信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:歴 史 秘 話( 94 )

「駒ヶ岳」の由来と『こま人』

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「駒ヶ岳」の由来と『こま人』   (再掲)


伊那谷から、木曽駒ヶ岳と甲斐駒ヶ岳が見えます。

駒ヶ根市は 駒ヶ岳サミットを提唱した市ですが、全国には、正式名称では16ケ所、通称では大小いくつの駒ヶ岳があるのでしょう?
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駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川 以北にありますが、それには大きな理由があります。

紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による 『(前)高句麗 』という国がありました。

日本語での古名は 「こま」 です。 

混同されやすいですが、『後 高句麗』(899年~918年)とは違う国です。 当然、高麗(こうらい)とも違います。 
高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。


古代、「こま」 の国からは、『弊賂弁(へろべ)島』 と 『渡(わたり)島』 を経て、列島に 多数の帰化人が入植しました。

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彼らが附けた山の名が、『駒ヶ岳』 なのです。
彼らはやがて、唐・高句麗系の 進駐軍の支配する、大和朝廷に支配される側となりました。

日本海を見ると、ほぼ中央に 大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に 『粛慎人が 「佐渡嶋北」 に住み着いた』 とあるところの、今は無き 『弊賂弁島 』 と 『渡島』 です。
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大和朝廷の貴族や官僚たちは、「倭人」 を 『弥次さん』、「こま人」系などを 『喜多さん』、また 「八つぁん、熊さん」 とか 「野次・馬」 と 揶揄し、差別・卑下と 懐柔策で 日本の国を支配してきました。(弥次は 八族と同じ、熊・馬は 北と同じ意味)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は 朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の強化・存続を図ったのでした。
by hansaki460 | 2012-04-04 05:57 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

美しい 婢(女奴隷)の送り状

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美しい 婢(女奴隷)の送り状  (再掲)


東大寺の大仏は、信仰のためだけではなく、権力者の威光を示すためのものでもあった。

そもそも律令制度とは、専制制度にほかならない。
王土王民、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念は、権力者のものなのである。
(ただしこの事は、今日に至る歴史の必然でもある、と思います)


東大寺 正倉院文書にある『美濃の国司解』の中の記録を見てみよう。


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 婢 古都賣(こつめ) 年廿 右頬黒子  価  稲 捌伯束

  右 恵奈郡 絵下郷 戸主 県主人足 口 県主息守 之賤



とある。

すなわち、

古都賣(こつめ)と呼ばれる、頬にほくろのある、

婢(女奴隷)の 二十歳の娘を、

美濃の国司が中央官庁へ送った送り状


なのである。


「稲 捌伯束」とは、稲 八百束で売買されたということだ。
当時、馬 一頭も 稲 八〇〇 ~ 一〇〇〇束 だったという。



天平十二年(741年)聖武天皇が大仏の建立を計画し、天平勝宝元年(749年)に完成した。
当時の孝謙天皇は、この際に東大寺へ 封 四〇〇〇戸、奴 一〇〇人、婢 一〇〇人を 施入することにした。

美濃国へは、年は三十歳以下 十五歳以上で、顔かたちのよい 奴 三人と 婢 三人を 正税をもって買い求め差し出すことを命じた。

当時の美濃守、大伴兄麻呂はさっそく奴婢を手に入れ、翌年天平勝宝二年(750年)に六名の奴婢を解状とともに送り届けた。
そのうちの一人が、恵奈郡絵下郷の 婢 古都賣(こつめ)だった。

ホクロのある 顔かたちの美しい娘であったのである。
by hansaki460 | 2012-03-31 05:02 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

「お裾分」の語源と武士の出自

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「お裾分」の語源と武士の出自


夫余(ふよ)という国が、BC200年頃から満州の地に存在し、のちに高句麗の広開土王(374-412)が 東夫余を討伐したと、『広開土王碑』に記されている。

六世紀当初には「勿吉=靺鞨(まっかつ)」と「高句麗」によって駆逐されているが、北夫余(豆莫婁国:ずまくる)は唐代まで続いた。

この扶余国のことは、三国志魏書扶余伝に記されている。
烏丸鮮卑東夷伝(魏志倭人伝)に、邪馬台国についての記述があり有名だが、扶余伝も興味深い。
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【三国志魏書・扶余伝】
・・・
国には君王がいる。
いずれも六畜の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。
・・・
飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗爵(返杯)をし、その立居振舞は礼に適う。
・・・
国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。
国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦や毛織物を好んで着る。
大人は狐狸、?白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。
・・・
兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴と同じ風俗である。
・・・



【兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴(中央アジアの遊牧国家:BC209-93)の風習だった】・・・という。

昔の騎馬民族は、女人を連れ歩くのは厄介だったので、一族の長のみが妻帯し同行した。
弟などは、たまに兄嫁の裾を分けてもらったという。
「お裾分け」の語源だ。^^


【いずれも六畜の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、・・・・・】

蘇我馬子など、動物の字を含んだ名前はその名残。


【国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。】

白を好むのは 日本の武士と同じ風俗だ。
日本にもその扶余族が入植したが、彼らが蘇我系や白を好む源氏系の一族なのである。


幕府という名も、遊牧民族の幕を張った習わしからのようだ。^^

つまり、日本の武士の風習に似ているのは、扶余からの 渡来帰化人が 多くいたのだ。
扶余の族は、公家らから 長らく 【賤民】 とされていたが、やがて 武士の時代が来たとき、差別する階層のいない、遠くはなれた鎌倉で 幕府を開いた。



私は、崇神朝は この系統ではないかとも 思っています。^^

また 兄弟型 一妻多夫婚 夫婦は、現代でも残っている。
それは、2010/04/19 の産経ニュースに、中国 雲南省 迪慶藏族(チベット族)自治州 徳欽県の 1つの村で取材した 兄弟型 一妻多夫婚 夫婦の記事が 掲載された。
それによれば、3人兄弟のもとに嫁いだ妻は 一妻多夫婚をしている事実を明かすと同時に、その村の 全9戸の中で 5戸が 一妻 多夫婚をしていると 述べている。

 
by hansaki460 | 2012-03-29 06:12 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

奴隷にされた日本人たち

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奴隷にされた日本人たち


現存している ポルトガル国王、ドン・セバスチャンの勅令がある。
日付は1571年3月12日。(戦国時代 )
『 インド地方における 奴隷日本人に関して 以後なしたるものは、財産没収する。 告発したものには その半分を 下付する。』 というものです。


徳富蘇峰の 『 近世日本国民史 』 に、次のように記されている。

豊臣秀吉の祐筆・大村由己の 『 九州動座記 』 には、
『 後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を 男女問わず 数百人ずつ 黒船が買い取り、手足に鉄の鎖を付け 舟底へ入れて運び去るは、地獄の 責め苦にも まさって、むごい有様である。』

『 キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに 女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って 船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま 地獄のごとし 』。

とある、という。

そして、信長が 何千人も殺したのを見て、『 奴隷に売れば、儲かるものを!』 というような 記録も あるという。
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その結果、16世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも日本人奴隷は売られるようになり、天正10年(1582)に ローマに派遣された天正遣欧少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して驚愕し、その会話が記録に残されている。


また、1603年の 記録には、
『 インド人民の王・スペイン国王フェリッペ二世陛下の城を 守っているのは、白人の五,六倍もいる 日本人奴隷で、好戦的な彼らは 鉄砲を持ち 土民を 撃退しています。』
とある。

当時、『倭寇』 が南方の海に出没したと 伝わっているが、日本人奴隷を兵にして、戦わせたものではないか?

しかし、日本の歴史家は 余り語らない。
『 日本 奴隷史 事典 』 の ことを昨日に書きましたが、今日のこれらも事実です。
by hansaki460 | 2012-03-28 07:35 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

『 日本奴隷史事典 』のこと

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『日本奴隷史事典』のこと


タブーに挑戦です。^^

『阿部弘蔵』の名は、ほとんど知られていません。
幕府 崩壊時の野戦争で寛永寺を守った彰義隊の生き残りであり、「彰義隊」の名の命名者と伝わっており、彼が『日本奴隷史』の著者です。

