信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:歴 史 秘 話( 97 )

邪馬台国論争は、唐かぶれの論争!?

放射性物質拡散予報図はこちらです
http://taikiosen.blogspot.jp/


出典は失念したが、江戸時代のある漢学者の話である。

江戸の日本橋から、当時は江戸の外れだった品川へ引っ越したその学者に、「なぜこんな田舎へ来たのか?」と人が問うた。

その、唐かぶれの学者は 見栄を張ってこう答えた。

「唐に四里近い」・・・と。


Wikipediaで、「日本語の起源」を見てみると、
日本語は 系統関係の不明な孤立言語のひとつであり、系統はいまだ明らかになってはいない。
・・・と云いながら、類縁関係が強いと想定される言語をならべ、あたかも 日本語は外から入って来たかのような解説が並ぶ。

アルタイ語族説
朝鮮語同系説
高句麗語同系説
百済語起源説
オーストロネシア語族説
混合言語説
ドラヴィダ語族説
クレオールタミル語説
その他

しかも、縄文語や弥生語についての説はほとんど無い。

弥生時代に日本列島で話されていた言語のうちの一つが今の日本語につながる、と云うのが通説らしい。

これははじめから、弥生人(渡来人)がもたらした言語が日本語だということだ。

まったくふざけた話だ。

中には 地名などを、アイヌ語が起源だとして重視する見方もあり、なぜか人気がある。(^^

結局、日本には言葉はなかった! と言いたげに!!


縄文土器は 約1万6,500年前から、また 槍先型尖頭器の 磨製石器は 3万年前からあり、日本の加工技術が 3万年の歴史がある事の証拠があるのに・・・だ。

加えて言うなら、中国の浙江省の遺跡から約 7千年前の漆椀が発見され、漆は 中国からの渡来品だ とされてきたが、日本では 北海道函館市の垣ノ島B遺跡から 9千年前の 漆塗りの副葬品が発見されている。

つまり、漆の技術は日本で生まれ、中国に伝播した可能性のほうが高いのだ。



最近、日本語は「縄文語」を基層語としている、と云う仮説を研究している方が 発言し始めているが、未だ少ない。

冒頭に述べた、「唐かぶれ=(外国崇拝)」の学者が今でも大半なのだ。

だがしかし・・・・、(^^

古代文字で書かれた大御食神社の「美しの杜社伝記」を調べる中で、日本の神代文字と漢字の元とされる甲骨文字の類似性を指摘した「古代文字便覧」を出してからは、神代文字については偽作だという意見がほとんど無くなった。

合わせて今「やまと言葉」を調べているが、門外漢悲しさで遅々として進まず。(^^;


いや、そんなことではなくて、ひょっとしたら「邪馬台国論争」も、「唐かぶれ」学者のお遊びに過ぎないのではないか?と思い始めてきた。 (バッシングを受けそうだな(^^;)

なぜなら日本の歴史書には無く、2000年近く前の事を記した「魏志倭人伝」にある記述を、あたかも日本建国の一大事の如く論争し、日本の古史古伝を忌み嫌うと云う図式に見えてならないからだ。
(またまたバッシングが・・・・)

ここまで書いて、次に進む勇気が無くなった・・・。(トホホ)

続きはまたの機会に。 m(_ _)m





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by hansaki460 | 2013-11-14 10:07 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

やはり、伊那谷は「風の谷」だった!

やはり伊那谷は「風の谷」だった!

伊勢津彦は風の神であり、むかし信濃国へ渡ったという話があります。

伊勢津彦とは、『伊勢国風土記』逸文に見える 神武朝の神。

伊賀の 安志(あなし)の社に坐す神・出雲神の子・またの名を出雲建子命、天櫛玉命。石で城を造って居住していました。

神武が派遣した天日別命に、「国土を献上するか」と問われ、「否」と答え、伊勢を風濤に乗じて自ら去りました。

その後の、補の文に「近くは 信濃国にいる」とあります。


江戸の国学者・伴信友は『倭姫命世記考』でこう述べています。

伊勢津彦は 出雲神で 伊勢を領していた。

建御名方神は 一旦 伊勢津彦を頼って伊勢に逃れ、その後 信濃に去った。

だから 伊勢津彦は、その後に 信濃に逃げられた。

・・・・・

古代文字で書かれた「美しの杜伝記」には、こんなことが記されています。

允恭天皇の御代、秋文月、十一日より 嵐風 疾(とき)雨降りて 五日五夜 来よりて 小止まず。
故に 八十上津彦、大御食ノ社 神の前に御祈りするに 神 告げて詔り給はく、
大草ノ里 黒牛に坐ます 風の神の祟りなり。 この 神実(かみざね)を祀らば 穏(おたひ)ならむ」
と、現(おつつ)に 詔り給えり。

