信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:歴 史 秘 話( 95 )

お猪口の話


地名「くなしり(国後)」島 は、やまと言葉(日本語)
しれとこ(知床)も、やまと言葉(日本語)、と言う話を書いた。

通説は「くなしり(国後)」を、島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で「クナシル」と呼んでおり云々…と、日本語ではないとする。

お猪口の語源は、「鍾(しょう)」の呉音・福建音・朝鮮音「チョング・チョンク(chong)」に由来する云々…と、これまた通説では外来語とする。

     ◇

一方で、例えば源氏物語「乙女」では、【大和魂】についてこう書いている。
【 猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ 】
とあり、与謝野晶子は、こう訳している。
【 やはり学問が 第一でございます。 日本魂(やまとだましい)をいかに活かせて使うかは学問の根底があって できることと 存じます。 】

結局光源氏は、わが子の育て方で、中国の学問を身につけさせようと考えた。
そして理屈だけ詰めこむのではなく、社会常識を踏まえ均整のとれた感覚を、紫式部は【大和魂】と名づけた。
だから、平安時代中期から日本人は、国際人であった。

しかしこんな唐かぶれの人の話もある。
江戸の高名な漢学者が、日本橋から品川へ引っ越した時、弟子から「何故こんな田舎へ?」と問われ、「唐に四里近い」と強がった、という話を読んだことがある。

閑話休題(それはさておき)、

     ◇

神功皇后が酒を勧めた歌が『日本書紀』には、こうある。

「此の御酒(ミキ)は 吾が御酒ならず 神酒の司 常世に坐す いはたたす 少御神の豊寿き 寿き廻ほし 神寿し 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲せ ささ」

だから、酒造の神様の一人に「少彦名神」とする。

しかし、酒壽(サカホガイ)祝詞の中には、周玖那彌伽未(スクナミカミ) として出てくる。

虚能彌企破 和餓彌企那等儒 區之能伽彌 等虚豫珥伊麻輸 伊破多多須 周玖那彌伽未
この酒(ミキ)は 我が酒ならず 藥(クシ)の神 常世(トコヨ)に在(イマ)す 岩立たす 少御神(スクナミ)


「少御神=少彦名(スクナビコナ)神」と、「周玖那彌伽未=少名御・少波神(スクナミ)神」の違いがあるのだ。

沙沙貴神社(ささきじんじゃ)が、滋賀県近江八幡市にある。
式内社で、主祭神は少彦名命とする。
そして、古伝ホツマツタエでは、沙沙貴神社は少波神を祀るとある。

沙沙貴神社の北には繖(きぬがさ)山があり、その北には 猪子山が続き、古来 猪口山と呼ばれているという。

…そこでまだひとつの仮説だが、

酒壽(サカホガイ)祝詞の「この酒は 我が酒ならず …… 少御(少波神)神」であれば、酒の神の少波神を祀る沙沙貴神社の向かいの山は「猪口(いのくち)=井ノ口」であったが、漢字に置き換えられて、いつしか「井ノ口 ⇒ 猪口 ⇒ ちょこ」となった。

少波神もまた、いつしか少彦名神と混同されていった……。


神代文字で書かれた古史古伝には、やまと言葉で書かれています。
…が、日本の正統性を脅かすとばかりに、神代文字を認めません。


日本の正統性の話、まだまだ続く

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by hansaki460 | 2015-01-31 19:51 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

筑紫の高良大社の高良玉垂は、高木霊絶 !?

福岡県久留米市の高良山にある「高良大社」の話です。筑後国一宮で、古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれました。
ところが主祭神である「高良玉垂命」が何物であるか? 今もって解らない。そこで今回私は、高良大社(高良玉垂宮)の変遷を、神話の時代まで遡って見てみたいと挑戦してみました。

由来については、高良大社の歴史に諸説ある中で、「高良山に居た高木神が、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座した」と云う説を採りました。

元々筑紫には「高木神」が居た。

【日本書紀 卷第一 第一段 一書第二 】
原文
一書曰 …略… 次國常立尊  次國狹槌尊 葉木國 此云播擧矩爾 可美 此云于麻時 …略。

訳文
一書に曰はく。…略… 次に国常立尊。次に国狭槌尊。【葉木国】、此をば播挙矩爾(はこくに)と云ふ。…略。

この【葉木国】が「木(東)の常立尊」で「高皇産霊神=高木神」です。
そして「葉木国」は、今の仙台あたりを首都とする古代の王国【日高見】を建国し、その子「木のトコタチ」が初代「タカミムスビ*」となった。(*「ヒタカミ国を統べる」という意の役職名)

