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[竹内文書を読む-01]二人の天照大神たたき上げの大工から、そこそこ大きい建設会社を作り上げた友人は、「蛇が家の中に飛び込んでくる夢を何回も見た」と、よく話していました。(^^) ・・・・・良い年でありますように! ◇ ◇ [竹内文書を読む-01] 二人の天照大神 新年にちなみ、天照大神について記したいと思います。 天照大神は、日本の主宰神として伊勢に奉られ、宮中には皇祖神として賢所に奉られる。 賢所(宮中三殿)は、明治時代初期に再興され行政機関の筆頭に置かれたところの「神祇官」が、附属の神殿とともに創建し天照大神を奉った。 古代の律令制で設置された「神祇官」は、仏教勢力の台頭により十世紀以降絶えたが、明治政府により復興した。 しかし再び、平安以来の仏教勢力の巻き返しがあり、「神祇官」は神祇省へ降格され、間を置かず廃止された。 これらのことは「日本とは?」と問ううえで、非常に重要な観点である。 さて、前置きはこのくらいにして、二人の天照大神について・・・。 正史とされる記紀のうち、古事記は「天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でた神の名は天之御中主神。」、 日本書紀は「天地が生まれる初め・・・天地の中に一つの物が生じた。・・それは神となった。名を国常立尊と言う。」 ・・とある。 一方、古史古伝には「竹内文献」「先代旧事本紀」「ホツマツタヱ」などがあるが、竹内文献には天地創造の歴史が書いてある。(このことは別稿で・・。) その「竹内文献」には、 ・天神御系譜(神代七代) ・神皇御系譜(皇統二十五代) ・鵜草葺不合天皇御系譜(不合(あえず)朝七十二代) ・神倭(かむやまと)朝(神武天皇~現在の総称) が書かれている。 その中の ・神皇御系譜(皇統二十五代)には、 4 代 天之御中主神身光天皇 22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇 (アマテラス) が記されている。 すなわち記紀には記されていない、神代・上代・不合朝の数十代(数百年)の時代があり、だから記紀の記述より数十代(数百年)前に、天照大神はいたという。 この方が、伊勢に奉られている天照大神で、はじめの天照大神様なのだ。 私は「竹内文献」を概ね事実であろうと思っている。 では、二人目の天照大神とは誰なのだろうか? 「ホツマツタヱ」にはアマテル(天照神)と言う男神がいる。 日の神、大御神、アメノミヲヤ、イセの神 (妹背の神) ともいい、幼名をウヒルギ (大日霊貴)、斎名をワカヒトといった。 アマテルに大日霊貴(おおひるめむち)の字を宛てたために女神とされ、だから天照大神男神説はここからでている。 先の 皇統 22代の 天照大神は偉大な女神であり、その記憶は永く語り継がれ、やはり偉人であった後の 大日霊貴(おおひるめむち)と同一視された。 七世紀に起きた『壬申の乱』は、天皇の座を巡り 雌雄を決する戦いだった。 勝者の天武天皇は、天照大神ー神武天皇の後継者として、その正統性を記すために記紀を作成し、伊勢の神宮を重用した。 (壬申の乱は、後の南北朝の争いの元ともなった。) その時、二人の天照大神は、一人とされた。 それが、七世紀における覇権の正統性を編集するのには都合が良かったのだ。 なぜなら、不合朝の七十二代を認めれば、壬申の乱で天武が仕上げをし、持統が藤原氏と簒奪した神倭朝(大和朝)に、新たな火種を残すことになるからであった。 すなわち、天照大神ー神武天皇の後継者として名乗り出る者は、いくらでも居たであろう。 そうすれば、戦いは いつまでも絶えなかったに ちがいない。 古史古伝や古代文字の焚書は そのための政策であった。 記紀の紀年を調べると、大きな矛盾が生まれてくるのも、覇権の正統性を巡る政策の 結果であった。 (字数が少なく、ちんぷんかんぷんの処があるかもしれませんが、だんだん深く掘り下げていく予定です。) .
by hansaki460
| 2013-01-01 00:00
| 竹内文献
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