信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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六世紀、賄賂を貰い 国を割譲した話

六世紀、賄賂を貰い 国を割譲した話

古事記などから推察すると、素戔嗚尊は、九州から出雲へ行き、その後 半島へ渡った。

前九世紀頃に、天之御中主之神や 天照大御神らの 偉人たちが治め、やがて日本国の基となった 南九州の高千穂国は、その後 倭国へと移行していくが、その勢力範囲は、前7~6世紀 には 半島南部・北陸・出雲・北九州を 包含していたと推定される。

九州 中央部に 勢力を誇った 卑弥呼の 邪馬台国の時代を経て、3世紀以降になると、覇権の中心は 北九州に 移った。

その頃 半島の 任那の地は、住吉神が 応神天皇に授け、神皇皇后と武内宿祢が 国ごとに 宮家を置いて 治めていた。

また日本書紀によると 神功皇后摂政の時には、対新羅外交官として活躍した 千熊長彦は 武蔵国の人で、将軍として活躍した 荒田別、鹿我別も 毛野国の人で、東国の人が外交官や 新羅討伐軍の将軍として活躍している。

このように、倭国は 任那を 倭国の一部と 認識していた。

ところが、六世紀の 磐井の乱の前、継体六年(512)冬十二月、百済は 遣いを送ってきた。
そして 任那国(伽耶)の四つの県の割譲を願い出た。

当時の外交官の 穂積臣押山は、
『 この四県は百済に近くて、日本から遠いから、百済に譲渡したほうが安全だ 』
と 大伴金村に 任那四県の百済委譲を進言し、大伴金村は、これをもっともだと考え、さらに 継体天皇に進言した。

「 賜物(たまひもの)とあわせて 制旨(みことのむね)を付(さづ)けて、表(まうしぶみ)によりて 任那の四県(よつのこほり)を賜ふ 」

継体天皇は 四県を譲渡した上に、贈り物をあげ、御言葉までつけたという。
いわば、戦争して獲られたということではなく 百済に 委譲されたのだ。

本来ならば、それは売却か 無償譲渡ということになるが、書紀では、継体6年 大伴金村と 穂積臣押山が 賄賂をもらって、任那四県を 百済に譲渡した、という噂が流れたと記している。(事実とは書いてないが・・。^^;)

当時 この事を諫めたのは、宣勅使に任命された 物部大連麁鹿火(あらかひ)の 妻であった。
『 病と偽り、勅使を断りなさい 』 と・・・・。

しかし結局 他の勅使によって 勅は伝えられた。
当時の外交は、現代の隣国関係との環境に似た、いや それ以上 複雑だった。
そして、売国奴も 存在したのである。
by hansaki460 | 2010-09-21 08:08 | 歴 史 秘 話 | Comments(0)
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