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真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》
真説 建御名方命 《御柱祭に寄せて》
御柱祭が始まりました。 伊那谷の多くの諏訪社でも、御柱祭が行われます。 諏訪社は建御名方命(たけみなかたのみこと)をお奉りします。 建御名方神の出自については、記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。 妻は八坂刀売神とされている。 (Wikipedia) そして、諏訪へは北から入ったと云われます。 ◎ しかし・・・古代文字で書かれた伊那谷の大御食(おおみけ)神社の社伝記には、こう書かれています。 『御渡りの神は建御名方神なり。 御国巡りの時 「奇(き)しび 杉なり」 と 詔らせ給いて愛で 給いし故に、 国人の斎(い)き奉れるなり。 天津御許の神故に 斎き奉れるなり。』 すなわち、建御名方神は、「天津御許(あまつみもと)の神」である、と書かれています。 高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主の子を、伊那谷にいた高皇産霊神ファミリーは同族と見なしていています。現代では出雲系は国津神とされていますが、古代は天津神系という認識でした。 また、伊那谷の大鹿(おおしか)村鹿塩(かしお) には、もともと諏訪本社大明神と呼ばれた、葦原(あしはら)神社が在ります。 すなわち 建御名方神は、大鹿村の鹿塩から諏訪へ行ったと云うのです。 また、大鹿村 鹿塩の塩泉は、建御名方神が鹿狩りをしていて発見したという伝説や、諏訪大社の御頭祭での席順は、鹿塩が最上位の席という事実が あります。 それに隣の豊丘村には、御手形神社(佐原諏訪神社)があり、社伝には こうあります。 太古 御国譲りの際 建御名方命と武甕槌命(たけみかずちのみこと)と 力競(国譲りの争)の事があり、建御名方命は 遠く この地まで逃れ来り、これを追い来った武甕槌命に対し 国を譲り、その誓いの印として、傍らの石に 互いに手形を残されたと伝え、この石を 御手形石と称え、この付近の地名を 追の久保と言う。 もちろん御祭神は、建御名方神 と 武甕槌神 です。 以上のことから、建御名方神は伊那谷を 北上しました。 また、上社神職の「神長官」守矢家では、八華形の御鏡を用いて神事を行いましたが、八華形(やつはながた)の御鏡は、古代から天思兼尊系の神社に伝わっていました。 ◇ これだから、古代史の探求は 止められません。(^^ ◇
by hansaki460
| 2010-04-02 19:39
| 地方史から見た覇権の姿
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