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孤独は山になく街にある
過日、夜中の 1時に 電話が鳴った。千葉の A からだった。
「 おい、K が亡くなった。 さっき帰って来たんだが、脳卒中だった。」 K は 共通の友人で、小太りだった。 A の言うには、最近 そんな兆候があったという。 「 なら、忠告したら よかったのに!」 「 そう言うなよ。」 そのあと、孤独について話が出た。 K は 幸いにしてと言うか、子供と同居してたから 孤独死ではなかったが、夕方仕事から帰って、朝も起きてこなかった父親を訝った子供が ようやく発見したという。 「 結局、孤独死さ。」 A は、声を詰まらせていた・・・。 「 俺も お前も、一人暮らしだからな 」 「 だから 何んだよ 」 私は ぶっきらぼうに答えたが、A には 相当に こたえたようだった。 『孤独が恐しいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の條件によつてである』 と言ったのは、哲学者の三木清(1897-1945)である。 死が恐しいのは、死 そのもののためでなく、むしろ 死の條件によつてであるのと 同じである。 しかし 孤独の條件以外に 孤独 そのものがあるのか。 ・・・ 孤独 といふのは 独居のことではない。 むしろ ひとは 孤独を逃れるために 独居しさへ するのである。 ・・・ 孤独は 山になく、街にある。 一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の 「間」 にあるのである。 ・・・・ 孤独であるとき、我々は 物から滅ぼされることはない。 我々が 物において滅ぶのは 孤独を知らない時である。 最も深い 【愛に根差している孤独】 を知らない時、人間性は 情報や溢れる物質に 滅ぼされる ・・・・・と、喝破するのである。そして、 古代哲学者・アウグスティヌス(354-430)は、『植物(花)は 人間から見られることを求めており、見られることが それにとって救済である』 といつたが、表現することは 物を救ふことであり、物を救ふことによつて 自己を救ふことである。 かようにして、孤独は 最も深い愛に 根差している。そこに 孤独の実在性がある。 ・・・と言い、物(物質・情報など)に溢れた現代の我々に、自己を救ふことと、孤独の実在性を訴えているのである。 そう言えば、我が敬愛する 高村光太郎 の詩にも、こうある。 ・・・・・ あなたによつて 私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります そして 孤独を知りつつ 孤独を感じないのです 私は 今生きてゐる社会で もう 万人の通る通路から 数歩 自分の道に踏み込みました もう 共に手を取る友達は ありません ただ 互に 或る部分を了解し合ふ友達が あるのみです 私は この孤独を 悲しまなくなりました 此(これ)は自然であり 又 必然であるのですから そして この孤独に 満足さへ しようとするのです ・・・・・ ( 智恵子抄 人類の泉より )
by hansaki460
| 2012-04-26 02:22
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