大草ノ里の長 武彦、岩瀬、阿智ノ宮主 牛足彦と共に議りて、種々の物を捧げ奉りて 称辞(たたえごと)申し給ひしかば、風なぎ 雨 止みて 穏になりけり。

七日の次の日 空晴れて 日の御影 明らかなり。


すなわち 伊那谷の大草の里(現 中川村)に 風の神がいます・・と。
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        中川村 黒牛の「風の三郎神社」

・・・・・

小町谷家は、我が里・大御食神社の社家です。

『百家系図稿』に、その「小町谷」系図、があります。

その系図に、八意思兼尊の子・天表春命の子として「大久延建男命」という人がいます。

そして、「大久延建男命」の添え書きに、
 
「建御名方命 諏訪に到り給いとき 大草に到座 大久延建男命と云う者あり」
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とあり、建御名方命とのかかわりが見て取れます。

これを見たとき、「この方が、伊勢津彦ではないか? でもそうなると、小町谷系図なるものの 信憑性が・・ 」と、考え込んでしまいました。

いろんな思いが 頭の中を駆け回っていますが、

① 伊勢津彦は 風の神 とされ、出雲神の子で又の名を 出雲建子命と云い、信濃に去った、とあり、

② 方や、大草ノ里には「黒牛に坐ます風の神」がおり、

③「小町谷」系図には「建御名方命 諏訪に到り給いとき 大草に到座 大久延建男命と云う者あり」

などとあることから、やはり、伊那谷は「風の谷」だったんだ!

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by hansaki460 | 2013-07-07 04:49 | 歴 史 秘 話 | Comments(3)

中国人が「支那」と呼ばれるのをいやがる理由

中国人が「支那」と呼ばれるのをいやがる理由


中華人民共和国の通称は、チャイナ(China)で、シナ(支那)と同じなのに、なぜ日本語の「支那」だけをいやがるのか?

この謎を解くには、竹内文献を紐解くとよく分かる。
なぜなら「支那」という意味は「枝の国」という意味なのだ。

         ◇

中国の史書から、いくつか拾ってみよう。

Ⅰ)『十八史略』巻一  太古
天皇氏、以木德王。歳起摂提。無為而化。兄弟十二人、各一万八千歳。
すなわち「天皇氏は太古の昔から 王である」と記されている。

Ⅱ)前漢代、袁康の『越絶書』には、「夫れ、越王勾践は、東僻と雖もなお、天皇の位に繋がる」すなわち、「東方僻地の(日本に近い)王は、天皇たり得る」とある。

Ⅲ)唐代の補筆された『史記』の冒頭に、「最初に天地のうちに現れた君主が、天皇である」と記されている。

Ⅳ)四世紀の道士 葛洪は 著書『枕中書』のうちで、扶桑大帝東王公は天皇なりとし、「扶桑大帝は東王公であり、元陽父と号し、碧中に住す。…上に太真宮有り、天皇と為り…云々」と、説いた。
すなわち「天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる君主神」ということである。 
(斎藤忠著「盗まれた日本建国の謎」を参考にしました。)


この『枕中書』の「…上に「太真宮」有り、天皇と為り…云々」とある「太真宮」については、日本の『竹内文献』では、[スメラミコトの称号は、日球の国のホドの神(天神)と、地球のミドの神(人祖)から生まれた 国萬造主(くによろずつくりぬし)が、上の位の神より「天神人祖初 神宮」で授かった]、とある。

