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信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎


高句麗・新羅・百済は 今でも 違う国

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半島を方言で見る 古代と現代
(高句麗・新羅・百済は 今でも 違う国)


【朝鮮半島は新・三国時代へ】 という新聞記事が出た。
(産経 2012.4.14 ソウル・黒田勝弘)

朝鮮半島は 1945年、米ソによる南北分割で 南の韓国には李承晩政権ができた。
李承晩は 北の 黄海道出身で 親米・反共主義者として 知られた。

朝鮮戦争では 北からの多くの避難民が韓国に逃れてきた。
こんな経緯もあって 李政権下では北出身者が羽振りを利かした。

韓国政治が南出身者中心になるのは 1960年代の慶尚道出身の 朴正煕政権からだ。

ところが この朴政権に対し 金大中氏に象徴される全羅道出身者が反政府派の中心となり、韓国政治に東西対立がはじまった。

今回の総選挙でも、東(慶尚道)は与党、西(全羅道)は野党と 支持分布がくっきり分かれている。

もし 南北が統一したあかつきには 「 統一韓国の政治は 東西に 北出身者を加えた “三つどもえ” になる 」 という話もある。

歴史的にいえば、古代史の 新羅(東)、百済(西)、高句麗(北)による 三国時代の 再現である。

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そこで、方言の分布図と、三韓時代の地図を併せてみた。

平安道(へいあんどう、ピョンアンド)は、朝鮮八道の一つ。
高麗時代から李氏朝鮮初期には西北面と呼ばれており、太宗13年(1413)に平安道と改名された。
道の中心は平壌にあり、平壌府が置かれた。

咸鏡道 (かんきょうどう、ハムギョンド)
朝鮮三国時代の一国である 高句麗が領有しており、後に 渤海が領有した。
渤海が滅びると 北部は 女真族の地となった。
歴史的には 高句麗や 渤海が支配、高麗時代は 南部を除くとほとんどが 女真族の土地であったが、李氏朝鮮 世宗の時代に侵略して 併合したが、重要防衛拠点でもあった。
世宗の時代に 北境が確定した。

京畿道 (けいきどう、キョンギド)(含 黄海道)
紀元前 18年、三国時代以来、政治的に 大変重要な場所だった。
百済が 河南の 慰礼城を 首都に定めて以来、5世紀半ば 高句麗に併合されたり、553年 新羅の領土となった。
次の王朝である 高麗の 太祖 王健が 開城を首都に定めてからは、京畿地域は 歴史の 中心舞台として浮上し、1018年から 当地域を 正式に 「京畿」 と呼ぶようになった。

全羅道 (ぜんらどう、チョルラド)
全羅 北道と、全羅 南道に属する 羅州の頭文字。
金大中だけが 全羅道出身で、最大野党でもある 民主統合党(中道左派政党)の 強固な支持基盤となっている地域。

慶尚南道 (けいしょうなんどう、キョンサンナムド)
慶尚とは、慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた言葉である。

済州島(さいしゅうとう、チェジュとう)
15世紀 初めごろまでは 耽羅という独立した王国があった。

     ◇

朝鮮半島は、今でも高句麗・新羅・百済の影響が、強く残っている。
ということは、歴史的に大きな意味を持つ。

すなわち、高句麗・新羅・百済は、今でも違う国なのである。^^
by hansaki460 | 2012-05-08 07:15 | 歴 史 秘 話
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