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継体天皇(ヲホド王)は 大臣(オトド)の君?
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http://taikiosen.blogspot.jp/ かなり話題になる天皇である。(^^ 継体天皇(450-531?)は、日本の第26代天皇。諱は「ヲホド」という。 『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。 隅田八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある。 この諱、「ヲホド」を説明する説が今までにない。 まだ漢字が表意文字でしかなかった時代だから、やまと言葉を見ると、「オトド」という言葉が思いつく。 「男弟王」= オトド = 大臣の君 という。 『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。(Wikipedia) この『群臣の要請に従って即位』とあることから、このことを持って大臣の君というのかもしれない。 すなわち、出自をいうのではなく、選出方法を形容したのかもしれない。 この仮説は、一部からバッシングを受けそうだが、やまと言葉から日本語になる経過の中で、十分検討に値するのではないだろうか? ◇ 崇神天皇の時代、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。 そこで疫病を鎮めるべく、それまで皇室の氏神として天皇以外の奉幣は禁止されていたが、天照大神と大和大国魂神を皇居の外に移した。 天照大御神は、それまで天皇と「同床共殿」であり、これが「古神道」であった。 天照大神と大和大国魂神を皇居の外に移したことは、新しい宗教の形に移行したということだった。 新しい宗教形態が名実共に完成するのが、天武天皇の時代である。 天武天皇の時代に斎宮が制度化され、天武の皇女である大伯皇女が初代とされる。 これが「神社神道」の完成だった。 ◇ 『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。 この特殊な即位事情を巡っては種々の議論や推測がある。 『記紀』の記述を尊重すれば、継体天皇を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。 しかし戦後に、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖」とする説などが提唱された。 このような事情から、継体天皇の出自が常に話題となる。 継体天皇から始まる系譜を「近江朝」と表現する。 崇神天皇からの時代を「崇神朝」という。 継体は「応神天皇5世の孫」であるとし、応神は崇神朝の天皇である。 だから、崇神-応神-継体は、「古神道」の改革を進めた後継者たちであり、神社神道を完成させたのが、近江朝最後の天皇、天武天皇だった。 そして、天武天皇は記紀を完成させ、何はともあれ万世一系の皇統を確立し、正史とした。 ◇ 「男弟王」= オトド = 大臣の君 という記述は、神代文字で書かれた古史古伝にあるが、記紀の完成後、各地に伝わる古史古伝は、勅(みことのり)によって、焚書されてしまった。 もしかしたら、焚書に会った古史古伝には、もっと意外なことが書かれていたのかもしれない。(^^ 日本の言語学会は、漢字渡来以前に文字が存在しなかったとしているから、否定論に立つ学会の方針に逆らって研究する学者はいない。 また やまとことばの研究も進まない。 だから、上記の説はなかなか支持されない。(><; src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
by hansaki460
| 2014-04-16 20:49
| 地方史から見た覇権の姿
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