すなわち、大陸では【太真宮】、竹内文献では【天神人祖初 神宮】と、双方に共通する「お宮があった」という認識が存在したのだ。


          ◇


そのうえで、「竹内文献」には、天地開闢以来存在した「スメラミコト」は、地球上の枝国(えだくに)を巡幸し、子らを各国に赴かせた、とある。

それによると、日本は祖国(おやくに)で、枝国が 十六国あったという。
その中の大陸へは、スメラミコトの子「盤支那弟清民王」が赴き、その地を 祖国「天津(あまつ)国」にちなんで、「天津」と称した。そこが現在の天津市だという。

そして子孫には、
A)「華唐古氏」~ 伏義氏・神農氏の系統と(これらは中国の神話の世界とされている)、
B)「支那華氏」~ 北京氏・南京氏・福建女氏・四川平氏ら系統がいる、とも記されている。

          ◇

つまるところ現代中国人には、東方には太古の昔から王である天皇氏が存在したという記憶があり、支那国はその「スメラミコト」のいる祖国(おやくに)の「枝国」だったという記憶も、また存在するのだ。

それゆえ、後の時代(古代)に大陸は、世界四大文明の国だった、というプライドを傷つけるものとして、「支那=枝の国」という名称を忌み嫌うのである。

しかしこれらの記憶は、厳然として永遠に残る。

上記の話を、大陸の教養人に話せば、皆 押し黙ってしまうだろう。

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by hansaki460 | 2013-02-23 07:16 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

[竹内文書を読む-02]暦月の名称を考える

[竹内文書を読む-02]
暦月の名称を考える



暦の「月」は、月の満ち欠けで認識できます。

そしてこよみは古来、時の権力者によって定められてきました。


近年の日本では・・・

明治政府は、明治5年11月9日の太政官布告337号によって、明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日から太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、明治6年(1873年)1月1日とした。
よって、明治5年は12月3日から12月30日までの28日間が存在しない。

太陽暦への移行は、国民の生活に深く根付いていることから、なかなか変更はできなかった。
そんなことから、おもしろい逸話が残っている。


新政府の役人の給与は、年棒制から月給制にしたばかりだった。
そして、明治6年は旧暦ではちょうど閏年で、1年が 13ヶ月だった。
だから翌年は1回余分な月給を払わないといけない。

しかし、「改暦」して太陽暦にすれば「閏月」は無くなり、12ヶ月で済む。
苦しい財政の新政府にはいい話だった。


     ◇


今日のテーマは、暦月の名称と古史古伝についてですが・・・


ローマ暦に由来する暦の月名は、下記の通り、

    ロムルス・ヌマ暦     英 語
 1月 Januarius  ヤーヌス   January (Jan.)
 2月 Februarius  フェブルウス  February (Feb.)
 3月 Martius   マルス    March (Mar.)
 4月 Aprilis    アプリリス   April (Apr.)
 5月 Maius    マイア     May
 6月 Junius   ユーノー    June (Jun.)

これらはみんな神々の名前から来ている。


では、日本の暦月の名称はというと・・・、

古史古伝の『竹内文献』によると、下記のようになる。

  月 【竹内文献】  和風月名(現代)

  1月  むつひ月   睦月  むつき
  2月  けさり月   如月  きさらぎ
  3月  いやよ月   弥生  やよい
  4月  うべこ月   卯月  うづき
  5月  さなへ月   皐月  さつき
  6月  みなつ月   水無月 みなづき
  7月  はやれ月   文月  ふみづき
  8月  なよな月   葉月  はづき
  9月  ふくみ月   長月  ながつき
 10月  かなめ月   神無月 かんなづき
 11月  じぶる月   霜月  しもつき
 12月  しはつ月   師走  しわす

この名称は、大和朝より以前にあったとされる「不合(ふあえず)朝」の三代スメラミコトの時の記述に書かれている。

     ◇

伊那谷の地名でも、古代文字で書かれた古記録に因る地名が現代に伝わっているし、西洋では前述の通り、こよみは神々の名が付けられている。


今日もまた、「古史古伝は、決して偽書ではない」ということを言いたいのです。^^

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by hansaki460 | 2013-01-02 10:41 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