この初代「タカミムスビ」の子に「天鏡尊(アメカガミ)」がいる。
この「天鏡尊」はヒタカミから下って筑紫を治め始めた。つまり筑紫は当初ヒタカミ系だったのだ。
だから、東北に鹽竃神社があり、山幸彦を船に乗せて筑紫を案内した鹽土老翁神が当地で塩の作り方を教えたという話は、臨場感がある。

木の常立の子で、筑紫を治めた「天鏡尊」は「天萬尊(アメヨロツ)」を生むが、4代目の天つ君「泥土煮尊(ウヒチニ)」の処へ養子に出した。
……このことが、後になって意味を持つこととなる。

     ◇

では何故、玉垂命が高良山に結界を張って鎮座し、高木神を追い出してしまったのか、本題に入ろう。

ヒタカミ系だった筑紫に「高皇産霊神=高木神」を斎祀ったことは、前述の如くごく自然なことであった。しかしその後、記紀以前の時代に於いて大変なことが起きていたのであった。

前出の、書紀 卷第一
次に国常立尊。次に国狭槌尊。【葉木国】、此をば播挙矩爾(はこくに)と云ふ。…略。

この系統にあるところの、クニトコタチ →【クニサツチ】━ トヨクンヌ ━ ウヒチニ ━ ツノクヰ ━「オモタル」、すなわち最後の「面足尊」の代で、国常立尊の直系が絶えてしまうのであった。

その結果、日本の中央政権たる国常立尊直系(本家)が断絶してしまい急遽モトアケの神を勧請し、ヒタカミも天上の神の顕現の地となり、辺境にありながらもタカマ (中央政府) の資格を得て、皇統たる資格 を受けた。
……この時日本は分裂の様相を呈していたのだ。


だからその後 5代「タカミムスビ(豊受大神)」は、本家の立場を引き継いで日本全土を総括していたが、娘の「イサコ(伊弉冉尊)」と、泥土煮尊の養子・天萬尊の子である「アワナギ(沫蕩)」の子の「タカヒト(伊耶那岐尊)」を結婚させ、その子を以て本家としたのだった。

そして生まれた天照大神が中央政権を継承復活し、分割統治に陥っていた日本の再統一が成ったのである。


さて 後年、記紀を編纂し内外に大和朝廷の正統性をアッピールするに際して、本来神々の直系であったはずの皇統を断絶したと著す訳にはいかず、別家の伊弉冉尊と、別の別家の伊耶那岐尊を結婚させ国生みの始祖として、それ以前を神話に隠してしまったのだ。

しかしながら伊弉冉尊も伊耶那岐尊も高木神の系統であるが故に、九州政権の裔である大和朝廷は、このヒタカミの「高木神(高皇産霊神)」を隠さなければ天地開闢の神々・国常立尊直系(本家)からの正統性を保てなかった。

つまり、筑紫から高木神(高皇産霊神)の跡を消し去らねばならなかったのだ。
だから、高良玉垂 ⇒ 高木霊絶 と云う仮説が現実味を帯びてくる。

少し強引ではあるが、タカキ → 高ら たまだれ → 霊(たま)たち ではないだろうか?

「肥前風土記」にある、『高羅山につき梶山と為し給う』ほどの木々のある様は、高木にふさわしい…とも思われる。
高良玉垂命の正体は、まさに大和朝廷の仕掛け人らであったかもしれない! いや、そうに違いない!


「ツクシ」の国は、 尽くし ⇒ 尽州 ⇒ 究州とし、今の「九州」と著すようになった。
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by hansaki460 | 2015-01-02 20:53 | 歴 史 秘 話 | Comments(3)

「三種の神器」の話

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三種の神器が神宮に勢ぞろいした。

今上天皇は昭和64年(1989)1月7日に宮殿松の間で「剣璽等承継の儀」にて、神器を継承した。
よって、翌1月8日から平成の世となった。

平成26年3月25日から28日、天皇、皇后両陛下が伊勢神宮を参拝された時に「剣璽ご動座(けんじごどうざ)」があった。

この瞬間、三種の神器が神宮に勢ぞろいした。

三種の神器(みくさのかむだから)とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣)を指す。


     ◇


『古事記』では、天照大御神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に「八尺の勾玉(やさかのまがたま)、鏡、また草薙剣」を神代として授けたと記され、

『日本書紀』には、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種の宝物を賜ふ」とある。


八尺瓊の曲玉 は、【璽】とも呼び、「日(陽)」を表す 八咫鏡 に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説がある。
 皇居の勾玉は、古代のものが現存するとされる。
(源平の壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に入水水没した。曲玉はその際に箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された)


八咫鏡 は、岩戸隠れの際、天照大神が岩戸を開けた時に使われた、石凝姥命が作ったという鏡で、のちに天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。
 伊勢神宮の御神体とされるこの八咫鏡は 古来のものが現存するといわれる。


天叢雲剣 は、須佐之男命が出雲国で倒した 八岐大蛇の尾から出てきた太刀で、天叢雲と名付けられた。(書紀)
 熱田神宮に祀られる草薙剣は 古来のものが現存するとされる。


     ◇


さて、記紀以前の古伝書は『三種の神器』どう伝えているのか?



