道に属する 羅州の頭文字。
金大中だけが 全羅道出身で、最大野党でもある 民主統合党(中道左派政党)の 強固な支持基盤となっている地域。

慶尚南道 (けいしょうなんどう、キョンサンナムド)
慶尚とは、慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた言葉である。

済州島(さいしゅうとう、チェジュとう)
15世紀 初めごろまでは 耽羅という独立した王国があった。

     ◇

朝鮮半島は、今でも高句麗・新羅・百済の影響が、強く残っている。
ということは、歴史的に大きな意味を持つ。

すなわち、高句麗・新羅・百済は、今でも違う国なのである。^^
[PR]
by hansaki460 | 2012-05-08 07:15 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

前三世紀、建御名方神の宣で間引きを禁止した孝霊天皇

.
前三世紀、建御名方神の宣で間引きを禁止した孝霊天皇


諏訪大社の 建御名方神 は 国譲りにおいて、出雲の 伊那佐の小浜で 建御雷神 との戦いに敗れ、諏訪まで逃げて 降参したとされる。


しかし こんな話もある。

第七代 孝霊天皇 は、在位25年(前265)の 1月11日、県主を召して、こう言った。

木花之開耶姫(コノハナサクヤ姫)は、瓊瓊杵尊 (天の御孫:ニニギ)との間に、火明命(ホノアカリ)、火進命(ホノススミ)、彦火火出見尊(ヒコホオテミ)の三つ子を産んだ。

だがその後、三つ子を生んだという話を聞かない。

そこで、孝霊天皇は、『 タケミナカタの宣(法) 』 を引用して、( たとえ 三つ子を産んでも ) 子を 間引くことはいけないとした。
e0171497_8181510.jpg


・・・・・そのことが、【 ホツマツタヱ 】 に、こうある。


 天の御孫の サクヤ姫  三つ子 生むより 後 聞かず 

 我 今 三つ子 生むに付き  仄かに聞けば 三つ子をば 

 "間引" と名付け 殺すとや  今よりあらば 罪人ぞ 

 "我が子も人は 天の種  鹿・犬 千より 人 一人" 

 タケミナカタの 宣なりと




すなわち、【 タケミナカタの宣 】 とは、

 「 我が子も 人は 天の種 鹿犬 千より 人一人 」

  千匹の 獣の命より、人 ひとりの命が 大事

・・・・ と 言う意味。



古代の、建御名方神のイメージが 変わる話ですね。^^
[PR]
by hansaki460 | 2012-05-07 08:17 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

一国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ。

.
一国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ。


今日は、歴史の話です。^^

三千数百年前、大陸に (いん)という国がありました。
殷は、夏王朝を滅ぼして王朝を立てたといわれ、考古学的に実在が確認されている最古の王朝です。

次に 殷 を倒して開いた国に、(前1046頃-前256)という 王朝があります。

その 周のとなりに、 周 建国の功臣 太公望によって立てられた、(前1046-前386)という国があり、春秋時代(前770-前403)に入る頃、斉は東の強国となっていました。

今から約2700年前頃の、その斉の話が、今日の本題です。^^

斉 の国の第16代に、桓公(かんこう:前685-前643)という君主がいました。
その 桓公には、「管鮑の交わり」 という話で有名な 鮑叔と 管仲(生年不詳-前645)という腹心がいました。
斉の宰相だった管仲は、斉を強大な国にした名宰相でしたが、管仲が死ぬと 桓公は精彩を欠き、管仲が遺言で「近づけてはいけません」いった三人の奸臣を近づけるようになったのでした。

その翌年 桓公は病死すると、結局 奸臣の三人は 喪中から激しい 後継争を起こし内乱となり、重臣達の謀殺などによって、国力は大幅に低下し、斉の覇権は 晋の文公に移りました。
e0171497_923950.jpg
この時の名宰相だった管仲の働きに対して、それから 約1700年の後になって 蘇洵(蘇老泉:1009-1066)という人が、「管仲論」で、宰相だった管仲を非難しています。

蘇洵は 何をどう非難したかというと、管仲が仕えていた 桓公が、管仲の 後継の臣下として、悪い臣下を選んだから、国が乱れてしまったのだ といい、だから 国を乱した原因は、自分の後継ぎに 有能な臣下を選ばなかった 管仲にある、というのです

