信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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伊那谷の 壇ノ浦村と、源平秘話

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伊那谷の壇ノ浦村と、源平秘話


伊那市 長谷(旧 長谷村)の「 浦 」という集落に、平清盛の嫡男、平重盛(たいら の しげもり)の墓がある。

六波羅 小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし 小松内大臣ともいわれた。
だから、「浦」の部落や近くの部落には小松姓が多い。

平重盛公の墓所は 部落のほぼ真ん中に位置しており、春の彼岸には、小松氏と側近であった西村氏と共に、先祖祭を行っている。

十数年前、パワースポットの分杭峠から浦の部落に入った時、墓の廻りに平家の赤旗が立ち並んでいる光景を見た。
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これが平家の落人の部落と言われる所かと、同行者としばし佇んで、昔を偲んだことを覚えている。

この墓所は、市の史跡に指定されているが それによると、

『 小松氏の先祖が、平重盛であるか、平維盛(たいら の これもり)であるか、重清であるかは定かでないとしているが、平家の流れであることには間違いない。 
     ー 略 ー
また、この地区は古来 浦村といわれ、古老は「壇ノ浦村」と自称したりした。
小松氏一統の者は平家と同じように 宇佐八幡宮を祭っている。』

・・・・・と記されている。


     ◇


ところで、平氏一族は マレーシア方面から紀伊半島に、鉄器を持って漂着した部族であったという『説』がある。

そして彼らより以前に、やはり南方から来た平氏もいた。
それが北条氏らだ。

だから あの源平の戦いは、比較的新しく南方から来た彼ら平家を、それ以前に土着していた 北条氏らの古い平家一族が、源氏(頼朝や義経)という馬を扱う部族を使って放逐したのが あの源平の戦いであると言うのだ。

だから源平の戦いとは、本質的に “新来の平家” と “旧来土着の平家” との内ゲバであった。

平氏は赤旗を持ち、船を得意とした。
源氏は白旗を持ち、馬を得意とした。

これが紅白合戦の由来であり、やがて大陸からの外敵を打つために、源氏と平氏の侍達が 力を合わせたて戦った時に、源氏の白旗に平家の赤で丸を書いて作った旗が、日の丸だ。
(以前の日記に書いた)
【美しい 日の丸の話】 http://utukusinom.exblog.jp/13467711/



源頼朝は壇ノ浦の戦い(1185)で平氏を滅ぼしたあと翌年には 鎌倉で、「 遊女は、源氏の者に限る 」旨を発令した。

また幕府を開いたあとの、建久4年(1193)には、遊女屋 および遊女を取り締まるために、里見義成と 里見義成という 高名な武者に「 遊女別当 」を命じ、関東 関西に分けて受け持たせた。

この取締は 源氏系の遊女だけをエスコートして、権利のない女性(平氏系)にモグリ営業をさせない為なのである。^^

大正 昭和までの公認の遊廓や、今でも そこここに「 源氏名 」を持つ女性がいるのは、ここに由来する。

平氏も源氏も、日本の庶民であり、弥次さんは赤ふんどし、喜多さんは白ふんどし、そして「 赤勝て 白勝て 」と、高いところから 庶民を操って来た公家(今の官僚)らがいる。

・・・・が、歴代の皇太子が、遠泳をする時につける ふんどしの色は、赤である。
(天皇家=天孫は、元来海洋系原住民系統であり、公家貴族は渡来系であったという意味・・・。 異論反論歓迎します。^^)

 
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by hansaki460 | 2012-03-14 08:35 | 歴 史 秘 話 | Comments(3)
Commented by 感謝しております。 at 2012-03-14 10:30 x
管理人様
更新をして頂き、ありがとうございます。
私達家族はフクイチに近く事故後、有名になった村で豊かに楽しく毎日生活していた者ですが、私の出産のためもあり事故から二日後に離村し、今の避難地で新たな生活を営んでおります。
そんな私達ですので原発や放射能に対するトラウマや拒否感は並大抵ではなく、一般の方からしたら少し大袈裟に見えるかも知れません。

ですので、管理人様が公開して頂いていた情報が、いかに私達家族を勇気づけ安心させていただいたことか…改めてお礼を言わせて下さい。
更新、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。
Commented by hansaki460 at 2012-03-14 12:32
コメント、ありがとうございます。 私は、不安を感じる方々に、事実を正確に把握していただきたくて、計測結果を併せて掲載してきました。 先日書いたことは繰り返しませんが、ブログを書く折には、掲載させていただきます。 【 管理人: 史郎 】
Commented by よもぎぱん at 2012-03-14 14:47 x
管理人様はじめまして。
いつもありがとうございます。私は南相馬市出身です。昨年の事故直後、飯田広域の皆様が迅速に避難を受け入れてくださり、家族が大変お世話になりました。私は被災しておりませんが、これから地元の復興に協力していくつもりです。長野の皆様にはご恩返しが遅れるかもしれませんが、息子の代になっても忘れないように言い聞かせて育てます。
長野の皆様には大変感謝しております。

管理人様もご存知と思いますが、南相馬市は平将門が起源とされる相馬野馬追祭りの里です。南信が古代の馬産地だったことに、深いご縁を感じております。
本日の記事を読ませていただき、お礼を兼ねましてコメント致しました。
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