嫁入りした道祖神


道祖神は新しく建立するより、他所から嫁入りさせた方が霊験があるとも言われたようだ。

そんな話を耳にして、先日写真を撮りに行ってきた。^^

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道祖神の向かって左側に「帯代二十両」と彫ってある。


伊那谷の最北端の万五郎村(現 辰野町)の話である。

あるとき、村の道祖神がどこかへ持ち去られてしまった。
村人が見ると、台石の上にご祝儀と書いた紙包みが置いてある。
中には十疋(銭貨の数え方)のお金が入っていた。

道祖神の行方を調べたところ三谷という村だった。
そこで村の総代が三谷村へ行ったが白状しない。

しかたなく「高遠様に訴える」ということになったところ、三谷の人達は「実は嫁入りをさせて頂いた」と白状した。
それから改めて村の総代ら三名が招かれ、御馳走になったという。

こういう事があってから万五郎村の人たちは「何処からか道祖神様に嫁って来て貰わなければ・・・」ということになった。

結局、鴻之田村の道祖神がいいと言うことになり、ある晩大勢で行って道祖神を運んできた。
翌朝、鴻之田の人々が騒いでいるところへ、万五郎村の人々が御祝儀を持って「昨晩道祖神様を嫁入りさせて頂きました」と、挨拶に来た。

それからは「道祖神を嫁入らせるなら、結納=帯代として二十両置いていけ」と、道祖神に彫ったのだ。^^

辰野町には、金額は一定しないが 多くの道祖神に、帯代 五~百五十両と彫ってある。

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by hansaki460 | 2012-12-04 20:41 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

九州南部の韓国岳は、倭国の聖地だった

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九州南部の韓国岳は、倭国の聖地だった


韓国岳(からくにだけ)は、倭国の聖地だった。

(1)
まず、紀元前 数世紀の話である。^^
日本書紀』 卷第一(一書第4)
是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在

素戔嗚尊と五十猛は 新羅 曽尸茂梨に天降り、スサノオが この地 吾居ること 欲さず と言ったので、一緒に 埴土船で渡って 出雲 斐伊 川上の 鳥上峯に至った。(Wikipedia)


(2)
次に、紀元前 2世紀末から 4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した 馬韓について、
『三国志魏書』馬韓伝 には、
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。

韓は 帯方郡の南にあり、東西は 海を限界とし、南は倭と接し、四方は 四千里ばかり。
とし、韓と倭は接している(陸続きである)と記述している。(Wikipedia)

また、『狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中ごろ、朝鮮半島南部に存在した 倭国の領土。
狗邪韓国の成立時期は不詳。
中国の正史「三国志」「後漢書」に登場する。』(Wikipedia)
ともあり、このことは 3世紀以前の半島には、狗邪韓国という 倭国の領土があった という記述だ。

その頃の大陸では、後漢時代(25年-215年)に、
桓、靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓国。

桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制御できず、多くの民が 韓国に流入した。

184年、「黄巾党の乱」が勃発し、魏の曹操の勢力は 青州黄巾党の一部と 五斗米道を陣営に取り込み、後の 晋王朝の基盤を築いた。

このとき、戦乱を嫌った 大量の黄巾党が 山東省から対岸の朝鮮半島や日本列島に逃げ込んだ と思われる。
これは卑弥呼の頃であり、倭国大乱の時期とも重なる。

また三世紀の 三韓征伐は、黄巾党の流入などにより混乱した 半島南部に影響を及ぼしたものかもしれない。


(3)
その後 6世紀には、こんなことがあった。
『日本書紀』によると 継体天皇6年(512年)に百済からの任那 四県の割譲要求があり、金村はこれを承認し、代わりに 五経博士を渡来させた。(Wikipedia)


(4)
そして、10世紀に完成した「唐会要」には、
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。
とあり、倭国は 半島から海を越えると 明記している。


日本と中国の史料で、紀元前から 半島南部には日本(倭)領があり、しかし 六世紀に大伴金村が、百済に割譲して、日本(倭)領は無くなった ということが一致している。

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他にそのことについての記述は? と探してみるとあった。

韓国岳(からくにだけ)だ。

古事記には空国とあり、虚国嶽とも書かれている。

(晴れた日には 韓の国まで見渡せるほど高かったから 名が付いたとの説もあるが、今の韓国とは 関係がない。)