  夫れ 一国は 一人を以て興り、一人を以て亡ぶ。
  賢者は其の身の死を悲しまず、而して其の国の衰を憂ふ。
  故に必ず復た賢者有りて 而る後に以て死す可し。
  彼の管仲なる者、何を以て死すや。


一国の興亡は その国を担う人物によって 左右される。
故に 賢者たれば、その身の 死するを悲しまずとも、国の行く末を憂えて、必ず 国を託すに足る賢者を挙げて 後に死ぬのである。
然るに 名宰相として称えられる管仲は、果たして 何の用心を為して逝ったであろうか。


現代、国の主権は 国民にあり、かつ 宰相を選ぶ 権利義務は、国民にあるからして、言い換えれば、
【 国を乱した原因は、国会に 有能な代議員を選ばなかった 国民にある 】
ということなのか?

2700年前の、管仲のとった 政治的行動と、それを批判した1000年前の 蘇老泉の言葉に、人のこころの普遍性、それに人間の真理を学びたいと思います。

        ◇     *     ◇     *     ◇

原発事故で避難生活を強いられている福島県浪江町の馬場有・町長が、国を相手取って刑事告発に踏み切る考えを明らかにしました。

事故直後に 「SPEEDI」(緊急時迅速放射能影響予測)の情報を隠した結果、多くの住民が放射線量の高い北西方向に避難、余計な被曝を招きました。
そのために、何度も避難先の変更を余儀なくされ、病状が悪化して死亡した住民もいて、現時点で 79人が 「震災関連死」 として認定されたということです。

罪状は、 「業務上過失致死」 などを検討しているという。

先日、FNNのニュースで報道していました。こんごの報道に 注目したいと思います。

昨日はまた、北朝鮮のミサイルに対して、全国瞬時警報システム(Jアラート)を使用しませんでした。 防衛省と官邸の主導権争いのようですが、結局、政府民主党の体質は 何も変わっていません。



             にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]
by hansaki460 | 2012-04-14 06:37 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

「駒ヶ岳」の由来と『こま人』

.
「駒ヶ岳」の由来と『こま人』   (再掲)


伊那谷から、木曽駒ヶ岳と甲斐駒ヶ岳が見えます。

駒ヶ根市は 駒ヶ岳サミットを提唱した市ですが、全国には、正式名称では16ケ所、通称では大小いくつの駒ヶ岳があるのでしょう?
e0171497_5494333.jpg


駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川 以北にありますが、それには大きな理由があります。

紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による 『(前)高句麗 』という国がありました。

日本語での古名は 「こま」 です。 

混同されやすいですが、『後 高句麗』(899年~918年)とは違う国です。 当然、高麗(こうらい)とも違います。 
高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。


古代、「こま」 の国からは、『弊賂弁(へろべ)島』 と 『渡(わたり)島』 を経て、列島に 多数の帰化人が入植しました。

e0171497_5501524.jpg


彼らが附けた山の名が、『駒ヶ岳』 なのです。
彼らはやがて、唐・高句麗系の 進駐軍の支配する、大和朝廷に支配される側となりました。

日本海を見ると、ほぼ中央に 大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に 『粛慎人が 「佐渡嶋北」 に住み着いた』 とあるところの、今は無き 『弊賂弁島 』 と 『渡島』 です。
e0171497_5503296.jpg


大和朝廷の貴族や官僚たちは、「倭人」 を 『弥次さん』、「こま人」系などを 『喜多さん』、また 「八つぁん、熊さん」 とか 「野次・馬」 と 揶揄し、差別・卑下と 懐柔策で 日本の国を支配してきました。(弥次は 八族と同じ、熊・馬は 北と同じ意味)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は 朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の強化・存続を図ったのでした。
[PR]
by hansaki460 | 2012-04-04 05:57 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

美しい 婢(女奴隷)の送り状

.
美しい 婢(女奴隷)の送り状  (再掲)


東大寺の大仏は、信仰のためだけではなく、権力者の威光を示すためのものでもあった。

そもそも律令制度とは、専制制度にほかならない。
王土王民、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念は、権力者のものなのである。
(ただしこの事は、今日に至る歴史の必然でもある、と思います)


