信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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カテゴリ:歴 史 秘 話( 97 )

古代の大和では、百済語で会話?

古代の大和では、百済語で会話?

古代の大和では、百済語で会話をしていたのでは? という根強い意見があります。

現代社会から 古代社会を 推測することは かなり難しい ですが、かろうじて想像すると すれば、グローバル企業が 英語で 会議をして 議事録も 基本的には 英語であったり、メールが 英語であったりするような 環境に 似ているのでは ないか? とは、想像できます。
聞くとこによると 日産が一時そうであったり、戦後GHQとの会話は当然英語であったように・・・。 

古代には 当然 国民国家というものは 存在せず、国といえば 貴族がいたに 過ぎないという 紛れもない事実があります。 当然 日本民族という アイデンティティーも まだなかった。
そして覇権者達は 今のヨーロッパの王族のように、王族同士の交流が あったのでしょう。 
民衆(国民?)は支配するもので、歴史の脇役ですら無かった。 
民衆が歴史に出演するときは、いつも まつろわぬ民・俘囚や、鬼として 征伐する 対象でしか なかった。

また一方、例えば 現代の日本でも 多様な方言が 存在しております。 明治のはじめには、地方から出てきた人々の間で、時には 通訳さえ必要だった という事実が あります。

私の住む 伊那谷は、東の文化と 西の文化の 交錯するところで、 現代にも 川ひとつ越えただけで、言葉も 習慣も 違うことがあり、多くの研究成果が 発表がされて おります。

上代特殊仮名遣の 研究でも、一元的に 見ようとする意見と、多元的に 見る意見の 違いの ところに 行き着いているのでは? と感じます。

このように、太古から現代まで 覇権(権力)も 多重・多様に 存在してきていることを 考えると、多様な文化、また言葉や文字が 存在することは、自然なことでは ないか と 思います。

記紀に代表される歴史は、ほんの一部の人たち すなわち覇権者の、支配者達の 権力構造の推移のこと、すなわち支配者の歴史です。

方や 国とはなにか? といった場合、文化・言語等やイデオロギーが 国家であり、そしてその多様性が 日本国を 形創って いるのではないか と思います。 
多様性を統合するアイデンティティーが、国柄を形創る 大切な意味だと思いますが、明治時代には、その多様性をどう統合するか?という時に、天皇制を大いに活用し 民族としてのアイデンティティーを 形成したのです。

私は、仏教・仏典を背景に 漢字を使った支配層・覇権者と、古代文字を使って続いてきた 祠庫信仰の被支配者達の 悲哀を感じます。
地方史から、そのところが 痛い程 よく見えてくるのです。
by hansaki460 | 2009-05-05 09:47 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

縄文中期から、信濃では製鉄が行われていた。

縄文中期から、信濃では製鉄が行われていた。
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【 南宮の本山は 信濃国とぞ 承る さぞ 申す 美濃国には 中の宮 伊賀国には 稚き児の宮 (梁塵秘抄・262)】

蓼科・更級(科)・明科・豊科・埴科など、信州には 今日なお 「○シナ」 の土地名が 多く残る。
科(シナ)を 特有の地形・地勢と見る説が 有力で、司馬遼太郎氏も この地形説を 支持している。

だが、シナには 鉄の意味も あるという。
真弓常忠氏によれば、鉄を意味する 多くの古語について、大きく 次の五つの語群に 分けられる。
 (@) テツ・タタラ・タタール・韃靼  (A) サヒ・サビ・サム・ソホ・ソブ
 (B) サナ・サヌ・サニ・シノ・シナ   (C) ニフ・ニブ・ニビ・ネウ    (D) ヒシ・ヘシ・ベシ・ペシ

豊前の 「犀川」 「佐比川」 には (A) サヒ音=古代産鉄の可能性があり、また 「犀川」 は、加賀にも 信濃にもあり 「犀」 は 産鉄の可能性を示す 「サヒ」 ではないか? と 指摘する。