天照神の世に、各地で「ハタレ(人の道から外れたもの)」が蜂起したことがあった。
天照神はその征伐に請われて、山田郡に御幸した。

そしてついに手力男らが「ハタレのハルナ」を捕り縛り、天照神の前に額ずかせると、八英輦(ヤフサテグルマ)の帳(たれ)が静かに上がった。

この時、天照神は【八尺瓊勾玉】を身につけられ、瀬織津姫は【八呎鏡】を捧げ持ち、速秋津姫は【天叢雲剣】を携えていた。

皆 厳かに会釈されて御座にご着席になり、ハルナと対面した。

…とある。



それではそれぞれのもつ意味は何か?

【八尺瓊勾玉】には、次のような意味がある。
天照大神の統治原理を『調の押手=「調和と秩序をもたらす法」』といった。
この「ヲシテ」=押手(璽・証書)を【神璽】とし、やがてそてが【弥栄瓊の環珠(八尺瓊勾玉)】となった。

【八呎鏡】は、「マフツ(真経津)の八咫鏡」といい、【マフツの鏡】に「ハルナ」を映すと、ヌエアシモチ(穢霊)が映った。
いわば、「人の目には見えない内面の真実を映す鏡」「心を写す鏡」なのである。

【天叢雲剣】は、「八重垣(汚穢垣)の剣」である。
八重垣とは汚穢・仇を近寄らせないための、また民に罪を犯させないための幾重もの防御という意味であり、攻撃の為の剣ではなく防御・抑止の為の剣なのである。


すなわち三種の神器とは、天照大神の統治原理『調の押手=「調和と秩序をもたらす法」』を顕現するための神器なのである。


やがてこの三種の神器は、天照神から瓊瓊杵尊に三種宝が渡されたとき以来、儀礼的に八呎鏡は鏡臣に、八重垣の剣は剣臣に分けて渡されるようになった。

これは三権の分立 (現在のものとは異なる) を象徴し、独善を排して三権者の志を一つにさせるために、わざわざ分授するのである。
(三者の一致協力なしには何事も成就できないようにするため。)



またホツマツタヱにはこうもある。

天照神がこの世を去る時に、猿田彦に守るように命じた神宝は、
1,天地つ日月のサカホコキ。 
2,美しき鈴。
3,地生太刀。
(サルタはこの三神宝を八万年間 内宮で守り続け、ようやくやって来たヤマト姫に授けたと言う)


やがてこの三種の神器は、【神武】(橿原宮で即位の時)から、

1.しるしの御箱
  日の臣 (ミチヲミ) →神武→ 橿原の内宮(橿原宮) 

2.ヤタ鏡
  月の臣 (アタネ) →天種子命(神武の鏡臣)→蹈鞴五十鈴媛 →橿原の内宮

3.八重垣剣
  星の臣 (アメトミ) → 櫛御方命(神武の剣臣)→阿比良姫→橿原の内宮

  と、伝わった。



「本来、日本の国は神国である」という意味が、少しは垣間見えると思いますが、いかがでしょうか?






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by hansaki460 | 2014-04-05 11:17 | 歴 史 秘 話 | Comments(4)

「影武者 徳川家康」の話

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テレビ東京 開局50周年 特別企画番組で「影武者 徳川家康」が放映された。
信州では放送されなかったので、私は FC2動画で見たが、面白かった。
この徳川家康影武者説は、かなり以前からあり、私も興味を持っていた。


まず村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という本を出版して唱えた。
村岡素一郎(1850-1932)はその中で、
『林羅山(1583-1657)の著書『駿府政事録』には、慶長十七年(1612)家康が雑談の席で「私は子供の頃、又右衛門ナニガシ というものに 銭五貫文で売り飛ばされ、九歳から十八歳、十九歳まで 駿府に居たのだ」と語ったという。
家康公は戦国時代よくあった誘拐にあい、売り飛ばされていたのである。家臣達はみなこの話を聞いていた。』

と記す。


また 八切止夫(やぎり とめお、1914 - 1987)は、
『だから 明治新政府が 徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と 駿河七〇万石へ移封したのは、家康が 徳川の出だが 浜松の七変化都落に売られてきて育ったのを、薩長は 知っていたからである。』
と言う。

