信濃國 大御食ノ社に伝わる神代文字で書かれた「美しの杜社伝記」を解明してます。
by 史郎
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『 百済 』 の 姿

『 百済 』 の 姿
◎ 半島南部、前三世紀~前二世紀に、辰国(しんこく) がありました。
元は、中国の東北地区(旧満州)北部の 松花江流域の扶余系の騎馬民族で、南下して一部が 前高句麗となり、一部は 「夫余」 の姓を名乗りながら 朝鮮半島南部に 「辰国」 を建てたとされ、鉄器時代国家で、細型銅剣文化を有する農耕社会だったと推測され、その一部は 『百済』 となりました。

◎ 歴史の記録上の百済は、346年・近肖古王即位から、660年の唐・新羅連合軍に百済が滅ぼされ、663年に倭国の百済救援軍が 白村江で唐軍に大敗するまでとされています。

『史記』 『漢書』 『資治通鑑』 『三国志』 『後漢書』 では、辰韓、馬韓、弁韓の三国の起源が 「辰国」 にあるとしています。               (図は5世紀末の半島)
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◎ 騎馬民族征服王朝説では、辰国の王は 扶余族の系統であり、その末裔の一部が日本の皇室の祖であるとしています。

◇ 私見ですが、崇神朝が それにあたるのでは? と思います。
その後景行天皇と、南系原住民の豪族の妃との子・倭武尊は大国主、出雲族等と日本の統一に奔走しました。
天照大神の弟・素戔男が半島へ行ったのは史実だと思うし、その時代は国という観念ではなく、部族 という 共同体であったと思います。

◇ その頃は、朝鮮半島南部にも 「前方後円墳」 が分布し、九州北部にも 「朝鮮式山城」 が 分布しました。
つまり 朝鮮半島南部と 九州北部で一体の 文化圏でした。
その中に百済があり 任那(伽耶)があり 耽羅があり 末羅があり 伊都があり 狗奴があり その他もろもろが あった。
主導権争いを 繰り返しつつ、唐の遠征による百済の滅亡で、文化圏の境界は半島の南岸 以南へ後退した。
・・・・という時代でした。

以前からこの地域へは、南方からも 多くの部族が 入っており、倭グループを構成していました。

◇ なお、天皇陛下のゆかり発言で有名になった 桓武天皇(781-806)の母親の高野朝臣新笠は、10代前に渡来した25代百済王(501-523)の子孫で、五世が日本に帰化した 百済系の 十世でした。
こう見たとき、七世紀以前の百済に 強く郷愁を感じる、今の韓国の人たちの心情が奈辺にあるか、知りたいところです。

◎ 百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む 数千の百済人が倭国に亡命し 一部が朝廷に仕えました。
豊璋(*)の弟・善光(または禅広)の子孫は 朝廷から 百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済王氏は 8世紀に敬福(きょうふく)が黄金を発見し 東大寺大仏造立に貢献するなど 日本の貴族として活躍しました。

(*)前に書いた 『多神社』は、豊璋と深い関係があり、宮中に奉祀していた天照大神を一時的に祀った最初の場所という伝承を持つ場所です。http://utukusinom.exblog.jp/10416361/
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by hansaki460 | 2009-09-22 05:18 | 地方史から見た覇権の姿 | Comments(0)
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