阿部が日本の奴隷の歴史に強く関心を持ったのは 明治19年、英国船ノルマントン号遭難事件があったからだといいます。

ノルマントン号は、紀州沖を航行中に座礁難破、イギリス人ら白人の乗組員と乗客は全員救助されましたが、日本人乗客は25人全員が救助されず 死亡したのです。
また 船底に押し込められていた支那人奴隷は 大半が鎖につながれていて脱出できず、船とともに 海の藻くずと消えました。

船長はとっとと脱出して、日本人乗客を置きざりにしたことが露骨だったため 世論が沸騰しました。
そういう遭難事件だったのでした。

阿部は日本の奴隷を研究していたが、この事件を知っていっそうその研究に打ち込み、明治23年に『日本奴隷史』を完成させたのでした。

しかし当時は 国威発揚の時代で、日本に奴隷が存在したことは挙国一致で富国強兵を進める権力側にとって都合が悪く、出版が許されませんでした。

そして彼の死ぬ間際の昭和3年になって はじめて刊行されたのですが、戦争の時代に入り、本はやがて葬り去られて いきました。

その半世紀も埋もれていた阿部弘蔵を発掘して、大著『 日本奴隷史事典』を復刻したのが 八切止夫でした。
それが、図書館から借りて手元にありますが、初めて見る人には ショックが大きいです。^^;
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阿部弘蔵『日本奴隷史事典』の目次を紹介します。

第 一 章  奴隷の起源
第 二 章  奴隷の定義
第 三 章  世期の区別
第 四 章  上世期甲部奴隷の種類 (奴婢、部曲)
第 五 章  上世期甲部通論
第 六 章  上世期乙部奴隷の種類 (乞食、餌取、遊女、夷俘など)
第 七 章  上世期乙部通論
第 八 章  中世期奴隷の種類 (乞食、穢多、遊女、田楽、奴婢、雑色、
               小者、足軽など)
第 九 章  中世期通論
第 十 章  近世期奴隷の種類 (穢多、非人、奴女、水替人足、宿場人
               足、角兵衛獅子、軽業児、遊女、歌舞
               伎役者、陰間、町芸者、中間、下女、
               若党、足軽など)
第十一章  近世期通論
第十二章  三世期奴隷の概数
第十三章  奴隷境遇の概要及び服後の有無
第十四章  奴隷種類表
第十五章  奴隷系統図
第十六章  奴隷類似の良民の品種
第十七章  結論

寝た子を起こすなという人もいますが、国民をばかにした論だと思います。
ほんの一握りの 支配者階級を除いた我々の先祖は、嫡子でなく、非嫡出子=庶子 の民とされて、今でも「庶民」と自称するありさまなのです。

古代史を覗いていると、避けて通れない命題なのです。

なお、『日本奴隷史事典』は、少し大きな都市の図書館なら、必ずあるはずです。


「庶民」 とは、非嫡出子=庶子 の 民の意味であり、起源は 奈良時代に遡りますが、解説は 別の機会に譲ります。

 
by hansaki460 | 2012-03-27 07:19 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

庶民に対する蔑称【阿呆】【馬鹿】とは?

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庶民に対する蔑称【阿呆】【馬鹿】とは?


野田総理は、韓国に来ているオバマ大統領にも会えずにいるのに、消費税に政治生命を賭けると云っています。
どうも、財務官僚が人事異動(次官の退官)する前に、法案を通さないと・・・、と思っているようで、財務官僚からは、政治家は使い捨てと、馬鹿にされているようです。^^


7世紀の645年に、大陸の唐制に倣って、国民を「良民」と「賤民」とに大別する『良賤の法』が制定されました。
【良民】・官 ・公民 ・品部 ・雑戸
【賤民】・陵戸 ・官戸 ・家人 ・官奴婢 ・私奴婢 (五色の賤)

差別する階層と、差別される階層が、公のものになったわけです。^^;

この中央集権的な統治制度を 『律令制』 といいますが、そもそも差別とは、差別する階層がいるから 差別される階層がいる訳で、この場合、大陸の唐制に倣ったと言うことは、第2次大戦後、日本国憲法をGHQが作った例で分かるように、大陸の唐の勢力下で作られたと理解するのが常識的です。