結局、勝海舟ら旧藩臣が「人の一生は重荷を背負って……」といった 家康遺訓 を作っては 各社寺へ奉納し、家康神話を作りあげ、德川家達を 公爵にし、華族会長にまでした。』と加える。

その上で、「家康は 世良田 徳川 の出身だった」という本を出している。

現在、群馬県太田市の世良田徳川には、1644年に建てられた「世良田 東照宮」がある。
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さて、TVドラマでは触れられていなかったが、家康は 上州新田から出た 世良田二郎三郎で、「新田義貞の後裔である」という。

だから、新田義貞 楠木正成を、八切止夫はこう言う。

俗に「徳川家康は 三河の松平元康が名を変えた同一人物で、先祖伝来の三河の地を守った」とされているが、平凡社の事典では
「家康は上州新田から出た世良田二郎三郎で、松平元康とは別人である」ことが示されている。

今と違って江戸時代には【権現さまは世良田】と知られていたから、「新田義貞は 神君家康公の御先祖さまに当たる」というので 代表的な豪傑と奉られた。

明治になると 今度は、明治 新政府の連中に「新田義貞は 徳川の祖 ゆえ 怪しからん」とされて、楠木正成の方が 株が上がった。



ここまで書いたが、実は、「影武者 徳川家康 説」を言い出すと、TVでは 簓者(ささらもの)と言っていたが、水平社の 被差別民らの運動と関わってくるのである。

「家康は 世良田徳川の出身だった」ということは、1924年の、世良田村の 一村民が「俺はボロを着ていても チョウリンボウ(被差別部落民の賤称)ではない」などと発言したことに端を発し、翌年 群馬県 新田郡 世良田村(現・太田市)で起きた 騒擾事件となるのである。

だから前出の、『勝海舟ら旧藩臣が「人の一生は重荷を背負って……」といった 家康遺訓を作っては 各社寺へ奉納し、家康神話を作りあげ、穂川家達を公爵にし、華族会長にまでした。』必要があった と言うのである。

長くなるので、この辺で・・・。(^^






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by hansaki460 | 2014-02-11 18:10 | 歴 史 秘 話 | Comments(10)

恵方巻の由来と意味

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寒中お見舞い申し上げます。

寒いですね、伊那谷の今朝は、マイナス8度でした。(^^;

冬来たりなば春遠からじ と申します。あと、少しの辛抱ですね。
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恵方巻きの由来

日本の古史古伝によると、

① 宇宙のエネルギーは、根源神の生みの意志により 陽と陰に分離しました。

② 陽 は 空・風・火 を、また 陰 は 水・土 を生みました。

 ・・・ここまでが、陰陽五行説の由来です。
 

③ その後、八元神(ヤモトカミ)すなわち、『ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ』の 八神が生まれました。

ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ は、それぞれが 神の名であり、八つの方位、【ト:南】、【ホ:東北】、【カ:西】、【ミ:東南】、【ヱ:北】、【ヒ:西南】、【タ:東】、【メ:西北】、を守り、またそれぞれが 方位を表す言葉としても使われました。


現在【ヱの神】が、北に在って、陰暦の11月中旬(新暦12月中旬)から12月の終わり(節分・立春)までの気象を支配しています。

また【ヱの神】は、冬に "天の精霧 (日の陽エネルギー)" を用いて春を招来する役割も持っています。

元々「恵方」とは「ヱ方」のことであり、「【ヱの神】の方向」、すなわち 北の方向 のことでした。

ですから古来、陰暦の新年 すなわち 節分の夜に、

「 去って行く【ヱの神】に向かって願い事をした 」ものが、

江戸時代末期に、大阪の船場で商売繁盛を祈願するようになりました。


そして近年、現在の 恵方(良い方角)に向かって願い事をする 恵方巻きの習慣へと、商人の手によって創られていったのでした。








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by hansaki460 | 2014-01-07 08:40 | 歴 史 秘 話 | Comments(7)

日本の古代には、秘密保護法があった? 「旧約聖書」と「ホツマツタエ」の類似と、伊勢「外宮」の秘密

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はじめに知っておいていただきたいことがあります。

それは、旧約聖書の 天地創造の話と、日本の古伝『ホツマツタエ』の天地開闢の話が、ほとんど同じだと云う事実です。

実は 竹内文献には、ホツマツタエよりも もっと納得がいく(現代の素粒子理論などに類似した)天地開闢の話が出ていますが、このことはまた別な機会に・・・。

では、旧約聖書とホツマツタエを見てみましょう。

旧約聖書

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ば れた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
・・・以下略

【 要約 】
1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。
2日目 神は空(天)をつくった。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ
    地に植物をはえさせた。
4日目 神は太陽と月と星をつくった。
5日目 神は魚と鳥をつくった。
6日目 神は獣と家畜をつくり、
    神に似せたをつくった。
7日目 神は休んだ。