東大寺 正倉院文書にある『美濃の国司解』の中の記録を見てみよう。


e0171497_4573068.jpg


 婢 古都賣(こつめ) 年廿 右頬黒子  価  稲 捌伯束

  右 恵奈郡 絵下郷 戸主 県主人足 口 県主息守 之賤



とある。

すなわち、

古都賣(こつめ)と呼ばれる、頬にほくろのある、

婢(女奴隷)の 二十歳の娘を、

美濃の国司が中央官庁へ送った送り状


なのである。


「稲 捌伯束」とは、稲 八百束で売買されたということだ。
当時、馬 一頭も 稲 八〇〇 ~ 一〇〇〇束 だったという。



天平十二年(741年)聖武天皇が大仏の建立を計画し、天平勝宝元年(749年)に完成した。
当時の孝謙天皇は、この際に東大寺へ 封 四〇〇〇戸、奴 一〇〇人、婢 一〇〇人を 施入することにした。

美濃国へは、年は三十歳以下 十五歳以上で、顔かたちのよい 奴 三人と 婢 三人を 正税をもって買い求め差し出すことを命じた。

当時の美濃守、大伴兄麻呂はさっそく奴婢を手に入れ、翌年天平勝宝二年(750年)に六名の奴婢を解状とともに送り届けた。
そのうちの一人が、恵奈郡絵下郷の 婢 古都賣(こつめ)だった。

ホクロのある 顔かたちの美しい娘であったのである。
[PR]
by hansaki460 | 2012-03-31 05:02 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

「お裾分」の語源と武士の出自

.
「お裾分」の語源と武士の出自


夫余(ふよ)という国が、BC200年頃から満州の地に存在し、のちに高句麗の広開土王(374-412)が 東夫余を討伐したと、『広開土王碑』に記されている。

六世紀当初には「勿吉=靺鞨(まっかつ)」と「高句麗」によって駆逐されているが、北夫余(豆莫婁国:ずまくる)は唐代まで続いた。

この扶余国のことは、三国志魏書扶余伝に記されている。
烏丸鮮卑東夷伝(魏志倭人伝)に、邪馬台国についての記述があり有名だが、扶余伝も興味深い。
e0171497_691775.jpg

【三国志魏書・扶余伝】
・・・
国には君王がいる。
いずれも六畜の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。
・・・
飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗爵(返杯)をし、その立居振舞は礼に適う。
・・・
国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。
国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦や毛織物を好んで着る。
大人は狐狸、?白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。
・・・
兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴と同じ風俗である。
・・・



【兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴(中央アジアの遊牧国家:BC209-93)の風習だった】・・・という。

昔の騎馬民族は、女人を連れ歩くのは厄介だったので、一族の長のみが妻帯し同行した。
弟などは、たまに兄嫁の裾を分けてもらったという。
「お裾分け」の語源だ。^^


【いずれも六畜の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、・・・・・】

蘇我馬子など、動物の字を含んだ名前はその名残。


【国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。】

白を好むのは 日本の武士と同じ風俗だ。
日本にもその扶余族が入植したが、彼らが蘇我系や白を好む源氏系の一族なのである。


幕府という名も、遊牧民族の幕を張った習わしからのようだ。^^

つまり、日本の武士の風習に似ているのは、扶余からの 渡来帰化人が 多くいたのだ。
扶余の族は、公家らから 長らく 【賤民】 とされていたが、やがて 武士の時代が来たとき、差別する階層のいない、遠くはなれた鎌倉で 幕府を開いた。



私は、崇神朝は この系統ではないかとも 思っています。^^

また 兄弟型 一妻多夫婚 夫婦は、現代でも残っている。
それは、2010/04/19 の産経ニュースに、中国 雲南省 迪慶藏族(チベット族)自治州 徳欽県の 1つの村で取材した 兄弟型 一妻多夫婚 夫婦の記事が 掲載された。
それによれば、3人兄弟のもとに嫁いだ妻は 一妻多夫婚をしている事実を明かすと同時に、その村の 全9戸の中で 5戸が 一妻 多夫婚をしていると 述べている。

 
[PR]
by hansaki460 | 2012-03-29 06:12 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

奴隷にされた日本人たち

.
奴隷にされた日本人たち


現存している ポルトガル国王、ドン・セバスチャンの勅令がある。
日付は1571年3月12日。(戦国時代 )
『 インド地方における 奴隷日本人に関して 以後なしたるものは、財産没収する。 告発したものには その半分を 下付する。』 というものです。


徳富蘇峰の 『 近世日本国民史 』 に、次のように記されている。

豊臣秀吉の祐筆・大村由己の 『 九州動座記 』 には、
『 後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を 男女問わず 数百人ずつ 黒船が買い取り、手足に鉄の鎖を付け 舟底へ入れて運び去るは、地獄の 責め苦にも まさって、むごい有様である。』