さて、人を嘲る場合の蔑称として、【馬鹿】と、【阿保】がありますが、それは賤民に対する蔑称で、もっぱら良民側からのものなのです。

弥次喜多道中の話は、奴(やっこ=海の民)さんと、北(山の民)さんの事で、庶民(非嫡出子=庶子の民のこと)を指す言葉です。
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ですから、奴(やっこ=海の民)さんの蔑称が阿呆。
北(山の民)さんの蔑称を馬鹿といいました。

差別した階層は、唐=籐原や、寺の僧、公家らです。

そういえば、司馬遼太郎さんが、籐原の血を引く冷泉家を訪問した時に、「地下の者が来た」といって取り次がれた、と書いていました。

現代でも、公家の末裔は、庶民=国民を そう見ているのですね。
【官僚】も同じ目線で 国民を見ているようですが・・・・。^^;

京都や大阪など、関西に差別が強く残っているのは、差別する階層が、根強く残っているからでしょうね。

 
by hansaki460 | 2012-03-26 08:47 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

二千年前から伝わる地名の話

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二千年前から伝わる地名の話


赤須の里の「大御食神社」と「赤須彦館」の間に、日本武尊に係わる地名で、「湯奉の沢」という地名があります。
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それは、約1,900年前、日本武尊が東征の帰路、この赤須の里で三夜過ごしたことが、神代文字で書かれた社伝記に 記されています。


 御食津彦(みけつひこ)の乙女 一人あり、名を 押し姫 と云う。
 尊 いと愛(め)で給いて、三夜 御座(おはし)ませり。

 別れに臨みて 歌いて 詔り給はく、
  「 二夜三夜、二人寝しかも、飽かずかも。
   美し乙女 愛(あ)しけやし。
   居立ち 廻(もとほ)り、愛(は)しけやし 乙女 」

 押姫 答(いらえ)歌 奉りて、
  「 愛しけやし、我が大君の御手に捲く、珠持つ日根子 忘られず、
   珠持つ日根子 忘れられず、
   吾夫(あせ)を占(し)め延(は)む、吾夫を占め延む。」

 御食津彦 人々共に 日本武尊を送り奉れり。


 
このとき、日本武尊が 湯を使った場所が「字 湯奉の沢」なのです。
慶安二年(1649)の御検地帳に記されており、今に至っています。
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十数年前に、その沢に架かる橋が架け替えられました。
その時、橋の欄干に取り付けるプレートに、産湯(うぶゆ)の絵が用意されていました。
その事を聞いた ある方が 請け負ったゼネコンの社長に、「史郎さんのところへ聞きに行け」 と言ったそうな。

後輩のその社長が、出来たばかりのプレートを持って、私の事務所を尋ねて来ました。
私は、「その産湯の絵を使えば、あなたの会社は 孫子の代まで笑われるよ」 と言って、上記の話をした。

社長はすぐに、日本武尊の姿が書かれたプレートに作り直し、竣工に間に合いました。^^
これで、1900年前の出来事が、現地で語り伝えられます。

 
by hansaki460 | 2012-03-23 07:06 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)

船中八策と「天狗党」

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船中八策と「天狗党」


船中八策は、幕末維新期に坂本龍馬が起草した、新国家体制の基本方針です。
いま 橋下徹大阪市長は、船中八策ならぬ維新八策をかかげて官僚政治体制を改革しようと頑張っていますが、坂本龍馬に影響を与えた高杉晋作こそ、明治維新の功労者と言われます。
しかし、その高杉晋作が影響を受けた 天狗党こそ 維新の先駆けなのです。

     ◇

時は 154年前、安政五年(1858)七月、篤姫の夫・13代将軍家定が亡くなり、追うように薩摩藩藩主島津斉彬も死去した。
九月 江戸幕府・大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、幕府の諸策に反対する者たちを弾圧し、尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)ら 100人以上を捉え、吉田松陰らを刑死(安政の大獄)したが、文久二年(1862)1月、大老井伊直弼は坂下門外の変で暗殺された。

万延元年(1860)8月 海防参与として幕政に関わった水戸斉昭が亡くなった。

     ◇

明治維新の先駆けの「天狗党」は、水戸斉昭の死後も その意志を引き継ぎ 水戸を江戸に取って換え、世直しをしようとする「過激派」に付けられた名称だ。

当時有名人だった水戸藩士・藤田東湖の遺児・藤田小四郎をたて、武田耕雲斎らは挙兵、のち 斉昭の子の徳川慶喜の配慮を願って加賀まで行き、しかしそこで同行の妻や娘もろとも入獄を命ぜられ、やがて 一人残らず斬罪処分された、
しかし明治になると、そろって追贈位され 恩賞金も給わった。