また、信濃の国にかかる枕詞は 「ミスズカル」 であるが、ミスズと シナの関連を、こう説明する。
ミスズは 「御鈴」 であり、鈴は 「鈴石・鳴石」 などと呼ばれ,水辺の 禾本植物の根に 形成された 褐鉄鉱団塊のことで、古代製鉄の 原料となったものである。
そして 沼沢から 抜き取り 鈴石を採取することが、ミスズカル という言葉で 表されていると 指摘する。

また、百瀬高子氏は 著書 「御柱祭・火と鉄と神と」 の中で、信濃では 縄文中期から 製鉄があったという。
その製鉄材料は、葦や芳の根に 鈴状に付着した カッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まるが、諏訪地方は 縄文土器の産地であり、その焼成温度は 800度を 4時間以上必要としたから、製鉄に必要な 諸条件は 十分満たしているとする。

そしてまた 縄文中期の 円筒埴輪や 朝顔型埴輪が、明治初期の キューポラ(鋳物炉)に 酷似している事実を 指摘して、製鉄が行われていた証明に ほかならない と しいる。
そして、諏訪大社に伝わる、薙鎌は(火を起こす)風の神であり、鉄鐸は、褐鉄鉱団塊 (高師小僧)の象徴であると。。。  この説は かなり 説得力がある。

だから 『 南宮の本山は 信濃国とぞ 承る・・・・ 』 とは 真実みがあり、まさに十二世紀頃までは、諏訪の 縄文中期からあった 製鉄の伝承が 語られていたのである。 
しかしカッ鉄鉱からの縄文鉄は不純物が多く、強度に難があり、その後の青銅器の弥生文化に破れたのだ。

そして今では 弥生以前の カッ鉄鉱からの縄文製鉄技術は、砂鉄からの製鉄技術に押され、やがて 忘れ去られた。 列島の原住民である 縄文人は、未開(文化がない)人とされているが、まったく事実と反する。

【 みすずかる 信濃の真弓 わが引かば 貴人(ウマヒト) さびて いなと 言はむかも (万葉集巻2・96) 】    弓-とりわけ 鉄鏃(矢じり)を 考える時、結びつくのでは? と 思うし、後段の サビが (A) の鉄音に懸る とすれば、なかなかおもしろい と 言える。

諏訪社の 鉄器にまつわる話は 数多くあり、諏訪に係わる 権力闘争の歴史が 面白い程よく分かってくるが、それは 次回に 記す事とする

     朝顔型埴輪 ↓                      円筒埴輪 ↓   
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      現代手作り鋳鉄炉 ↓
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by hansaki460 | 2009-04-10 20:46 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

日の丸誕生秘話

日の丸は、源氏のと平氏ので できています。

今からちょうど、千年前のことです。

寛仁3年(1019年)3月27日に、中国・遼 配下の 満州の女真族(刀伊)の海賊船団が 壱岐・対馬、更に 筑前にまで 攻めてきました。 
いわゆる『 刀伊(とい)の 乱 』です。

その時 刀伊は 賊船約 50隻・約三千人の 船団を組んで、対馬や各地で 殺人や放火を繰り返し 暴れまわったのでした。

入寇の目的は 農耕民族住民の確保が あったと言われていますが、記録された被害は 殺された者 365名、拉致された者 1,289名、牛馬 380匹、家屋 45棟以上で、壱岐島では 残った住民が 35名に 過ぎなかったといいます。

・刀伊の入寇・経緯(Wikipedia)↓ 詳細はこちらをご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3..

また、藤原定家の日記 『 明月記 』 には、
『 鎮西の 凶党等 数十艘の 兵船を構へ、彼の国の 別島に行きて合戦し、民家を滅亡し 資材を掠め取る。 行き向ふ所、半分ばかり 殺害さる。 其の残り、銀器などを盗み取り 帰り来たると。 朝廷のため 太(はなは)だ 奇怪なる事か。』
とあります。
いわゆる 「 和冦 」 のはしりでいた。