ホツマツタエ

【 要約 】
① アメノミヲヤ(大宇宙の根源の意識)の
 「生の一意気(意志・念い)」は 天元神を生む。
  天元神のエネルギーは陽(昼)と陰(夜)に分離し、【 陰陽 】
② さらに陽は空・風・火、陰は水・埴に分れる。【 五行 】
③ 水・埴は地球をつくる。
④ 陽の核はとなり、陰の核はとなる。
⑤ 天元神は歳徳タマメを生み、タマメをして
 「キ・ツ・ヲ・サ・ネ」の五座の神を生む。
⑥ 空・風・火・水・埴の5つが交わって、
  地球に初めて (ミナカヌシ) が生まれる。

 ホツマの天元神は、七日目にも休まなかった。(^^


いかがでしょうか? ソックリではありませんか?

そのあとホツマツタエはこう続く・・・・・

⑦ ミナカヌシは地球の八方に万子を生むが、天元神もミナカヌシの子として地上に肉体を持ち、『ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ』の八国 を創る。

⑧ 『ヱの尊』と『トの尊』は日本に生まれ、はじめ『ヱの尊』がヲウミの中央政府を治め、『トの尊』はトシタ国 (ホツマ) を治める。 
以後『ヱの尊』と『トの尊』の尊は交代で世を継ぐ。

⑨ 天に帰って、ミナカヌシと天元神は星とされる。 【 九星 】

⑩ 天元神は人の魂の緒を下し、それで魂と魄と結び合せて、世における人の寿命を得さしめる (天つ政)。

          ◇
 

一方、『カバラ』と云うユダヤ教の思想と、竹内文書の話が類似していることを以前書いた。

[竹内文書を読む-04]天地創造・天界の秘密について、日本の旧約聖書「竹内文書」
          ◇

さて、伊勢市にある神社【豊受大神宮】は、神宮の「内宮」に対して「外宮」と呼ばれる。主祭神は、豊受大御神。

雄略天皇の二十二年 (五世紀)、天照大御神のお告げによって、丹波の国(今の京都府下、天橋立付近)から、この伊勢の国 度会の山田が原にお迎えしたと伝わる。

神殿は、日本最古の建築様式の「唯一神明造」で、ヲコヌシ神の定めた宮造り法により立てられたとする。  
・ヲコヌシ神とは、大地 (土・埴) を治める大国主(大地主)を云い、ニニキネ(瓊瓊杵尊)がクシヒコ(事代主)に与えた名で、君に仕え民を治める物部(守の侍)のことを云った。 

では祭神の「豊受大神」は、古伝ではどう語られるのか?

なぜ、天照大神の御饌、つまり神々にたてまつる食物を司さどっているのか?

          ◇

天地開闢以来、アメノミナカヌシ(天御中主神)からクニトコタチ(国常立尊)と続いていた時代の日本を【トコヨ(常世)クニ】といい、二つの理想の国があった。

それが「ホツマ国」と「ヒタカミ国」であった。


ヒタカミを建国した「ハコクニ(葉木国)」の子「キノトコタチ(東の常立)」は、初代の「タカミムスビ(高皇産霊尊)」となった。

タカミムスビは、「ヒタカミ国を統べる」という意の役職名で、以後十四代続いた。

裔の十四代タカミムスビを「ヒタカミミチノク(日高見陸奥)」と云い、ヤマトタケ(日本武尊)の皇軍に最後まで敵対したが、「オオトモタケヒ(大伴武日)」に論破されて帰順した。 

これによってナコソ(勿来)より北は「ミチノク(陸奥)」と名付けられ、「ヒタカミミチノク(日高見陸奥)」はその国守に任命され、百県の果穂を納めるようになり、これを以ってヒタカミという国名は公式には無くなった。



◆ 詳細は語り尽くせないので、古伝にある 天地創造から天照大神に到る大筋を解説しましょう。


アメノミヲヤ(大宇宙の根源の意識)の「生の一意気(意志・念い)」は 『ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ』の 天元神を生んだ。

やがて 地球に初めて 人 (ミナカヌシ) が生まれ、天元神も ミナカヌシの子として 地上に肉体を持ち、『ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ』の 八国 を創った。

