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信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎


まぼろしの吾道家 (2)

吾道家が伝えてきた【 霊宗道 】とは?

大御食神社の社伝記の記述の最後は村上天皇・天暦五年(951) 、阿智神社の社家が戸隠に移遷したのも同じ時期である。このことは、国の覇権が藤原氏のものとなっていったことに深く関わる。

■ 藤原氏の支配

伝教大師(最澄) が神坂峠を越えて信濃に入ったのは、弘仁8年(817)。そして広拯院(布施屋) を建てた。(叡山大師伝)  その後伊那谷には天台(比叡山) の寺が次々と建てられていった。

長岳寺が 弘仁年間(810~824) に、仲仙寺は 弘仁七年(816)に、光前寺が 貞観二年(860) に、そして瑠璃寺が 天永三年(1112) に、それぞれ創建され併せて荘園が設けられた。藤原氏は天台の仏教により伊那谷を支配していったのだ。

『今昔物語集』の「信濃守藤原陳忠落入御坂語」に、藤原氏一族の強欲ぶりが揶揄されている。
受領の信濃守藤原陳忠は、赴任の帰途の御坂峠で馬ごと谷に落ちたので 従者が谷を覗き込むと 篭を降ろせと声をかけてきた。言われるとおりに篭を降ろして引き上げると 本人ではなく平茸が篭に積まれていた。従者が呆れていると「受領は倒るるところに土をつかめというではないか」と言い放った。
・・・という。これは、当時の受領の有り様を物語る逸話だ。

■ 阿智神社神官の戸隠移遷

藤原氏が伊那谷を席巻し始めた頃の 文徳斉衡三年(856)、吾道之祝となった千幡彦のあとがなく、十世紀村上天皇の御代千幡彦の裔は 戸隠神社へ移ってしまう。

その後 十四世紀になり、別裔(大御食神社社家) の「常方」が阿智祝部を継ぎ、同時に大御食神社に於いて吾道家を継いだと思われるが、おそらくこれ以降、東嶺円慈和尚が探し当てるまでの間、阿智には吾道家の姿かたちはなかったであろうと思われる。それ故に吾道家は存続して来られたのかも知れない。

■ 吾道宮縁由
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それでは何故に吾道家は抹殺されたのか?

・『先代旧事本紀大成経』鷦鷯伝 巻十五 神皇本紀 上巻下 に こうある。
宗源(かんつもと) は正(まさごと) の至(きわま) り、斉元(かんついみ) は淳(きよき) の至(きわま) り、霊宗(かんつむね) は誠(まこと) の至(きわま) りにして三伝は総て敬(けだか) し。

・また『先代旧事本紀大成経』 七十四巻の天神本紀(九・十巻)には、
霊宗の天心、三神・三部の伝 (即ち是、天思兼命は 霊宗伝、天物梁命は 宗源伝、天太玉命は 斉元伝なり) 、天孫(亜肖気[ににぎの] 神を称す) 降臨し、日祚(あまつひつぎ) 璽(かんみしるし) を授け、元武神 (武霊雷神[たけみかづちのかみ] ・振威主神[ふつぬしのかみ]) は 祇(くにつかみ) を降し、祇は天(あまつかみ) に伏するの由を明かす。(『神代皇代大成経序』)

・霊宗道(かんつむねのみち) と云うは鎮魂の教えであり、これを伝えてきたのが吾道家だった。
阿智神社に所蔵される、伊豆竜沢寺東嶺和尚著の『吾道宮縁由』は、「本縁」「神書考」「引証」の三部からなり、霊宗道のことが記されている。

三部神道と申すは、
一には宗源道、是は 天物染命(アマツコヤネノミコト) を先祖とする。
二には斎元道、是は 天太玉命 を先祖とする。
三には霊宗道。是は正しく此大神 八意命 是である。
宗源は理りを極め、斎元は事を極め、霊宗は合道、心法ノ極と言って、開天ノ間天神七代ノ旨を説を宗源とし、盛天の時、地神五代の道を説の斎元とし、喪天の世、人皇万代の理を教 を霊宗とする。
次第を言えば、宗源、斎元、霊宗と言っても実は霊宗をもって真実とする。此の霊宗の道を明るめ、知らされれば、宗源、斎元、共に我手に入ら ない。此霊宗は心学にして、天照太神の教え、神道修行の事を司り、凡夫を導て神仙に成れる道である。そのため、此吾道の大神は八百万神の中には第一の智 神、功神、仰き崇むべきの神社である。

このように吾道宮縁由「本縁」では、思兼命を元祖とする 心学(鎮魂) すなわち「霊宗道」の教理を謳い挙げている。

■ 吾道家と伯家神道

Wikipedia によると 伯家神道は、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家によって受け継がれた神道の一流派で、神祇伯には 当初 大中臣氏が、後に藤原氏や源氏など 他の氏族も任じられるようになった。…とある。

古代の神祇伯は、大中臣氏、忌部氏、橘氏が主流であったが、花山天皇の子孫の顕広王が永万元年(1165) に神祇伯に任ぜられて以降、神祇伯を世襲してきた白川家は、吾道家の「霊宗道」の鎮魂の教義を簒奪したのではないのか?

だから18世紀に白川家八神殿の再興以降、吉田家の八神殿代が勅使発遣の祭場として用いられたのに対して、白川家の八神殿代は宮内省代として鎮魂祭の祭場とされたのである。
つまるところ、霊宗道(かんつむねのみち) =鎮魂、禊ぎの教を正統に伝えてきた吾道家の存在は、不都合だったのではないだろか?

伯家神道は、幕末から明治時代にかけて勃興した教派神道(神道系新宗教) 各派にも絶大な影響を及ぼした。幕末には、後の禊教の教祖である井上正鐡 や金光教 の教祖となった川手文治郎らが入門し、また伯家神道の影響を色濃く受けていた本田親徳の説く行法が、大本教の教祖として絶大なカリスマ性を発揮した出口王仁三郎の霊性の覚醒に一役買ったこともよく知られている。

ことほど左様に、伯家神道には絶大な影響力(実力) があったことは、霊宗道の霊宗道たる由縁だからではないかと推察する。
しかし現在、吾道家が存在した赤須の里にはその影もなく、まぼろしと化してしまった。

加えて、日本で一番古い家系である小町谷家は、今になって大御食神社の総代らによってこの地を追われたことは、歴史を知るものにとって痛恨の極みである。

つづく

by hansaki460 | 2017-05-28 09:27 | 幻の吾道之宮
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