例えば、
・はらから(同胞) 兄弟姉妹のこと。
・うから (親=族)血縁の人々の総称。血族。親族。
・やから (輩=族)同じ血筋の人々。一家一門。眷属。一族。
・ともがら(輩)  同類の人々をさしていう語。仲間。

などの言葉に共通した(から)という言葉の存在がある。


古代、半島の南部の国々をこう呼んだ。

・狗邪韓国 :3世紀中ごろ倭国の領土だった。
       朝鮮半島南部に存在した狗邪韓国は、『くやから』と呼んだのではないか?
・伽耶諸国 :『宋書』で「任那、加羅」と併記される。
・意富加羅国:『日本書紀』垂仁天皇の条に、崇神天皇の御代、意富加羅国の王子・
       都怒我阿羅斯等、またの名、于斯岐阿利叱智干岐が、日本へやってきたとある。
・馬韓・弁韓(弁辰)を、字は多様だが『から国』と言った。
・金官伽耶 :駕洛国


すなわち、古代 倭国を構成した半島南部の国々は、はらから(同胞)の国であり、うから(血族)の国だった。

しかし、その後半島は、北からの 族に簒奪され、今に至っている。

過去に、
① 百済の支配層と 被支配層の言葉が違ったことを 指摘し、
また、
② 現代も、半島南部は政治的にも差別されていることを指摘した。


からこく=倭国、その聖地が『韓国岳』だったのではないだろうか?

   
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by hansaki460 | 2012-09-01 08:03 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

石垣島で 2万4千年前の人骨を発見


石垣島で 2万4千年前の人骨を発見!

与那国島海底遺跡の近く ムー大陸との関連か?


昨年11月、石垣島で 2万4千年前の人骨を発見、国内最古を 4千年更新したという報道があった。

沖縄県石垣島の 白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴から出土した人骨に、2万4千年前の値を示す骨が 確認されたと、沖縄県立博物館・美術館が 10日、明らかにした。
骨を直接分析した 年代測定値の例としては 国内最古となる。

同洞穴では 旧石器時代の人骨が出土しており、これまで 2万年前の旧石器時代人の骨が 確認されていたが、今回はそれを 4千年さかのぼって更新した。
asahi.com
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この近くには、1986年に発見された 海底遺跡がある。
現琉球大学名誉教授の 木村政昭氏を中心として調査が行われた遺跡は、まだ断定されていないが、人工的に加工されたとも考えられる巨石群からなることから、与那国島海底遺跡と呼ばれる。

          ◇

スンダランド
約7万年前頃から始まる インドネシア付近の島々は、スンダランドと呼ばれる陸地だった。

ニア洞窟
紀元前 4万年から 西暦700年という長い期間に渡って利用された遺跡であり、古人骨も発見されている。

タボン洞窟
炭素14による放射性年代測定によると、3万年前から 9000年前に至る遺物が残っている。

コタ・タンパン遺跡
マレーシア国のペラ川西岸の段丘礫層中に石器類が発見される。
約7~3万年前頃の後期旧石器の一種と考えられています。
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「ムー文明」論
地球物理学者・東京大学名誉教授 竹内均氏は 1980年、著書 『 ムー大陸から来た日本人 』 の中で、ムー文明は あったのではないかとの説を提示した。

与那国島の 海底遺跡 を調査している 木村政昭教授は 自著でこの 「海底遺跡」 と太平洋各地の石造物を結びつけて 「ムー文明」 の痕跡であると主張している。

ムー大陸(英: Mu)は、ジェームズ・チャーチワードの著作によると、今から 約1万2000年前に 太平洋にあったとされる 失われた大陸とその文明である。

私は、限りなく 「ムー大陸(文明)はあった」 と思っている。^^
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by hansaki460 | 2012-06-07 08:05 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

伊那谷に坐す 九州の神様たち

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伊那谷に坐す 九州の神様たち


伊那谷には、なぜか、古代の九州勢の神々を祀る神社が多い。

例えば、住吉神社・塩竃神社・阿智神社・大御食神社などだが、これらの神社の祭神らは、古事記,日本書紀にある神々だが、伊那谷の南方にある泰阜村には、記紀に記されていない祭神を祀る、筑紫神社がある。