その内の『ヱの尊』と『トの尊』は 日本に生まれ、やがて『ヱの尊』が ヲウミ(近江)の中央政府を治め、『ヱの尊』は トシタ国 (ホツマ) を治めた。

しかし時代が下がると、日本の中央政権たる『ヱ』のトコヨ(常世)神の直系(本家)は 絶えてしまった。

そこで 中央政府の不在という窮状に、『ト』の裔『トヨケ(ホツマ君:豊受大神)』は、トコヨの道 (皇統たる資格) を受けて『東の君』と認定された。

そして、暫定的に ヒタカミを タカマ(中央政府) とし、本家の立場を引き継いで 日本全土を総括していた。

やがて『トヨケ(ホツマ君:豊受大神)』の娘の『イサコ:伊邪那美命(分家)』と、根の国を治めていたアワナギの子の『タカヒト:伊耶那岐尊(別の分家)』を結婚させ、その子を以て 本家とすることで、中央部 (葦原中国) の窮状を救済しようと図った。

そしてアマテルが生まれ、中央政権が復活し、分割統治に陥っていた日本の再統一が成った。


だから結局、日本の中央政権たる『ヱ』のトコヨ(常世)神の直系(本家)は 絶えてしまったことを隠蔽するために、天照大神を日本の根源神の如くにし、しかし、中央部 (葦原中国) の窮状を救済した『トヨケ(ホツマ君:豊受大神)』を、神宮の近くに『外宮』として祀り、神宮の弥栄を 守り続けているのである。


七世紀に古事記は、ここまでの歴史を『神代』として神話の中に隠蔽し、且つ脚色してしまった。

しかし日本の古伝には、お読みいただいた今回の話の 100倍以上の物語り、すなわち 旧約聖書や ギリシャ神話などの神話や歴史以上のものが、実は 存在しているのだ。


そこには、東日本と西日本の秘密や、出雲・物部などの秘密が語られている・・・。


日本には古代から機密保護法があったようです。(^^






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by hansaki460 | 2013-11-27 21:28 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

伊勢の神宮(内宮)は、「さこくしろ の うち宮」

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伊勢神宮の「おかげ横町」付近を、宇治 中之切町という。

その北を 宇治 浦田といい、また神宮の周囲は、宇治 館町と、宇治 今在家町という。 

同じ「宇治」に入る。

宇治は、うち(内)のことである。
(以前書いたことがある)

何の内か? というと、「さこくしろ」の内 なのだ。


では 古伝で言う「さこくしろ」とは 何かというと、強いて表現すれば「栄貴しろ」であり、誤解を恐れず言えば、全世界の中心のことで、「高天の原」のことでもある。

だから神宮は「栄貴しろの 内宮」ということなのである。

(例えば、今でも 松茸などが生える特定の場所を「しろ」とよぶ。)

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「さこくしろ みやうち =うち(宇治)」のある伊勢は、天照大神の生まれた 日向国と同じ、東に海が開けた 日に向かう 太陽信仰(天照大神信仰)にふさわしい地であった。

また列島の中心に位置し、当時まだ「ホツマ国=東国」の勢力が帰順していない事情があり、倭姫命はこの地を日本の中心として選んだ。

そして、古伝に乗っ取り造営した。




一方 記紀以来「さくくしろ」は、五十鈴(川)に掛かる枕詞だとする。

さこくしろ = さくくしろ なのだが・・・・。


『古事記』 邇邇藝命
此二柱神者、拜祭佐久久斯侶、伊須受能宮。


『日本書紀』神功皇后摂政紀
「柝鈴五十鈴の宮」 さくすず・いすずの・みや

とある。


賀茂真淵は「鈴の裂けている口」と解釈し、田安宗武は中国の「釧」のことで金輪だと解釈した。

「釧=くしろ」とは、いわゆる腕輪のことで、金輪の一部を「裂いて」「釧」のようにしたのが鈴だから「裂くくしろ」だとした。

だから以来、古伝が顧みられなかったのである。



本来、五十鈴川は「漱(ススグ)川」であり、「禊(ミソギ)川」なのである。

          ◇

駆け足で、しかも概略を述べただけなので、きっと消化不良だと思うが(^^)、今日 言いたいことは・・・・


伊勢に神宮を祀った倭姫命の 四世紀の時代、確実に古代文字で書かれた古伝書は残っており、だから 神宮の地は 見事に 古伝の通りの作り となっている。

しかし、のちの 古事記・日本書紀編纂の以降は、漢字使用を強制し 古代文字を廃したうえに、古伝を焚書し、来歴が分からなくなってしまった。



しかし現在では、神宮には「伊勢神宮 奉納文 神代文字 保存委員会」が発足したり、また竹内文献や ホツマツタエを読む人が増えてきた。

このことは、日本人の歴史を正しく知る 糧 であるからして、コツコツと読み解いていきたいと思う。

また お付き合い下さい。m(__)m







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by hansaki460 | 2013-11-24 20:09 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

伊邪那岐命以前の時代を 神話に閉じ込めた理由

 
古事記では、伊邪那岐命と伊邪那美命を、別天神五柱(ことあま いつはしら)と神世七代(かみよ ななよ)の神々の最後に配し、日本民族の総氏神とされる天照大神の親とする。

では 伊邪那岐命の頃は いつの話だろうか?