この時、朝廷は、北の 『 こま人 』 を送り込んで、防人に持たせた武器が 片刃の 刀で、やがて日本刀となった と 言う説があります。
両刃では、生産が 間に合わなかったので、片刃(=かた・な) で、実戦用の刀剣には、十分でした。
以後 衛府の武官に用いられたことから、衛府太刀(えふたち)・野剣(のだち) と呼ばれ、日本刀となったともいいます。


さて、本題の、『日の丸』ですが、ご存じのように、源氏と 平氏は 権勢を張り合っていました。
しかし、海外からの来寇が増すと、必然的に 味方同士として、日本列島の守りに入りました。

もともと、源氏は 『 白 』、平氏は 『 赤 』 で、敵・味方でしたから、源平合戦以降 なかなか 同じ軍団には なれませんでしたが、外敵の前にはそうはいきません。 力を合わせました。

結局 平氏軍団の船に、源氏軍団が乗ることとなり、外敵に対抗したのでした。 
そしてこの時、両者は 源氏の 白地の旗と 平氏の 赤の旗を ひとつの旗にして、日の丸を創りました。

外敵には、皆が 一致団結をしたのでした。 
・・・・ という説。 この説には 大変説得力が あります。


現存、最古の日章旗としては、山梨県甲州市の 裂石山雲峰寺所蔵のものが知られていますが、これは 後冷泉天皇より 源義光(新羅三郎)へ下賜されたという伝承があり、時期的には、ちょうど 『 刀伊の乱 』 の後です。
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by hansaki460 | 2009-04-02 09:59 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

『 白山神社 』 と 『 駒ヶ岳 』

『 白山神社 』 と 『 駒ヶ岳 』

弾左衞門 と 『白山神社』
中山英一氏は 著書で、長野県の被差別部落の人々と 白山神社の関わりを 詳しく描写しているが、東日本によく見られる 白山神社は、一体何を 祀っているのか。 氏は 「江戸の弾左衞門の 信仰に ならったものでは ないか」 と 推測する。 そして 「権力と財力を ほしいままにした 弾左衞門が、己の職業に与えられた 精神的 いやしさ からの 解放を 必死に願わずには いられなかったであろう」 としているが、なぜ 「賤民史観」 が突如 出現してくるのか? (弾左衛門は 江戸時代の 被差別民であった 穢多・非人身分の 頭領) 
弾左衞門は、本当に 白山神社に 祈り、解放を 求めたのか?
いいや、代々の 弾左衞門 は、己の 職業に 「精神的な いやしさ」 を 感じる どころか
「誇りと 自負心」 を 持っていた はずだ。

安産の神 と 『白山神社』
折口信夫は、加賀白山神社が 「ククリヒメ」 を祀っていることから 「ケガレ淨化 との関わり」 を 指摘した。
同じく民俗学者の 宮田登は 「これは 職能祖神というべきもので、その職能の安全を 保護する神霊」 とし、また 「穢れを 除去する」 神と 説明している。
しかし、白山神社は、古来から、出産の神、安産の神として 祀られてきたという 事実が もう一方にある。
出産の神、安産の神である 『白山神社』 の神が、なぜ穢多の神になっていったのか、歴史学者も 民俗学者も 明確な説明を することができないでる。 被差別部落の人々でさえ、そのことを 説明することが できない。

『駒ヶ岳』 と 『白山神社』
そこで、『駒ヶ岳』 の所在地と、『白山神社』 の所在地を みた時、帰化人の存在と オーバーラップするのだ。

徳川家康 と 『源氏名』
秀吉から 国替えを 命ぜられた 徳川家康は、八月一日(陰暦の八月一日は秋風のたつ九月) に白衣を羽織って 江戸入りした。  
以後、八月一日の 江戸開都祭 の 「八朔の祝い」 では、諸大名や旗本は 皆 白上下を着て、江戸城へ伺候し、江戸城では 将軍から茶坊主に至るまで 白衣を着て、又 その日の 吉原の女郎衆も 白一色になる 行事が あった。
(ちなみに、女郎衆は 源氏系の 限定職で、白拍子も 同じ。 今でも 花柳界や 接客業界で 女性は 職業上の名を 『源氏名』 と称する伝統が ある。)