『 キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに 女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って 船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま 地獄のごとし 』。

とある、という。

そして、信長が 何千人も殺したのを見て、『 奴隷に売れば、儲かるものを!』 というような 記録も あるという。
e0171497_735560.jpg

その結果、16世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも日本人奴隷は売られるようになり、天正10年(1582)に ローマに派遣された天正遣欧少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して驚愕し、その会話が記録に残されている。


また、1603年の 記録には、
『 インド人民の王・スペイン国王フェリッペ二世陛下の城を 守っているのは、白人の五,六倍もいる 日本人奴隷で、好戦的な彼らは 鉄砲を持ち 土民を 撃退しています。』
とある。

当時、『倭寇』 が南方の海に出没したと 伝わっているが、日本人奴隷を兵にして、戦わせたものではないか?

しかし、日本の歴史家は 余り語らない。
『 日本 奴隷史 事典 』 の ことを昨日に書きましたが、今日のこれらも事実です。
[PR]
by hansaki460 | 2012-03-28 07:35 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

『 日本奴隷史事典 』のこと

.
『日本奴隷史事典』のこと


タブーに挑戦です。^^

『阿部弘蔵』の名は、ほとんど知られていません。
幕府 崩壊時の野戦争で寛永寺を守った彰義隊の生き残りであり、「彰義隊」の名の命名者と伝わっており、彼が『日本奴隷史』の著者です。

阿部が日本の奴隷の歴史に強く関心を持ったのは 明治19年、英国船ノルマントン号遭難事件があったからだといいます。

ノルマントン号は、紀州沖を航行中に座礁難破、イギリス人ら白人の乗組員と乗客は全員救助されましたが、日本人乗客は25人全員が救助されず 死亡したのです。
また 船底に押し込められていた支那人奴隷は 大半が鎖につながれていて脱出できず、船とともに 海の藻くずと消えました。

船長はとっとと脱出して、日本人乗客を置きざりにしたことが露骨だったため 世論が沸騰しました。
そういう遭難事件だったのでした。

阿部は日本の奴隷を研究していたが、この事件を知っていっそうその研究に打ち込み、明治23年に『日本奴隷史』を完成させたのでした。

しかし当時は 国威発揚の時代で、日本に奴隷が存在したことは挙国一致で富国強兵を進める権力側にとって都合が悪く、出版が許されませんでした。

そして彼の死ぬ間際の昭和3年になって はじめて刊行されたのですが、戦争の時代に入り、本はやがて葬り去られて いきました。

その半世紀も埋もれていた阿部弘蔵を発掘して、大著『 日本奴隷史事典』を復刻したのが 八切止夫でした。
それが、図書館から借りて手元にありますが、初めて見る人には ショックが大きいです。^^;
e0171497_7123363.jpg
阿部弘蔵『日本奴隷史事典』の目次を紹介します。

第 一 章  奴隷の起源
第 二 章  奴隷の定義
第 三 章  世期の区別
第 四 章  上世期甲部奴隷の種類 (奴婢、部曲)
第 五 章  上世期甲部通論
第 六 章  上世期乙部奴隷の種類 (乞食、餌取、遊女、夷俘など)
第 七 章  上世期乙部通論
第 八 章  中世期奴隷の種類 (乞食、穢多、遊女、田楽、奴婢、雑色、
               小者、足軽など)
第 九 章  中世期通論
第 十 章  近世期奴隷の種類 (穢多、非人、奴女、水替人足、宿場人
               足、角兵衛獅子、軽業児、遊女、歌舞
               伎役者、陰間、町芸者、中間、下女、
               若党、足軽など)
第十一章  近世期通論
第十二章  三世期奴隷の概数
第十三章  奴隷境遇の概要及び服後の有無
第十四章  奴隷種類表
第十五章  奴隷系統図
第十六章  奴隷類似の良民の品種
第十七章  結論

寝た子を起こすなという人もいますが、国民をばかにした論だと思います。
ほんの一握りの 支配者階級を除いた我々の先祖は、嫡子でなく、非嫡出子=庶子 の民とされて、今でも「庶民」と自称するありさまなのです。

古代史を覗いていると、避けて通れない命題なのです。

なお、『日本奴隷史事典』は、少し大きな都市の図書館なら、必ずあるはずです。


「庶民」 とは、非嫡出子=庶子 の 民の意味であり、起源は 奈良時代に遡りますが、解説は 別の機会に譲ります。

 
[PR]
by hansaki460 | 2012-03-27 07:19 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

庶民に対する蔑称【阿呆】【馬鹿】とは?