古事記では 神代の時代を簡略化しているが、古伝の竹内文献やホツマツタエ、ミカサ文などは、かなり詳しく記しているから、伊邪那岐命より前の時代のことを推察することが出来る。


「筑紫の 日向の 橘の小戸の阿波岐原」の御池(禊ぎ池)は、伊邪那岐命が禊ぎを行った場所と伝えられ、

「伊弉諾尊が黄泉の国から帰って汚れを祓う 禊ぎの時、多くの神々が生まれ、最後に 左目を洗うと 天照大神・右目を洗うと 月読命・鼻を洗うと 須佐之男命が誕生する。」とされる。

これら簡略化された記紀の記述は、当時の いろんな政治的配慮を重ねた結果だろうが、罪なことをしたものだと思う。(^^

おそらくこの地(宮崎県)は当時、最先進地だったのだろう。
天照大神(大日霊貴)は、この地で生まれたと推定できる。

私は、伊邪那岐命は 紀元前 十世紀前後(三千年ほど前)の頃の人と推定している。
(中国古代では 春秋時代の前ころ、イスラエル王国では ソロモン王が即位したころ。)


ではなぜ記紀は、伊邪那岐命以前の時代を 神話に閉じ込めたのか?

古事記は、天之御中主神を、日本書記では 国之常立尊を最初の神とする。

天之御中主神は「天尊:アメミコト」、国之常立尊は「地尊:クニミコト」とし、だから天皇は 国之常立尊に繋がると 示唆している。


しかし「古伝」によると・・・・・

国之常立尊の裔は、~ 国狭槌尊 ー 豊国主 ー 泥土煮尊 ー 角杙神~
と続いたが、次の「面足尊」で絶えた。

そこで 泥土煮尊は、高皇産霊尊の孫の「天鏡尊」の子・「天萬尊(アメヨロツ)」を養子に迎えた。

その養子・天萬尊の子が、伊邪那岐命の親の「沫蕩尊(アワナギ)」なのである。


だから、古事記が天之御中主神を、日本書紀が国之常立尊を最初の神として、人の世は伊邪那岐命から始まったとしたのは、

【国之常立尊の正統な裔は絶え、養子の孫が伊邪那岐命だと云うことを隠す意図があった】

のでは無いかと、推察するのである。


当時の「高皇産霊尊」は『ミムスビ』ともいい、「ヒタカミ国を結ぶ(統べる)」という意の役職名で、八方の地(地方)を治める君、しかしやはり世嗣の君だった・・・。

もしかしたら壬申の乱(672)は、国之常立尊の正統な、すなわち「面足尊の直系」だという族が名乗り出ていたのか、もしくは「天鏡尊」の裔がその地位を主張したのかもしれない。

だから、古事記 日本書紀と続けて著して、勝者天武の正統性を、国内外へアピールしたのかもしれない。(^^





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by hansaki460 | 2013-11-19 17:31 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

邪馬台国論争は、唐かぶれの論争!?

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出典は失念したが、江戸時代のある漢学者の話である。

江戸の日本橋から、当時は江戸の外れだった品川へ引っ越したその学者に、「なぜこんな田舎へ来たのか?」と人が問うた。

その、唐かぶれの学者は 見栄を張ってこう答えた。

「唐に四里近い」・・・と。


Wikipediaで、「日本語の起源」を見てみると、
日本語は 系統関係の不明な孤立言語のひとつであり、系統はいまだ明らかになってはいない。
・・・と云いながら、類縁関係が強いと想定される言語をならべ、あたかも 日本語は外から入って来たかのような解説が並ぶ。

アルタイ語族説
朝鮮語同系説
高句麗語同系説
百済語起源説
オーストロネシア語族説
混合言語説
ドラヴィダ語族説
クレオールタミル語説
その他

しかも、縄文語や弥生語についての説はほとんど無い。

弥生時代に日本列島で話されていた言語のうちの一つが今の日本語につながる、と云うのが通説らしい。

これははじめから、弥生人(渡来人)がもたらした言語が日本語だということだ。

まったくふざけた話だ。

中には 地名などを、アイヌ語が起源だとして重視する見方もあり、なぜか人気がある。(^^

結局、日本には言葉はなかった! と言いたげに!!