(以下再掲)
先日 飯田へ行ったときに、少し時間があったので、泰阜(やすおか)村へ行った。

泰阜村は、山村の地形でありながら、高齢者には 優しい村です。
そこで、じっくり様子を見ようと 遠回りをした。
そして ナビに導かれて役場へ行く途中、『筑紫神社』 と言う文字が 目に飛び込んできた。

古代史への血が騒ぎ出し、車を止めて境内に入っていった。
祭神が書いてない。 由緒も書いてない。

そこで近くで、作業をしていた方に、いろいろ聞いてみた。
しかし 何も知らない という。

仕方なく、役場へと向かった。出てきた職員に早速 『筑紫神社』 の事を 聞いてみた。
中年の 神社のある部落の方を 紹介して貰ったが、やはり 何も知らないという。

ますます興味が湧いて、また神社へ戻った。
参道で掃除をしていた 別の人に、御祭神を 聞いてみた。

やはり解らないという。
『神主に聞いても解らないし、はっきり言わないのだよ。』 との事だった。

その帰りに 図書館へ廻り、史料を探し、解ったことは、

筑紫神社  下伊那郡 泰阜村 字宮ノ後 3199
  祭神   高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
   相殿   八幡さま  誉別尊(ほんだわけのみこと)
  由緒   不明

なぜ 伊那谷の山中に、九州の 『筑紫神社』 があるのだろうか?
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高良大社・高良玉垂宮 があります。
筑紫の国魂のおわす宮で、福岡県 久留米市 御井町にあります。

 左殿 八幡大神
 正殿 高良玉垂命
 右殿 住吉大神

筑後国一の宮とあり、よく似ています。

【高良玉垂命】とは? 諸説

◇「高良」とは「高麗(こうらい・こま)」と同義で 高麗からの渡来人のもたらした神、という説。

◇筑後を 物部氏(天孫族)起源とするなら、高良玉垂命はその氏神、と言う説。

◇そして、高良玉垂命に比定される 「天明玉命(玉祖神)=
  天目一箇命(鉄鍛冶神で、天津彦根命の子神)」 こそ物部氏族の遠祖神、という説。

◇甲良(こうら)の大明神説。
  石清水八幡宮の摂社で、旧八幡町の氏神社。 昔は「河原社」と称されていたとか。
  方生会の行われていた川のそばにあったから・・とあります。
 「かわら」…「かうら」…「こうら」と変化して「高良」の字をあてたのだと。
  貞観3(869)年の行教夢記に 「川原神」 とみえ、「男山考古録」 には 「瓦社」 と記されてもいるとも。

◇ 他に、武内宿禰説 や 藤大臣説、月神説 など諸説あり。


◎ 久留米市の高良山の中腹に、高良山神社と呼ばる 1600年ほどの歴史と由緒がある 高良大社がある。

高良大社は昔、高良玉垂(たまだれ)宮と呼ばれ、高良玉垂命を祀っていたというが、高良玉垂命は 日本書紀にも古事記にも記録されてなく、11世紀の 「日本紀略」 の 西暦795年の条に記されるまで不明であった。
大和朝廷にとって不都合な神様だったのだろう。

大和朝廷が 西日本を統治始めたのは 528年の 磐井の乱の後からである。
西暦795年ごろから 天皇家所縁の神社としたことが 「日本紀略」 に記されているから、豪族・磐井の 筑紫国の 守護神社であったと思われる 高良玉垂宮を、大和朝廷が認めた神社として 九州一の宮に格上げしたことは十分に考えられる。

磐井もまた、以前から土地の守護神であった神社を 勝手に代えることなく、統治者となったあとも 邪馬台国時代から続いた神社を引き継いだであろうことは 想像に難くない。

しかし、磐井が 中国・呉国の流れを汲む 狗奴国の人間としたら、大和朝廷は 高良玉垂命 の存在を認めることはできないだろう。
これが 日本書紀や 古事記から 高良玉垂命が 抹消された理由かも。
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by hansaki460 | 2012-05-21 06:38 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

