信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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阿比留草文字で書かれた「大御食神社社伝記」を読む【01】

大御食神社社伝記【01】

【 纏向の日代ノ宮に 天下 治ろしめし給ひし、大足彦忍代別ノ天皇の御代、日本武尊 東の蝦夷ら征平和給ひて、美鈴刈る信濃ノ国を御還りましし給ひし時に、この赤須ノ里に至りましぬ。】

日本武尊がこの地に来た年は、大足彦忍代別ノ天皇の御代、とだけあり、年数は書いてない。明治十二年内務省達による神社明細帳には「景行天皇四十一年、日本武尊東夷を征和して、帰路を信濃に取りて、赤須の里に至り、云々」とある。

日本書紀では、「日本書紀 卷第七 四十年夏六月東夷多叛辺境騒動・日本武尊出動 冬十月壬子朔癸丑 日本武尊発路之(冬十月二日、日本武尊は出発された)」とあり、また東征の途中に冬の記述がないことなどから到着時期は「景行天皇四十一年」であろうと推定される。

纏向(まきむく) の日代(ひしろ) の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」,「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか? 同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。(播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。
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Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ) にあった筑紫の大宰 (つくしのだざいという役所) を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃) は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713) で、日本書紀の完成が養老4年(720) 。
倉野憲司や井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。
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by hansaki460 | 2016-08-28 21:03 | 大御食神社社伝記 | Comments(0)
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