縄文土器は 約1万6,500年前から、また 槍先型尖頭器の 磨製石器は 3万年前からあり、日本の加工技術が 3万年の歴史がある事の証拠があるのに・・・だ。

加えて言うなら、中国の浙江省の遺跡から約 7千年前の漆椀が発見され、漆は 中国からの渡来品だ とされてきたが、日本では 北海道函館市の垣ノ島B遺跡から 9千年前の 漆塗りの副葬品が発見されている。

つまり、漆の技術は日本で生まれ、中国に伝播した可能性のほうが高いのだ。



最近、日本語は「縄文語」を基層語としている、と云う仮説を研究している方が 発言し始めているが、未だ少ない。

冒頭に述べた、「唐かぶれ=(外国崇拝)」の学者が今でも大半なのだ。

だがしかし・・・・、(^^

古代文字で書かれた大御食神社の「美しの杜社伝記」を調べる中で、日本の神代文字と漢字の元とされる甲骨文字の類似性を指摘した「古代文字便覧」を出してからは、神代文字については偽作だという意見がほとんど無くなった。

合わせて今「やまと言葉」を調べているが、門外漢悲しさで遅々として進まず。(^^;


いや、そんなことではなくて、ひょっとしたら「邪馬台国論争」も、「唐かぶれ」学者のお遊びに過ぎないのではないか?と思い始めてきた。 (バッシングを受けそうだな(^^;)

なぜなら日本の歴史書には無く、2000年近く前の事を記した「魏志倭人伝」にある記述を、あたかも日本建国の一大事の如く論争し、日本の古史古伝を忌み嫌うと云う図式に見えてならないからだ。
(またまたバッシングが・・・・)

ここまで書いて、次に進む勇気が無くなった・・・。(トホホ)

続きはまたの機会に。 m(_ _)m





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by hansaki460 | 2013-11-14 10:07 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

やはり、伊那谷は「風の谷」だった!

やはり伊那谷は「風の谷」だった!

伊勢津彦は風の神であり、むかし信濃国へ渡ったという話があります。

伊勢津彦とは、『伊勢国風土記』逸文に見える 神武朝の神。

伊賀の 安志(あなし)の社に坐す神・出雲神の子・またの名を出雲建子命、天櫛玉命。石で城を造って居住していました。

神武が派遣した天日別命に、「国土を献上するか」と問われ、「否」と答え、伊勢を風濤に乗じて自ら去りました。

その後の、補の文に「近くは 信濃国にいる」とあります。


江戸の国学者・伴信友は『倭姫命世記考』でこう述べています。

伊勢津彦は 出雲神で 伊勢を領していた。

建御名方神は 一旦 伊勢津彦を頼って伊勢に逃れ、その後 信濃に去った。

だから 伊勢津彦は、その後に 信濃に逃げられた。

・・・・・

古代文字で書かれた「美しの杜伝記」には、こんなことが記されています。

允恭天皇の御代、秋文月、十一日より 嵐風 疾(とき)雨降りて 五日五夜 来よりて 小止まず。
故に 八十上津彦、大御食ノ社 神の前に御祈りするに 神 告げて詔り給はく、
大草ノ里 黒牛に坐ます 風の神の祟りなり。 この 神実(かみざね)を祀らば 穏(おたひ)ならむ」
と、現(おつつ)に 詔り給えり。

大草ノ里の長 武彦、岩瀬、阿智ノ宮主 牛足彦と共に議りて、種々の物を捧げ奉りて 称辞(たたえごと)申し給ひしかば、風なぎ 雨 止みて 穏になりけり。

七日の次の日 空晴れて 日の御影 明らかなり。


すなわち 伊那谷の大草の里(現 中川村)に 風の神がいます・・と。
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        中川村 黒牛の「風の三郎神社」

・・・・・

小町谷家は、我が里・大御食神社の社家です。

『百家系図稿』に、その「小町谷」系図、があります。

その系図に、八意思兼尊の子・天表春命の子として「大久延建男命」という人がいます。

そして、「大久延建男命」の添え書きに、
 
「建御名方命 諏訪に到り給いとき 大草に到座 大久延建男命と云う者あり」
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とあり、建御名方命とのかかわりが見て取れます。

これを見たとき、「この方が、伊勢津彦ではないか? でもそうなると、小町谷系図なるものの 信憑性が・・ 」と、考え込んでしまいました。

いろんな思いが 頭の中を駆け回っていますが、

① 伊勢津彦は 風の神 とされ、出雲神の子で又の名を 出雲建子命と云い、信濃に去った、とあり、

② 方や、大草ノ里には「黒牛に坐ます風の神」がおり、

③「小町谷」系図には「建御名方命 諏訪に到り給いとき 大草に到座 大久延建男命と云う者あり」

などとあることから、やはり、伊那谷は「風の谷」だったんだ!

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by hansaki460 | 2013-07-07 04:49 | 歴 史 秘 話 | Comments(3)