足利氏 と 源氏
先立つ 室町時代、明国に臣従の形をとっていた 足利氏は、仏教をもっての 人心教化方策として、片っ端から、ナムアミダと やらせていたが、白旗党余類の中でも 『騎馬民族系』 は、それに対抗して 韓(から)神さまを 信仰し、白頭山でも偲ぶのか、加賀の 白山さまを 各地に 勧請したのだ。

◎ すなわち、大陸東北部からの 移住 渡来人の 末裔たち・源氏系氏族が、白山を 信仰したのである。( 白=まわし=北方系=源氏系 )

黒 対 白 の 社会構造
江戸時代になっても、唐・高句麗系の 大和朝廷の貴族や仏教徒は、契丹系の 源氏を差別して 「西方極楽浄土を説く仏教徒」 等は、墨染の衣、つまり黒を身につけて 威張っていたが、江戸の天下では、旗本で 反仏的な 水野十郎左衛門などは 「吾々は 白系だぞ」 とのし歩き 「白衣をもって 対抗していた」 という 歴史的事実 が あるのだ。 北面の武士 以来、武は 貴族から 差別されてきたが、力は 逆転していた。

赤 の 倭
ちなみに、それより古い 八はた系は、土俗八幡の祠 を 作り、その辺りに、男性のものに 似た 陽石を並べ、これを 「道祖神」 として奉っていた。
(北の 『白』 に対して、こちらは 赤=赤ふんどし=海人系=平家系でもある )

覇権者 の 姿
事程左様に、大陸・半島・列島の 人的移動の 歴史の考察 が 不可避だ。 
そして、差別・被差別の 構造も、新しくて 古い問題であり、古代に 遡る、部族間の 問題なのだ。 
学者も、評論家も 決して 正面から 見ようとしない。 
東大寺の 古文書には、寺男を 銭で売買した 記録が あるというのに である。

◎ そこには、白村江の 勝者・唐の郭務宗と、その軍団と、やがては 追い詰められて 列島たへ来た百済系の貴族たちが、倭の 天皇家を 担ぎだし、以後1000年以上 後ろで巧妙に操って来た、覇権者の 姿が見て取れる。
そして、やがては、白山社まで 権力に取り込み、比叡の 配下にして いったのだった。
by hansaki460 | 2009-03-28 06:32 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)

青銅器

青銅器

はじめにご覧下さい。
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銅鐸・青銅器・新羅・倭
鉄器・頭槌剱・大和・
   ・装飾馬具・
いろいろ考えると・・・・眠れない。

いずれにしても、考古学を無視して 古代史は 語れないところまで きている。


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by hansaki460 | 2009-03-08 07:14 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

全国でも少ない 『 八華形鏡 』

全国でも少ない 『 八華形鏡 』

赤須彦が、倭武尊を迎えた時、八華形鏡と頭槌之剱を懸けて迎えたという。
八華形鏡は、数が少ない。


社伝記”美社神字録”にあるのを見てみよう。
記録を写したした人が違うので、二種類あります。

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次は、安布知神社に伝わるものです。
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神社の鏡は、踏み返しの鏡ですが、原型鏡を一緒に掲げます。
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最後に、似たものですが、集古十種にある、或蔵鏡です。
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ここから、判断をすると、美女ヶ森のものは安布知神社の物と同型だったと思われます。
八華形鏡は、唐式の鏡ですが、遺跡出土鏡には見られません。

分析は後日に。 資料のみ。

by hansaki460 | 2009-03-06 16:18 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)

古代文字の真実[6]トヨクニ文字とサンカ文字と中国の絵文字


初めにこれをご覧下さい。
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次はこれです。
戦前まで、実際に使われていたものです。
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これも同じで、書き留めたものです。
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ウエツフミの写真です。
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岩戸蓋石写真(昭和10年撮影)
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トヨクニ文字の読み方です。
カタカナの基だと言うことが、よくわかりますね。

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古代文字は、本当にあったのです。


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by hansaki460 | 2009-02-21 07:15 | 歴 史 秘 話 | Comments(1)