信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
e0171497_18581696.jpg


HP
まぼろしの
吾道之宮


e0171497_1725895.jpg

   発売中



 今日も 応援クリック
 ありがとうございます

   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村 







google36ed5a3dddf221d0.html
ブログパーツ
以前の記事
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
more...
カテゴリ
全体
やまと言葉
幻の吾道之宮
和歌姫 吾道彦
大御食神社社伝記
神代文字
古代文字便覧 
竹内文献 ホツマツタヱ 古史古伝
歴 史 秘 話
地方史から見た覇権の姿
一般
未分類
最新のコメント
唐・新羅進駐軍の唐側代表..
by 旅人 at 04:53
これが高学年の問題であれ..
by 通りすがり at 02:55
当方のブログに関しまして..
by hansaki460 at 07:23
三毛猫さんが書いているこ..
by moon33magic at 16:05
高良大社とは、朝鮮神社、..
by moon33magic at 11:25
その他のジャンル
外部リンク
記事ランキング
ブログジャンル


真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》 

真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》 

御柱祭が始まりました。
伊那谷の多くの諏訪社でも、御柱祭が行われます。
諏訪社は建御名方命(たけみなかたのみこと)をお奉りします。

建御名方神の出自については、記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。
妻は八坂刀売神とされている。 (Wikipedia)

そして、諏訪へは北から入ったと云われます。

◎ しかし・・・古代文字で書かれた伊那谷の大御食(おおみけ)神社の社伝記には、こう書かれています。

『御渡りの神は建御名方神なり。 
 御国巡りの時 「奇(き)しび 杉なり」 と 詔らせ給いて愛で 給いし故に、
 国人の斎(い)き奉れるなり。 
 天津御許の神故に 斎き奉れるなり。』

すなわち、建御名方神は、「天津御許(あまつみもと)の神」である、と書かれています。


高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主の子を、伊那谷にいた高皇産霊神ファミリーは同族と見なしていています。現代では出雲系は国津神とされていますが、古代は天津神系という認識でした。

また、伊那谷の大鹿(おおしか)村鹿塩(かしお) には、もともと諏訪本社大明神と呼ばれた、葦原(あしはら)神社が在ります。
すなわち 建御名方神は、大鹿村の鹿塩から諏訪へ行ったと云うのです。

また、大鹿村 鹿塩の塩泉は、建御名方神が鹿狩りをしていて発見したという伝説や、諏訪大社の御頭祭での席順は、鹿塩が最上位の席という事実が あります。

e0171497_1937424.jpg


それに隣の豊丘村には、御手形神社(佐原諏訪神社)があり、社伝には こうあります。 

太古 御国譲りの際 建御名方命と武甕槌命(たけみかずちのみこと)と 力競(国譲りの争)の事があり、建御名方命は 遠く この地まで逃れ来り、これを追い来った武甕槌命に対し 国を譲り、その誓いの印として、傍らの石に 互いに手形を残されたと伝え、この石を 御手形石と称え、この付近の地名を 追の久保と言う。

もちろん御祭神は、建御名方神 と 武甕槌神 です。
e0171497_19373954.jpg


以上のことから、建御名方神は伊那谷を 北上しました。
e0171497_19382582.jpg

また、上社神職の「神長官」守矢家では、八華形の御鏡を用いて神事を行いましたが、八華形(やつはながた)の御鏡は、古代から天思兼尊系の神社に伝わっていました。

  ◇ これだから、古代史の探求は 止められません。(^^  ◇
[PR]
by hansaki460 | 2010-04-02 19:39 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)
<< 伊那谷に 筑紫神社 があった! 身近にある『古代史の真実』 (... >>