代官を罷免した百姓たちの話

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代官を罷免した百姓たちの話


応仁の乱(室町時代 1467-1477)の頃、百姓が、東寺領 太良庄(現:福井県小浜市)の 代官の罷免を、東寺の 惣公文所にあてて、「 御百姓等 」 の名で出した 『 太良庄 惣百姓等 申状 』 が残っている。

「乱」の騒ぎが 打ち続くなかで 近隣の所領の代官たちは、所領の警護に当たっているのに、太良庄の代官は 京からやって こなかった。

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「 これ程の 大儀に、・・・ せめて 御中間を 一人下されて、国の様子を 見聞されることも ない。 口惜しき 次第です。」

「 たとい 御百姓をば 人とは 思われずとも・・・・・・ このような ことなら、今後 下向されることが あっても、一切 御目には 掛かりません。」



中世の 百姓の論理がまかり通っているのだ。
これは、よるべき「公」の主権者(荘園主)にとって、百姓はやはり「公」としての存在なのです。

ですから、長禄三年(1459年)当時、「公」の百姓に対する不当な支配には、抗議をする権利を堂々と行使しているのです。


伊那谷でも 江戸時代、百姓が連署で 飯島代官所の役人を訴えて 罷免させた記録が残っている。

やはり、百姓は 他の民衆と比べると、特権階級だったのです。

これは専政時代の話だが、今日的には、主権者は国民だからして、国民が「公」に殉じている限り、その行動は「正義」なのだ。

しかし最近では、権力者(政府 政治家・官僚 役人)の思考回路は、専政国家を思考しているのではないかと思わせる。
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by hansaki460 | 2012-05-11 10:25 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

日本の原点は 蚕玉様

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日本の原点は 蚕玉様(こだまさま)


伊那谷では、春になると、そこかしこで「蚕玉様」のお祭りがある。
「蚕玉様」(こだまさま)とは、蚕のことだ。

記録には、伊那谷では平安時代から蚕を飼っていたと言うが、それ以前の大昔から あったに違いない。


諏訪大社の神長官の 「守矢系図」 によると、四代目に 「児玉彦命」 がいる。
建御名方命の 孫にあたる人だ。

      建御名方神 → 片倉辺命 → 児玉彦命
                            ↓ (養子)
  洩矢神 → 守宅神 → 千鹿頭神 → 【 児玉彦命 】 → 八櫛神 →


諏訪市の 「児玉石神社」 には、境内には五個の大石があり 「諏訪の七石」 の一つとなっている。 
だから今では、「児玉」 は小玉とされ、石に対する信仰とされているようだが、小玉は蚕玉様に違いない。(この事だけで、かなりの枚数が書ける。^^)
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中国古代・ 戦国時代(前五世紀~)に書かれた最古の地理書 『山海経』(せんがいきょう)に、東方海上に 扶桑国(扶桑樹とも)があると書かれ、扶桑・扶桑国は、日本の異称ともなった。

『山海経』 によると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るという。

日本は桑の国であり、蚕があったと、認識されていた。。

     ◇

日本の古伝 「ホツマツタヱ」 には・・・・、

【 シラヤマ姫は 産湯 成す アカヒコ 桑に 引く糸を ナツメが織りて 生絹の 御衣 奉る】

・アマテルが 生まれた時、アカヒコが 桑に糸を引き、ナツメがこれを織って 産着に仕立てる。

・・・・・とあります。

ナツメ(縫侍)は、産着を織る侍女のこと。
『古事記』 では、夏高津日神(なつたかのひ)- 別名 夏之売神(なつのめ)であり、穀物神の 大年神(歳徳神)の系列にいる。

     ◇

ここまで 日本ではおそらく 縄文時代から桑があり、蚕が飼育されていただろうということの 検証をした。


★ では 何を言いたいかというと、日本列島は、大陸や半島から見た場合、今まで日本列島は、虐げられた人々の駆け込み寺的な土地だという認識が、主流を占めていた。

しかし、決してそうではなく、むしろ大陸の覇者らが絹を求め、交易を求めて渡来したのではないかとも思う。



今日は まだ序論に過ぎないが、日本は 縄文、いや石器時代の昔から、素晴らしい国だったのだ!
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by hansaki460 | 2012-05-09 07:32 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)