元治元年(1864)11月1日(旧暦) 常陸大子を出発した一行は、11月15日 下仁田に入った。
翌16日、下仁田の戦いで天狗党は、4人の戦死者をだしたが、高崎藩は 36人もが戦死した。

11月19日に 和田宿に宿営した天狗党は、翌日古峠(和田峠)を越えたところで、高島・松本両藩連合軍と戦い、戦死者は 17人に及んだ。(和田嶺合戦)
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          〈和田峠の 浪人塚 (水戸藩士の墓)〉


その後、伊那谷を通過、11月23日に 上片桐・上大島分宿したおり、地元の 北原稲雄・今村豊三郎兄弟が耕雲斎本陣を訪ね、三千両献金と 間道案内を申し出、26日には清内路峠を越え、木曽路に入った。
このとき悲劇にも飯田藩は 天狗党の領内通過を見過ごしたとして、二千石を没収されてしまった。^^;

その後、徳川慶喜は朝廷に 天狗党討伐を願い出たため、天狗党はそれを避けて北上、越前へ向かったが、結局 加賀藩に降伏投降した。

ちょうどその頃、高杉晋作は、約 80名で挙兵し、下関を 再度襲撃して占拠したのだったが、その蔭で、武田耕雲斎、藤田小四郎ら天狗党の主要メンバー352人は、処刑斬首されたのだった。

明治22年、武田耕雲斎以下 411人は靖国神社に合祀され、武田耕雲斎には贈正四位、藤田小四郎には贈従四位が与えられ、中には水戸藩刀工の子もいたが、贈位されたのは水戸藩所属の者のみであった。

     ◇

しかし、表に出ない 蔭の主役があった。
医者の息子だが士分でない田中源蔵率いる三百もの少年隊だった。

彼らは、私学廃止に反抗した 当時の学徒隊だが 年少ゆえ髪を切り 童顔を隠すため紙の天狗面をかぶって、武田早雲斎らの 命で、栃木を襲い土浦城を攻めた。

この 紙の天狗面が、天狗党の名称の起こりなのである。

そして、今の日立市・昔の助川から 八溝山で一人残らず全滅した。
翌年、高杉晋作は 全国に鳴り響いたその隊名を 借用した。



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by hansaki460 | 2012-03-22 09:29 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

茶の湯は博奕(ばくち)だったという話

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茶の湯は博奕(ばくち)だったという話


茶の湯は、鎌倉時代 臨済宗の開祖 栄西(1141-1215)が 宋代の茶を使った抹茶法を伝え始まった。
『吾妻鏡』に、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が二日酔いの折に 一杯の茶を薦め、その折に『喫茶養生記』も献じられたとある。

南北朝(1336-1392)のころには、茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である 闘茶が流行した。
「本」とは 栂尾産の茶、「非」とは その他の土地でとれた茶のことで、今なら コーヒーの、モカとかキリマンジャロとかいう、産地を当てるというものだった。
それを当てる闘茶は、蒸し風呂で汗をかきつつ行う 茶博奕のことで、見物人も多数あった。

興福寺 大乗院門跡の記した『 経覚私要抄 』に、
「今日 林間(淋汗)初之、召仕者共並古市一族若党相交可焼之由仰付了。 於風呂は茶湯在之、・・・云々。」
「今日有林間(淋汗)、又有茶湯、又披立花、風呂中荘観見物なる者也」
などとある。

つまり、風呂場に屏風をたて、絵や香炉・花瓶で飾り立て、茶席には掛け字を二幅掛け、花を飾り、客が風呂からあがると 闘茶がはじまり、見物するひとびとが 遠方から集まったのだった。

当時、勝負に敗れた者が全財産を失い、自暴自棄になって自殺をはかる事件が続発し、建武3年(1336)に出された建武式目には、闘茶(賭け茶)を禁止する条項があった。

茶は もともと お湯で入れるのに、わざわざ「茶の湯」と湯を使ったのは、風呂場で行った 名残なのである。
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上記の事だけでも 不可思議な茶道だが、本当のところは もう一つ面白い。