.
庶民に対する蔑称【阿呆】【馬鹿】とは?


野田総理は、韓国に来ているオバマ大統領にも会えずにいるのに、消費税に政治生命を賭けると云っています。
どうも、財務官僚が人事異動(次官の退官)する前に、法案を通さないと・・・、と思っているようで、財務官僚からは、政治家は使い捨てと、馬鹿にされているようです。^^


7世紀の645年に、大陸の唐制に倣って、国民を「良民」と「賤民」とに大別する『良賤の法』が制定されました。
【良民】・官 ・公民 ・品部 ・雑戸
【賤民】・陵戸 ・官戸 ・家人 ・官奴婢 ・私奴婢 (五色の賤)

差別する階層と、差別される階層が、公のものになったわけです。^^;

この中央集権的な統治制度を 『律令制』 といいますが、そもそも差別とは、差別する階層がいるから 差別される階層がいる訳で、この場合、大陸の唐制に倣ったと言うことは、第2次大戦後、日本国憲法をGHQが作った例で分かるように、大陸の唐の勢力下で作られたと理解するのが常識的です。


さて、人を嘲る場合の蔑称として、【馬鹿】と、【阿保】がありますが、それは賤民に対する蔑称で、もっぱら良民側からのものなのです。

弥次喜多道中の話は、奴(やっこ=海の民)さんと、北(山の民)さんの事で、庶民(非嫡出子=庶子の民のこと)を指す言葉です。
e0171497_846313.jpg

ですから、奴(やっこ=海の民)さんの蔑称が阿呆。
北(山の民)さんの蔑称を馬鹿といいました。

差別した階層は、唐=籐原や、寺の僧、公家らです。

そういえば、司馬遼太郎さんが、籐原の血を引く冷泉家を訪問した時に、「地下の者が来た」といって取り次がれた、と書いていました。

現代でも、公家の末裔は、庶民=国民を そう見ているのですね。
【官僚】も同じ目線で 国民を見ているようですが・・・・。^^;

京都や大阪など、関西に差別が強く残っているのは、差別する階層が、根強く残っているからでしょうね。

 
[PR]
by hansaki460 | 2012-03-26 08:47 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

二千年前から伝わる地名の話

.
二千年前から伝わる地名の話


赤須の里の「大御食神社」と「赤須彦館」の間に、日本武尊に係わる地名で、「湯奉の沢」という地名があります。
e0171497_6551984.jpg

それは、約1,900年前、日本武尊が東征の帰路、この赤須の里で三夜過ごしたことが、神代文字で書かれた社伝記に 記されています。


 御食津彦(みけつひこ)の乙女 一人あり、名を 押し姫 と云う。
 尊 いと愛(め)で給いて、三夜 御座(おはし)ませり。

 別れに臨みて 歌いて 詔り給はく、
  「 二夜三夜、二人寝しかも、飽かずかも。
   美し乙女 愛(あ)しけやし。
   居立ち 廻(もとほ)り、愛(は)しけやし 乙女 」

 押姫 答(いらえ)歌 奉りて、
  「 愛しけやし、我が大君の御手に捲く、珠持つ日根子 忘られず、
   珠持つ日根子 忘れられず、
   吾夫(あせ)を占(し)め延(は)む、吾夫を占め延む。」

 御食津彦 人々共に 日本武尊を送り奉れり。


 
このとき、日本武尊が 湯を使った場所が「字 湯奉の沢」なのです。
慶安二年(1649)の御検地帳に記されており、今に至っています。
e0171497_659496.jpg

十数年前に、その沢に架かる橋が架け替えられました。
その時、橋の欄干に取り付けるプレートに、産湯(うぶゆ)の絵が用意されていました。
その事を聞いた ある方が 請け負ったゼネコンの社長に、「史郎さんのところへ聞きに行け」 と言ったそうな。

後輩のその社長が、出来たばかりのプレートを持って、私の事務所を尋ねて来ました。
私は、「その産湯の絵を使えば、あなたの会社は 孫子の代まで笑われるよ」 と言って、上記の話をした。

社長はすぐに、日本武尊の姿が書かれたプレートに作り直し、竣工に間に合いました。^^
これで、1900年前の出来事が、現地で語り伝えられます。

 
[PR]
by hansaki460 | 2012-03-23 07:06 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)