仏教で庶民を抑えた足利期には、公家に奉公するものは 古来の祠信仰を捨てて「阿弥」を付け、仏教に帰依しなければならなかった。

だから公家らから差別される悔しさから、庶民の彼らが持ち出してきた茶に緑靑を混ぜ、生死をかけて廻し飲みをした。
たとえ死ぬ者がでても それは免罪符と考え、「侘びの茶」としたのだ。
そこには、闘茶の要素もあった。

織田信長は味方を誓う武将に、起請文だけではなくその緑靑を混ぜた『青茶』を飲ませ、忠誠の踏み絵とした。 にじり口は、逃げ出すことが出来ぬように、小さく作られた。
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やがて元禄期、吉良上野介は 千宗易の血脈を引くと称する新しい千家を立てた。
そこでは、緑靑で急性胃炎にならぬよう、茶の前と後に甘味を口に入れ、胃壁にアルカリ膜をはらせ ゆっくり 三口半で、刺激しないように飲む茶道を創始した。^^;
これにより、新興の裏千家は、婦女にも安心して親しまれ、隆盛していった。

ちなみに 茶の栽培は、日本の 原住系の除地でのみ 限定で栽培され、「侘びの茶」の抹茶は、江戸期になっても公家(今の官僚)は口にしなかった。

追、緑青の主成分である、塩基性炭酸銅CuCO3・Cu(OH)2 自体単体の毒性は 低いことが確認されている。 しかし、銅に自然にできた青緑色のさびの「緑青」には、毒性の強い硫酸銅も含まれており、それ故に博奕だったのですね。 ^^
by hansaki460 | 2012-03-18 11:57 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

縄文時代の製鉄術

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信濃の縄文時代の製鉄術


岐阜県不破郡 垂井町に、【南宮大社】があります。
古くは『仲山 金山彦神社』と云い、毎年11月には金山大祭例祭(ふいご祭り)があり、鉄(金属)の神様として崇敬をうけています。

ところで、平安時代末期の梁塵秘抄では
   『南宮の本山は 信濃国とぞ承る さぞ申す
と言います。
これは何を意味するかと言うと、鉄の神様は、南宮大社より諏訪大社の方が先だと言っているのです。


諏訪には古くから『さなぎ鈴』と呼ばれる「鉄鐸」があります。( ↓ 写真左)

鉄と銅の伝来は、ほぼ同時期であったというのが、最近の学界の共通見解ですが、信濃では縄文時代から製鉄が行われていたと言う説があります。

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信濃の国にかかる枕詞は「ミスズカル」です。

ミスズは「御鈴」で、鈴は「鈴石・鳴石」と呼ばれる,水辺の 禾本(カホン)植物の根に出来る褐鉄鉱団塊のことで、高師小僧とも言います。 ( ↑ 写真右上)
沼沢から 禾科植物を抜き取り 鈴石を採取することを、ミスズカルということばで 表されているのです。
この、褐鉄鉱団塊から実際に鉄を創る実験が行われ成功しました。 ( ↑ 写真右下)

原料は、葦や芳の根に鈴状に付着したカッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まりますが、諏訪地方の縄文土器の焼成温度は 800度を 4時間以上 必要としましたから、製鉄に必要な条件は十分満たしていました。



縄文中期の円筒埴輪や朝顔型埴輪は、キューポラ(鋳物炉)に酷似していて、これで 製鉄が行われていたと、推測できます。
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また、諏訪大社に伝わる、薙鎌は(火を起こす)風の神で、製鉄には欠かせません。

列島の原住民である縄文人は、未開(文化がない)人とされていますが、事実に反します。

万葉集の、
みすずかる 信濃の真弓 わが引かば 貴人(ウマヒト) さびて いなと 言はむかも
は、弓-とりわけ鉄鏃(矢じり)を連想させ、後段の さびては、鉄音に懸るのかも知れません。

しかし カッ鉄鉱からの縄文鉄は不純物が多く、強度に難があり、その後の青銅器の弥生文化に破れたと思われます。



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by hansaki460 | 2012-03-16 20:28 | 歴 史 秘 話 | Comments(2)